日記9月
戻ります


9/30
テレ東で「決断、あの一瞬」という政治ドラマやってました。
昭和の政治家群像を描くとの宣伝の割には、内容は三木武吉氏の権謀術数の描写に終始。
番組の主題自体が政治ドラマなので、内容自体に問題はなし。
番組の流れは、GHQ統治下の吉田内閣から、55年の保守合同まで。
(番組によれば)GHQとの強調による復興を目指した吉田と、自主自立を目指す鳩山・三木の抗争。
直接的には鳩山が公職追放で敗北するわけですが、吉田の勝利の真因はGHQとの協調が妥当な政策であったから。
そして自由民主党の成立は、革命勢力から日本を守るため。
番組自体は、「政治ドラマ」という浅薄さを標榜している。
しかし根底として最も合理的な選択肢が時代に選ばれる、という明確な価値観に基づいて編集されているのが大変に好感をもてました。
歴史を振り返るにあたって意味があるのは、普遍性を持ち抽象化の可能な政治の価値観であって、個人ではないだろう。
この時代の政治の選択は極めて見事だと思うし、終局的にその判断を下したのが主権者の総体としての国民であることは驚異に値するように思われる。
愚民論とは、それを抱く人間が愚かであることを証明するために存在するのかもしれない。
「リベラル」とは、政治決断において効率性と正義のいずれに重きをおくか、の比率をいうのだと私は考えている。
正義という語自体があいまいだ。
が、法哲学一般に承認される定義として「等しきは等しく、等しからざるものは等しくないように扱うべし」というコンスタンティヌス法典内の言明がある。
そして問題は、何を持って「等しい」と考えるかにあるらしい。
話題を戻すと、一般に「リベラル」と日本で自称する諸団体は、著しく現実味の無い主張を繰り返し、無責任だった。
共産主義も問題意識自体は尊重されるべきだが、方法論が破綻している。
この様な団体が政権を担当することが無かったのも、やはり総体としての国民が賢明であったからなのだろう。
民主主義は次善の策といわれるが、プロレタリアート独裁よりは進歩的な政治制度であろう。

9/29
帰宅後テレビをつけますと、たけしの「まるみえ」で人体特集らしきものをやってました。
脳の特集部分がなかなか興味深かったので、感想を少々。
「右脳が無いのに生きている少年」というものが登場。
頭の右半分が完全になくなっている画像がテレビに映ったのはちょっとびっくり。
最も驚かされたのは、彼が事故で右脳を失った年齢が、14歳とかなりの高齢であること。
私が脳機能に関して最も印象的であったのは、養老武氏の言葉。
「極端な可塑性は、不定形と同じである。」(唯脳論から)
氏の理屈が極めて単純明快なので、ここに少々。
「脳は各部位ごとに、それが司る部位が確定されている。
それは、生物の進化の歴史に由来する。
たとえば、目ができたときには目を司る機能部位がが神経中枢に追加。
この様に、生物が新たな器官を獲得するにつれ、中枢神経にもそれを司る部位が増えていいった。
従来の部位が、新器官を統御することは無い。
一対一対応がもっとも単純であり、生命は最も単純な原則に従うからである。」
以上が彼の言説なんですが、これに従えば右脳が欠落すれば、それに対応した身体機能も失われれるはず。
右が無くなれば左がそれをカバーできる、というほど人間の脳は可塑的でない。
そこまでの可塑性を認めるならば、もはや脳の機能分析など学問ではない、ということが彼の主張。
つまり、脳の可塑性はあくまで例外事項、ということらしいです。
以前のNHK特集「驚異の小宇宙人体、脳と心」で、2,3歳の幼児期に大脳の多くを失いつつ生存している症例が報道されていました。
この年齢ならば、脳はまだまだ発育途上なのでこの可塑性も、不可能ではないとの事。
ただ、今回の「まるみえ」の症例は14歳。
脳発育の最終段階といってましたが、あくまで例外的事例なんでしょうねえ。
この場合、「例外」は「奇跡」と呼んで、希望とするのが正しい評価なのかも。
もう一つ面白かったのは、知的障害者でありつつ芸術方面での驚異的才能を発揮する場合の理由。
(サヴァント症候群というらしく、全世界に100例ほどあるらしい)
この様な事例が生じるのは、幼児期に脳に障害を負った場合に限定されるそうです。
この障害で死滅した神経細胞の跡地を埋めるべく、近接する他の領域を司る神経野が膨張するそうで。
この膨張した大脳野の司る領域の機能が、その面積増大に伴って驚異的に伸張するそうでした。

9/28
先ごろ、国立西洋美術館の「レンブラントとレンブラント派」展に足を運びました。
思えば、最近テレビで妙にレンブラントの特集が多かったのもこのためか。
今朝は教育テレビのの新日曜美術館がこの展覧会でしたね。
解説が交えられるので、復習気分で見てました。
美術展といいつつ、やっていることはハリウッド映画の公開直前にその特集番組が増えるのと同じことですなあ。
まあ、どんなに安直な動機であれ、それを機会に接することそのものが本質。
解説によれば、レンブラントの特色は「レンブラントライト」なるものにあるらしいです。
こちらを参照頂ければ、彼の作品が解説つきでご覧になれます)
「暗闇の中、中心人物の顔に光を当ててそれのみを浮かび上がらせる。
それにより、魂の奥底までを描いた。」
のだそうです。
正直なところ、私にはその評価が妥当なのかどうかは理解できませんでした。
ただ、確実なのは次の点です。
「彼の表現では、光のあたらない部分は薄暗く、ほとんど判別が不可能である。
したがって鑑賞者の視点は、否応無く中心人物の表情に収束することとなる。」
鑑賞者に表情の解釈という作業をあるいみ強制する機構、それがレンブラントライトなのでしょう。
(ええっと、不謹慎ですが、中心部以外は書き込まず手抜きができる・・・・・・・)
人物の表情となると、そこに書物のような客観普遍情報は存在しません。
解釈者が、その人生に照らして、それを読み解こうとする努力があるのみ。
優れた文学作品は読者に複数の解釈の余地を残すものですが、その極地が絵画なのでしょう。
ですので、一度見たに過ぎない私にレンブラントの描こうとした魂の内奥がわかるはずもなし。
折に触れてあの絵を思い出し、その意味を考えてみるというのが正しい接し方なのだろうと思います。
人生経験をつまないと、わからないだろうというのが正直なところ。
少々私でも理解できたのは、彼の表現様式の変遷。
若いころほど明暗の対比に、細部の書き込みといういわゆるレンブラントの特色に忠実。
これが晩年の作品になるにつれこの原則が緩やかになってゆきます。
論語にいうところの、「己の欲するところに従えども則を超えず」というのはこういうことなんでしょう。

9/27
本日の美の巨人たちは、アルブレヒト・デューラー。
彼の銅版画を見ました。
あれは狂気に近い創造行為。
圧倒的な美に接するとき、人は畏怖を覚える。
閑話休題。
宅間守氏の死刑が確定したそうで。
彼を見ていると、地獄というものがよくわかるような気がする。
自己閉鎖による隔絶こそが、地獄の真の意味なのだろう。
彼は死によりそれを終わらせることを望んだ。
どことなく、わかるような気がする。
この様な事件があるたびに、それを弁護する行為に非難が寄せられる。
「あのような犯罪者は死すべきであり、弁護するヤツは頭がおかしい。」と。
一般の方がそのように考えられるのは、十分に理解できる。
問題は、大多数の報道機関の側にある。
彼らは、意味を理解しているにかかわらず、真相を語らない。
宅間守でさえ弁明の機会が与えられるということは、法体系そのものを守ることが目的になっている。
そして体系を守ることは、究極的に人権保障を目的としたものであるはずなのに。
この刑事手続きが守られなかった戦前において、特別高等警察等のどれほどの人権蹂躙があったことか。
それ故に、刑事訴訟法にとどまらず、日本国憲法そのものが31から40条に刑事手続きの規定をおいている。
何故報道機関は、この最重要事項を語らないのか。
視聴者は理解できないからと、馬鹿にしているのだろうか。
確かに簡単ではないと思うが、難しいならば何時間も、何年もそのことを語り続ければいい。
専門に学んだものでなければその視点を持つことは無いかもしれない。
しかし、そのような原則があることさえ知れば、人は誰でも自分の力で考えることができるようになるもの。
忙しい人に、新たな視点を提供する。
その役割を果たすことが、報道機関の責任ではないかと思う。
ちょっと方向は変わりますが、刑事裁判における被害者の尊重って、それは司法の役割ではないと思う。
立法府の仕事でしょう。
司法が被害者をどうこうしようということは越権行為であって、立法府ひいては国民への侵害行為だ。
立法府が、犯罪被害者を手厚く保護する立法を行うことのみが、解決手段であるはず。
それが三権分立というもの。

9/26
最近思うこと。
パレスティナのアラファト氏に関してです。
昔は、というか幼いころは、というかここ数年前まで、彼は英雄だと思っていました。
ところが最近の報道はあまり芳しくないものが多いですね。
イスラエル当局の言うところの、彼はテロに後ろで手を回している・・・。
当局はアラファト氏の排除、殺害も有力な選択肢の一つと認識・・・・・。
などなど。
実のところ、最近「彼はテロの黒幕である」という報道に対し、かなりの程度まで私もそのように感じています。
多分彼って、単なるパワーシーカー(権力追求者)なんだろうなあと。
ある時期までは、彼の権力追求と、パレスティナの利益が一致していたのでしょう。
第一次の中東戦争のあたりから、アラファトラビンの自治合意までがある意味彼にとっての黄金時代だったのかな。
今の彼は、自分の権力保持のために、意図的にイスラエルとの紛争を持続させている節が濃厚です。
残念ながら、もはやパレスティナの自治政府とアラファト氏個人の利害は完全に背反しているとしか考えられない。
先のアッバス首相の辞任劇が印象的だったなあ。
「老害」という言葉が、もっとも彼の形容に適切。
かといってアッバス氏はパレスティナの民衆の間では相当支持率が低かったらしい。
彼しかまとめられんのでしょうか。
(もっともアラファト氏が意図的にアッバス氏ら良識派の人気を低める活動をしているのでは?)
このまま放置しておけば、原理主義が浸透してゆくんだろうなあと。

9/25
昨夜の続きです。
いわゆるオカルト一般の知識として、「リリス」なるものが存在しますよね。
(エヴァンゲリオンの第一使途もこれ)
このリリスは、アダムの最初の妻と言われる存在です。
アダムの妻はエヴァではなかったのか?
その疑問を、出展の聖書の創世記に求めましょう。
第一章の27に、「すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された。」との記載があります。
ところが第二章の22に、「主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り」という記載もあります。
一般的にエヴァは後者の際に創造されたといわれるので、前者の女とは何かという疑問が生じます。
この文理上の矛盾を深く突き詰めた(根拠なしに勝手に読んだ、もしくは考えることをしなかった)人々は、その記述を文字通りに受け止めました。
つまり、アダムにはエヴァ以前に妻がいたに違いない。
これがリリスの出自です。
この後はもう、妄想の世界ですね。
リリスは淫乱であったのでアダムに遠ざけられた、リリスは悪魔であった、アダムとリリスの間にリリンが生まれた・・・
ところでユダヤ教の経典の編集は紀元前6世紀のバビロン捕囚以降。
そのころの執筆陣には、4つの学派が存在したことが考証されているようです。
・ J学派、神をヤーウェと呼んだ。
・ E学派、神をエル(エロイ)と呼んだ。
・ D学派、申命記を継承。
・ P学派、祭司派
これらの四学派は、それぞれ異なった伝承を持ち、それを一つの書にまとめたのがユダヤ教の聖典。
(ある程度の学識をつめば、誰でも一目で各文章をどの学派が執筆したかは容易に判別できるらしい。)
この編集過程には、各説を矛盾背反にかかわらず、そのまま一つにまとめるという手法が採用されました。
その手法の意味自体、私のごときに理解できるものではないでしょう。
ただ、その結果として、上記の「リリス」なる奇妙奇天烈な存在が誕生した模様。
以前多大な興味関心を抱いていた人間だからこそ思うこととして、「オカルト」は底が浅い。

9/24
昨夜の秋刀魚をつつきながらの話の再録ですいません。
最近知った、語源の話です。
「ディアブロ」という語がありますよね。
いわゆる「悪魔」と訳される語で、英語だと「デビル(devil)」になる単語です。
(私は英語以外を解さないので、他の言語はカタカナ表記です)
この語は、構成としては「シンボロ」という単語の否定形であるそうです。
「シンボロ」とは、英語で言えば「シンボル(symbol)」です。
意味は、「統合、一体」など。
我が国でも、憲法1条を見れば「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」とあるのは、この本来の「一体性」という意味に忠実ですね。
それで、この「シンボロ」の否定形である「ディアボロ」は、「分離、背反」といった意味。
学説的にも象徴的に解釈されるべきであるのが、「エデンの園」の逸話。
この時代、人は心を造物主に向けていたわけであり、そこは「シンボロ」の時代。
そして人が心を己に向け、男と女が心を隔てた事件、それが「ディアブロ」。
(言語は根底に宗教的な意味を含む場合が多いのが面白い。)
この「分離」こそが「ディアブロ」の本当の意味だったようです。
この意味をわかり易く説明する為に、「ディアブロ」の擬人化が行われました。
すなわち、我々が考えるところの「悪魔」はこの過程で誕生した模様です。
意味を平易に理解できるようにすることは大切ですが、その過程で手段が独り歩きを始めることが往々に生じるようです。
今回の悪魔などが、その一番明白な例なんでしょうね。
蛇(悪魔、ルーシファ)が女をそそのかして知恵の実を食べさせるという例を使って語ると、その表層のみに流れてしまう人々が多くなってしまうようで。
なんでも、密教にいうところの「大日如来」も、宗教的な真理を擬人化したものだそうですね。
大日如来の像を必死に拝むことは、敬虔にして尊い行為だと思います。
ただ、真理を悟るという本来の意味とはずれていることも、我等の理性が教えるところ。

9/22
小泉首相が新組閣をなさったそうで。
管氏や土井氏の、組閣の趣旨が政策ではなく選挙対策にある、との発言がありました。
おそらくそれは事実として妥当な評価でしょうし、野党としての立場にあれば至極妥当な発言と思います。
事実我々主権者たる国民は、政治は何らかの高次の理念を持つ人間によって担当されるべきであると考えるものです。
ただ、そこには無視されるべきではない重要な観点があります。
政治は、結果において評価されるべきであるという、至極当然な視点です。
諸利益の対立と権力追求。
高次の理念達成に必要ならば、目前のそれらの処理に手段は選ばれるべきではない、というのも当然の指摘でしょう。
指導力維持のために、党内パワーバランスを組閣に反映する必要があるならば、今回の人事も理由があるものと評価できます。
この点を雄弁に語るのが、古代アテネの歴史ではないかと私は思います。
アテネの前5世紀後半は、ペリクレス時代と呼ばれます。
ペリクレスとはその時期の指導者の名。
このペリクレスとは、徹底的な貴族主義者であり、エリートであり、優秀な頭脳の持ち主でした。
利益の分配と参政権の拡大という、「民主制」とされる手段を駆使して、将軍としてアテネの最高指導者の座を保ち続けたのです。
(彼は観劇に日当を出したのですが、今日流にいえばバラマキ以外の何者でもないですね)
そして自己の意思を、民会を誘導し、民衆自信の意思と偽装させて次々と成就させました。
彼の時代に無産市民が参政権を獲得し、民主制の頂点と後に呼ばれることになります。
この時期にアテネに来訪したローマ使節団は、アテネのことをペリクレスの独裁国家と評しています。
つまるところこの歴史が教えるのは、手段動機は何であれ、政治は結果で評価されるものだ、ということでしょう。
貴族主義者であれ民主制を実現することはできました。
イギリスの選挙制度改革の歴史を見れば、金権腐敗にまみれた議員たちが厳格な選挙制度を成立させた事実もあります。
小泉閣下、手段を選ばず、ご自身の理想を実現してください。
どうしてメディア(特に民放)はパワーバランスのことばかり報道するのだろう。
視聴者を馬鹿にしているように感じられます。
国民の選択肢は、地上波に関しては、NHKしかないですね。
テレビ東京の報道は質はいいと思いますが、絶望的に放送エリアが狭い。

9/21
降り続く雨というと、いろいろなことを考えさせられます。
台風が来ているとかいうのに、雨の夜の不忍池を散策してました。
誰もいないんですが、広い視野の中ライトアップされる弁天堂が好きでした。
大学のころも、つまらん講義のときはよく友人と散歩したなあと、思ってみたり。
こういうときは、なぜか感傷的になるもの。
「カーペンターズ」の「yesterday once more」をついつい口ずさみながら。
次に思い出したのは、スティングの「englishman in newyork」
初めてこの曲を実感とともに聴けたのは、予備校の寮に入っていたときだったかな。
今はそれから長い年月、多くを学び、多くを失い、でもこれからだと。
この曲と並んで自分の心情に合っているのが、「サイモンとガーファンクル」の「ボクサー」。
私音楽は最近ほとんど聴きませんが、こういうときにはよく口ずさんだり、口笛で吹いてみたり。
よき音楽は、メロディーのみならず、詩に深みが必要ですね。
初めて聴いたときから10年をはるかに越える時間が経過してますが、少しづつその意味がわかってくるように思います。
年をとったかな。
この世に、祝福を。

9/20
最近私、好きな番組があります。
教育テレビで土曜朝のドラマ、「天使みたい」という代物。
(実は今NHKのホームページを見て、初めてこのドラマのタイトルを知った)
多分、今までに3回ぐらいは(パソコンに向かいながら)聞いてます。
何がよいかというと、痛々しさがたまりません。
原作はどうやら漫画らしいですが、それを実写化。
主人公がロボット少女らしく、その年代の女優さんが必死に痛々しい声を出してます。
「かなた、行くのだ」とか、綾波レイから知能指数を200くらいマイナスしたような声です。
ストーリーも、恋愛話のはずが「ラボ」とか「思考回路がオーバーフロー」とか「かなたの人格がデリート」とか。
一見深い設定がありそうで、実は作者が何も考えていないことが明らかな点もエヴァそっくり。
おそらく、原作の漫画の時点では、それなりに成立している作品なのでしょう。
それを無理に実写化することですべてが破綻。
完全なギャグドラマです。
やはり実写は最高の贅沢と感じるところ。
ハリウッドの思想の根本のひとつにそれがあり、私も少しづつそれが理解できてきた年頃です。
2003年度番組大賞は、「天使みたい」に決定。
2002年度は多分「シスタープリンセスリピュア」。
そういえば私、最後にみた(実はこれ以外見たことない)ドラマって、「おそるべしっっっ!!!音無可憐さん」でした。
こういうふうに、楽しく笑える番組がもっと増えるといいなと願うところ。
私あの「東京ラブストーリー」って今までに3回しか見たことが無い(チャンネルを合わせたことが無いという意味)です。
正確には、テレビをつけるとやっていた、ですね。
ところがその3回が全部「ねえ、かんちー、セックスしようよー。」という台詞のあたりでした。
私あのドラマまったくストーリー知らないのに、ここだけ知ってる。

9/19
最近の文書は、専ら自分の読書録です。
読んだ内容を記憶し、自らの言葉で表現すること。
それが習得要素の内面化を促進してくれます。
間違っていてもかまいません。
誤っていれば、後により妥当な理解を抱いたときには、それがより記憶に定着するからです。
昨日、革命的な認識を得ました。
世界が広まったと、確信した瞬間です。
「信仰」という要素にかかわるものです。
「罪」とは、造物主からの離脱であり、その原因は人間の自己閉塞にある。
ならば「罪」から離れるとは、自ら離れ去ったものに戻ること、すなわち心の解放。
たったこれだけなんですが、その理解には膨大な過程が必要でした。
いわゆる「信ずるものは救われる」という言説、この意味がようやく理解できました。
すなわち、「救われる」というからには、何らかの困難な状態にあることを示します。
そして「困難な状態」とは、(宗教的定義によれば)神から離れた状態を言います。
さらに「救われる」とは、再び自ら離れ去った神の元に戻ること。
つまるところ、上の言説は同義反復に過ぎないわけでした。
なぜなら、「信じる」とは神の元に戻ろうとすること、そして「救われる」も神の元に戻ること。
「信じること」の時点で、論理必然的に「救われる」ことになるようです。
一般的言説を、宗教的な意味論で分析すると、この様に理解されるのだと思います。

9/18
カトリックとルター派以降諸派との相違が、概要ながらもようやく理解できました。
人間の理性の意味を認めるか否か、それが分水嶺であるそうです。
ペトロの後継者の首位性の認否、すなわち教会の存在が認められるか否かもあるが、それは第二義的。
世界史の教科書には、ルターには「聖書のみ」との記載があります。
この際の「聖書のみ」とは、本質的には堕落した教会を排除する、という意図とは異なるようでした。
すなわち、聖典の内容を、考え、理解しようと努力すること自体の否定が本意にあるようです。
(ルター自身は高い知性を持ちかつ極端に誠実であったが故に、人間に絶望感を抱いていたらしい)
つまり、キリストの聖霊そのものが読者を正しい方向に導いてくれる、という信念が根底にあるそうで。
ルターの改革に際して開催された公会議では、彼の主張を検討したうえで、上述の理性否定の部分を退けたそうでした。
このルターの主張が、文理上や考証学上誤りではないか、という主張は今日のルター派内部でも広く肯定されているとのこと。
人間存在の否定という機能に着目すれば、グノーシスの思想(二元論を軸とした異端思想)と同じですなあ。
それにしても、古代は人間理性の時代、近代はその否定とは、キリスト教の歴史においても妥当するんですね。
近代って、どこかこう若々しくあり、浅薄な側面を持つ時代ですよね。
自信と、無知であることを知らぬ驕り。
私自信は、感性としては古代の人間なのかなあと思うところ。
(銀銃1451万点、2面クリア時770万なのに5面を赤にしただけでこれ。もう黄色はやめよう)

9/17
いまだに、「聖書を旅する」は読み続けています。
今のところ全10巻中の5巻冒頭。
各巻2度読んでいるので、ここまで総計4000ページあまり。
ここ数ヶ月はまともな本はこのシリーズしか読んでないです。
(阿刀田氏が書きなぐったような本はかなり読みましたが)
まだまだ道半ば。
最近5,6巻を求めましたが、しめて6000円弱。
良書に費えを惜しむべきではないですが、いささか高いにょ。
本日知ったんですが、聖書の最初の翻訳(ギリシア語訳のぞく)は、385年の西ゴート語だそうでした。
ルターのドイツ語訳が最初と学校では習いますが、ちょっと違ったようです。
まあ学校で習うものはあくまで初学者用、簡単なものから学んでこそ人は成長できるというもの。
本日朝のNHKで、「日本の高校生は難しい本を読まない」という調査結果が報道されました。
(世界各国の高校一年生の平均値において、日本が最低だったらしい)
難しい本というと、「嘔吐」とか「魔の山」とか「日本の思想」とかそんな本かな?
私も難しい本は敬遠だなー、と感じた瞬間です。
ところがニュースの続きを聞くと、難しい本とは「新聞」「小説」のことだそうでした。
にょー。

9/15
私は、いわゆる「ミステリー」なる分野の小説が苦手です。
価値が無いとさげすんでいる訳でもなければ、食わず嫌いというわけでもありません。
端的に言って、判らないのです。
つまり、登場人物はすぐに忘れる、物語の伏線は読み飛ばすなど。
もともと、ミステリーなる分野はそう気軽に読めるものではないでしょう。
執筆される方は、登場人物、その所在、行為を時系列に沿って並べられるでしょう。
そしてその明確な構図に従って筆を取られるはずです。
これを読む側の態度といえば、ノートに登場人物ごとの特徴を順に並べてメモしてゆくことが基本となるのではないでしょうか。
もちろん、それは慣れによって大いに向上するスキルのはず。
何の鍛錬もなしに、あのロジックを明確に把握できる方はいらっしゃらないでしょう。
シューティングの文脈と同じことですね。
ということで、何時かミステリーのロジックに親しめる日が来るといいなと、努力もなしに願う日々です。
(それでは永遠に無理?)
おもえば、あの京極夏彦氏の「凶骨の夢」。
一読した時点では、最後まで読んでも意味がわかりませんでした。
(この場合の意味とは、彼の薀蓄ではなく、根本のトリックに関するもの)
二回目に通読して、ようやく京極氏の意図が理解できました。
ミステリーの好きな方というのは、この様な体験を何度も重ねられて、己のスキルを磨かれたのでしょうか?
私は阿刀田高氏の著作を愛読しますが、彼の得意とするもう一方のミステリーは全く触れず。
(もう一方は古典文学であり、こっちが私は好き)
いつかは彼の本が読めるようになりたいもの。
この意味では、著作を量産し、それなりのセールスを誇る赤川次郎しはきっと偉大なんでしょう。
皮肉でも何でもなく、純粋にそう思います。

9/14
先ごろ、「隠れキリシタン展」なるものを観覧しました。
場所は四谷のイグナチオ教会、近くを通って展覧会の看板を見かけたまでのことです。
隠れキリシタンといえば、九州の島嶼部で幕府の弾圧下、少数の信徒たちの間で連綿と受け継がれた信仰。
遠藤周作氏の著作が詳しいです。
祈りを「オラショ」(ポルトガル語のオラシオ?)、神を「デウス」などというのが有名なところでしょうか。
その信仰の文物(宗教画、祈りのビデオなど)が陳列された、会議室一室に収まりきる程度の小さなもの。
「キリシタン」といいますが、その実を見れば祖先崇拝や檀家仏教と混合した大きく異なるもの。
「受胎告知」などの聖書の逸話を描いたものですが、幼子は「ちょんまげ」つき、(決して描かれるはずのない)神は「ひげ親父」などなど。
敦煌バッコウ窟に描かれた「飛天」の絵などがイメージとして最も近いでしょうか。
幕府の弾圧があるので一見仏教画のように描かれたという事情はあるのですが、もはや本質を留めていない程度の変容とも評価可能です。
遠藤氏の著作に拠れば、幕府の側では「隠れキリシタン」の残存を把握していたそうです。
もはやそれがキリスト教徒は「似ても似つかぬもの」(原文ママ)に成り果てている。
よって、封建秩序に影響を与えるものでないと判断して、放任していたそうでした。
(幕府のキリスト教担当官僚は基本的に学識者であり、かつて洗礼を受けたものも多かったらしい)
このように、客観的には「異質で異端な」むなしい信仰、とも評価される習俗が「隠れキリシタン」。
しかしそこで、信徒の方へのインタビューの模様がビデオテープで流されておりました。
「世界に向かって訴えたいことは?」との質問に対し、次の答え。
「このような信仰があることを、世界の人にわかって欲しい。」
おそらくは幕府から弾圧を受け、明治維新後にはキリスト教会から異端として非難されてきたであろう信仰を持つ人の言葉。
誤った信仰、などと断言することが高慢この上ないと考えさせられる言葉でした。
対象は何であれ、彼らは信仰を持った尊い方々である。
私は信仰を持たない人間ですが、イエスならばこの様に評価されたのではないでしょうか。
いずれにせよ、1300円払った東京国立博物館の「アレキサンドロス大王と東西文明の交流展」よりはよほど有益な体験でした。

9/13
本日の「美の巨人たち」はレンブラントでした。
特筆すべきは、「放蕩息子の帰還」。
その逸話自体は、人口に膾炙するイエスの用いたたとえ話です。
ただレンブラントは聖書の逸話を用いつつ、彼自身の観念を表現しました。
(レンブラントは若き日はオランダバブルで時代の寵児、晩年は不遇の日々を送って無名墓地に葬られた)
悔悟と、憧憬と、それらを放蕩息子に重ね合わせたそうです。
宗教画って、純粋に聖典の逸話を描いたわけではない。
(特にルネサンス以降のそれは、聖書の逸話はあくまで表層に過ぎない。)
この当たり前の事実を悟らされました。
自らの内心を表現する手段が絵画であるにすぎない。
何らかを表現するために、絵は描かれる。
当たり前の事実を認識させられた次第です。
深い解釈の余地を残すからこそ、作品は名画たりうるようですね。
古典の知識などは、あくまで前提条件。
歴史を考えるにおいて、高校世界史程度の暗記があって始めて可能となるのと同じこと。
鑑賞者が何を考えるか、そこに美の生じるのでしょう。
(でもやはり、西洋世界は古典の普遍性という点では日本の数歩先を行く感じる場面です。)

9/12
最近私は専ら、報道される人物の言動を、パフォーマンスという観点からしか見ないようになりました。
つまりその発言は、何が真意であり、誰を対象に、どのような効果をもたらすのであろうか、という観点から把握するのです。
先ごろの石原氏の発言、「爆弾を仕掛けられて当然」というのは、いかがなものか。
多分彼は、過激なパフォーマンスによって得られる自己の支持が、それによって失うそれを上回るとの判断をなさっていらっしゃるのでしょう。
(勿論自身の発言が倫理的、政治的に問題を含むことは当然に理解なさっているはず)
それはそれで私には理解できない政治の世界のお話、作戦の成否はもっぱら次の選挙の結果に現れることでしょう。
それが表現の自由というものであり、民主主義というものです。
実は私が一番見事だと思ったのは、その直後の小泉首相が意見を求められた会見の場面です。
彼は対北外交には一切ふれず、純粋に石原氏の表現の不適切であることのみを批判しました。
さすが首相をなさるだけあって、本質には一切触れず、しかも質問には答えるという頭のよさ。
私みたいに馬鹿だと、絶対に対北外交のなんたるかから語りだし、墓穴を掘るのが必定です。
ただ、一見受け答えはうまいのですが、じつは「失言」となりつつも石原氏擁護の論調を張ったほうが、支持は得られるのかもしれませんね。
その判断が政治の処世術なのでしょう。
私の最大の疑問は、「世界ふしぎ発見」の野々村真氏。
私、彼は本当は頭がよくて、道化の役割上あのように馬鹿に振舞っているだけなのではないかと疑ってます。
でもみんな、「野々村真ってばか」といって同意してくれないんですよね。

9/11
件のテロリズムから2年らしいですが、私は最近料理してます。
朝、夜は自分で作るのです。
とくにあさ、最近サラダです。
いかに手間を省くか、これが料理の基本というもの。
基本は生野菜に酢と胡椒とオリーブオイル(今使ってるのはグレープシードオイル)。
にんじんを、皮むき機で薄くそぎます。
キャベツの葉を、小さく切ります。
パプリカ、オクラ、アボガド、きゅうり等もオプショナルによし。
味付けに醤油をかけるのもよく、バルサミコ酢もまたいい味がでます。
野菜を切って味をつけるというだけの手間ですが、食事を作るという作業自体はいいものですね。
ちなみに主食はなしです。
油をそれなりに使っているので、最低限の熱量は摂取できるでしょう。
(油でもかけないととてもでないですが量はたべられません)
野菜不足、太り気味、ともに改善できてよし。
(銀銃1438万、3面414、2面858)

9/10
本日面白いことを知りました。
ユダヤ教では、生理中の女性は(一般には)不浄とされ、家族であっても物理的接触は避けるべきものとされています。
この点の解釈についてです。
性および生殖は、聖なるものである。
故に、生理中の女性は神の聖なる働きが現れている期間であるから、ゆめ軽々しく扱われるべきではない。
文字通り、「聖別」されるわけで、日本の民俗学で言うところの「ハレ」の状態にあるわけです。
彼女は聖の状態にあるが故に、日常(ケ)に生きる他者は触れてはならない。
これが本来的な意味であり、教学上では通説なのであるそうです。
ちょっと、自己の地平が拡張された瞬間でした。
生理中の女性の隔離は女性蔑視と人権侵害だと思っていたのですが、真意はその逆だったようです。
現実には、その真意が認識されずに女性抑圧システムとして機能しているわけですが。
私はデズモンド・モリス氏の著作(「パンツをはいたサル」等)を読んで、一神教は女性抑圧原理を大いに含んでいると考えていたのです。
しかし、どうやら誤りであったようです。
モリス氏は学位とキャリアを持つ歴然とした学者であり、かなり広範な知識を持つ人物と私は思っていたのですが、意外な分野の認識がかけていたようでした。
この世の知識は膨大ですなあ。
人間一生勉強しなくちゃだめだにょ。

9/9
NHKの「こうして大仏は破壊された」によると、タリバーンには「勧善懲悪省」なる素敵な役所があったそうな。
私もそういう名刺が欲しいですね。
「勧善懲悪省の懲悪担当官、モルダーだ。」なんて。
大仏破壊の根拠は当然にイスラームの偶像崇拝否定です。
ただ彼ら、「偶像を破壊すれば神に忠実である」という発想自体が偶像そのものであることを悟らなかったのでしょうか。
偶像とは形を持ったものだけではない。
タリバーンの政策は、偶像崇拝そのものに見受けられました。

9/8
本日付NHKニュースの「9/11から2年」なる特集を見て思ったこと。
番組によれば、タリバーンが再結集しつつあるそうです。
その訓練の模様をNHKが取材しましたが、そこで彼らが「神は偉大なり」と叫んでいました。
注目すべきは、アラビア語で「アッラーアクバル」ではなく、彼らの言語でそう叫んでいたこと。
タリバーンが普遍イスラム主義ではなく、純粋なるパシュトゥーン人民族集団である側面が感じられるように思います。
ふと考えたのですが、「タリバーン」とイエスの時代のユダイズムは極めて類似性が強いのでは?
特質として、極端な(神そのものさえ不要にしかねない)戒律に、超排他主義。
背景として、政治上の混乱と異民族支配。
そういえば、やはりあの「ビンラディン」はテロリストとしか言いようがない。
経典をどう解釈すればあのような行為が許容されると言うのでしょう。
多分彼らは、コーランの一字一句まで暗記しているでしょう。
でも多分、「論語読みの論語知らず」のごとく、その意味を考えていない。
自分に都合のよい預言者の言葉を引用するに長けているだけ。
先のパレスティナ自治政府のアッバス首相辞任のごとく、暗いニュースが続く昨今です。
マザーメアリが私のもとにやってきて、知恵の言葉を告げました。
「いぬふく。」
(もとネタ、わかるー?)(なないろ町の桃子ふうに)

9/6
「アレクサンドロス大王と東西文明の交流展」なるものに足を運びました。
いわゆるヘレニズムで、ギリシア起源の文明が東漸してゆく過程を、遺物を持って示した展示会です。
その趣旨自体は単純明快にして、迷うところは何もないですね。
ただ、私個人の感想としては、理解の困難な部位が多数ありました。
そもそもこのような博物館は、何らかの展示趣旨があり、それを証明するための論拠があります。
そしてその論拠を証明すべく、展示対象が選定されるわけで。
今回の展示の場合、目前の展示物がその章立ての中において、何を証明しようとしているのか、そして全体テーマの中でどのような位置を占めるのか、私には理解できないものが多かったです。
個人的には、このような展示会は、一つ一つの展示物にそれが何を主張するために展示されているのか、その展示物の何がその論拠足りうるのか、これを明示して欲しいところです。
自分で考えるのは、その特定の分野の相当深い知識がない限りは現実的ではないというべきでしょう。
こういうのって、展示品目録を買えばよいのかもしれませんが、1300円の展示会で2300円もする目録を買うというのは貧乏人の私にはつらい話です。
もちろん、そういう詳細な解説をつけると、混雑したり、展示品そのものが見られなくなったり、見る人に混乱をもたらしたり、というデメリットがあるというのは予想されます。
でもやはり、博物館って多様な楽しみ方があっていいはず。
子どもがギャーとか泣き叫んだり、小学生が「エロい」と仲間内で騒いでいたり、彼氏が彼女に誇らしげに間違った解説をしてみたり、メモを取りながら目前の対象の意味を考えてみたり。
(多分私も上記のすべてをやったことがある)
少なくとも安くはない観覧料を払っている以上、十分なサポートはあってもいいのでは?
人は展示分野を知りたいからこそ見に行くのであって、適切なインストラクションさえ得られれば自分の力で理解しようと努めることができる存在です。
展示会というと貴重な文物を見せることが目的ではありますが、本質はそのような具体的な遺物にではなく、その意味に存在すると思うのですが。

9/5
所用あって駒場まで。
どうしても、大学まで寄り道したくなってきます。
昔の話だなあと思うのは、私も年をとったということか。
マックができたり、寮がなくなったりといろいろ変わってるものです。
いつも思うのですが、渋谷のセンター街にヤクの屋台が出ています。
そこに「kaos」という名称のドラッグがずいぶん前から売られているのですが、果たしてその名は何を意味するのでしょう。
そういう固有名詞なのか、それとも「chaos」のスペルミスなのか。
つづりぐらいは調べろといいたいところですが、そういう名前なのかもしれません。
でもやっぱり、むやみに横文字使うのはやめたほうがいいような。
「混沌」とか「原初の姿」といった名前のほうが、私としては趣があってよいと思います。
渋谷というと駅前の街頭宣伝車が魅惑的。
(私は右翼宗教含めて、街頭演説大好き)
本日は何とか塾という右翼でした。
「皇軍創設」「自主憲法制定」「教育基本法改正」という、オリジナリティーと具体的プランが欠如したスローガンが哀れを誘います。
「まず破壊せよ」とでも思っているのでしょうか?
「それじゃあチミたちの嫌う中共の毛沢東と同じだよ」、というのが適正な評価でしょう。
一番興味深かったのは、「日本政府は中共との断交を」というものでした。
敵と認定するのは自由ですが、敵となったら一切交渉を持たないというのはいかがなものか。
休戦、敗戦、戦勝、ともに相手方交戦団体の代表がいなければ何もできません。
先の大戦中に、近衛文麿首相が「皇国政府は匪賊を相手にせず」との声明を出して、大陸の泥沼に引き込まれたことの教訓をなんと心得るのでしょう。
きっと彼らは、この事実自体を知らないのでしょう。
彼らの根本の問題意識自体はそれなりに耳を傾けられるべきですが、それを表現する手段があまりに稚拙。
それで一般人の支持が得られるとでも思っているのでしょうか。
(自らのパトスの発露という意味では彼らの行為は十分合理的ではあるが)
ヒトラーはミュンヘン一揆以降は民主的政治過程を通した権力掌握を選んだ、という事実は彼らの教訓になるのでは?

9/4
最近は久方ぶりにゲームをよくやります。
勿論、PS2は前記の一度しか起動していません。
主犯は、WIN版シレンです。
今回のは、前作のWIN版よりも難しくなっているような。
アイテム、武器、敵とどれもこれもやけくそに増えたので、まだそれぞれの効果を把握している途中です。
近作はストーリーや持ち込みダンジョンも多いのですが、それが本編(持ち込みなしの未識別)に向けてのよいインストラクションになってるようで、素晴らしい。
今のところ、本編はまだ20階強までしかいけておりません。
近作で一番驚いたもの。
それは「物忘れの草」で、識別したアイテム名をすべて忘れるというもの。
超不幸の種(レベルが1になる)よりも悪質です。
そしてもうひとつは、普通に道端に超不幸の種が落ちています。
(前作では店か変化のつぼでしか出現しなかった)
よって今作では、モンスターハウスの巻物よりも即死級の、超不幸の種・物忘れの草が警戒対象の模様。
犬福も喜んでます。

9/2
自分を評価してくれた方に対し、それを辞退するというのは心苦しいもの。
お互いにビジネスとは知りつつも。
この感性は次第に薄れ行くでしょうが、この申し訳なさだけは失ってはいけないのでしょう。
PS2ようやく起動しました。
サターンのシルバーガンやwinのシレンの方が面白いし、起動しやすい。
とりあえず、本体同時購入のスキャンダル起動。
素晴らしいのひとことで。
このソフトは、前作のPSのやるどら時代からCDROMでは容量不足で(ディスク入れ替えがわずらわしい)、DVDという媒体がようやく表現に追いついたというところ。
とりあえず、このスキャンダルからは本当にフルアニメにちかづいているようです。
画質も圧倒的に向上、ポリゴンにアニメ絵をテクスチャーで貼り付けた処理も上々。
素晴らしいのですが、疑問も無きにしも非ず。
以前のやるドラに比べて、作業量が大幅に増加(アニメ増加)しているにもかかわらず、価格はほんの1000円程度の上乗せ。
販売本数が大差ないなら、利幅は大幅に低下しているはず。
今でもPS版のやるドラはすべてストーリー覚えてますが、一部シーンのみのリミテッドアニメーションのみで十分に表現効果は挙げられておりました。
このスキャンダルほどの映像表現は本当に必要なのか、費用対効果の点では著しく疑わしいと思われます。
我々人類はイマジネーションというスキルを持つわけで、それを駆使することによって初めて対象の理解は適正になされると評価して問題ないでしょう。
ハード性能の向上が、やるドラの場合は適正な方向に用いられていないように感じられます。
このクオリティーを適正販売本数を確保できる範囲内の価格で発売することは、営業的にはほぼ不可能なように感じられました。
わたしとしては、映像なんてこの程度で十分なのです。
(自分がハムコロ様の下という程度に高く評価するサイトに飛びます)
アニメを増やせば、ストーリーを語れるというものではない。
この正論はスキャンダル製作者の方々も十分理解していらっしゃるのでしょうが、営業的には難しいのかなあと。
一般論として、「この世の果てで恋を歌う少女」は物語が極めて高く評価されてますし、わたしもそれに反論はないです。
ただ、すべてを自力でこなした私としては、大往生で2億出すほうが、比較にならないほど多くの物語を感じました。
能動要素なしに、何処に意味が存在するのでしょうか。

9/1
PS2買いました。
23500円に値下がりしているのに驚き。
本体同時購入ソフトは、「スキャンダル」(1400円)。
本当は「恐怖新聞」が欲しかったのですが、高いので見送り。
帰宅後サターンでシルバーガンの5面の練習して、PS2の箱を開けてませんが。

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