日記10月
戻ります


10/31
そろそろ衆議院選挙だそうで。
今朝方、朝食をとりながら政見放送を耳にして思ったこと。
民主党のそれです。
最も印象的であったのは、ありとあらゆる候補者が「官僚政治を打倒し・・・・」とのたまっていること。
彼らは、「官僚」なる実体が存在するとでも思っているのでしょうか。
我等が理性は、複雑な実像捨象して「官僚」と短絡的に把握することを、誠実ではない態度であると教えます。
「右翼」「左翼」「アカ」などという言葉と同じく、視野の狭隘と閉鎖性を示すのみです。
「かかる単純化を行う者は、知的に恵まれなていない。」
私のような犬福でさえこの事実を知っていますし、多くの方が同様に考えられるでしょう。
国民は、総体として賢明です。
他者を批判しておけばよい、という安直な態度は長期的視野にたてば決して有効なものではないはず。
憲法には(15条)、官僚はあくまで「全体の奉仕者」であり、その選定罷免権は国民が有するとされいるはず。
政治が公務員を制御できない、その能力がない、という事実が最大の問題なのではないでしょうか。
上のような単純化の錯誤を犯すような候補者に、その能力があるとは少々考えにくいです。
勿論、官僚批判はあくまで選挙の対策、と考えた上での発言なのでしょう。
(本気で思ったいたならば、それは日本国にとって悲しむべきこと)
しかし、それが選挙上有効な選択肢であると考えているならば、それは現状認識の錯誤であり、国民の侮辱です。
官僚といってもただの人間、一般社会と同じ割合で公正な人とパワーシーカーが混じっているはずです。
そのことが解らない人間に、政治をゆだねられるものか。
(私は解らない人間なので、講堂の前の方にサリン撒くと日本はよくなるよな、と友人と話してました。)
もうちょっと駄目そうなのが、共産党。
何かあると負担を大企業に求める主張ですね。
企業に課した負担は最終的に何処に転化されるのか。
初歩的な経済学の問題だと思うのですが。
こちらにしたところで、「企業」という実体が存在するわけでもなし。
彼らの理念や問題意識は素晴らしいですが、それを実現するために学を深めようとは思わないのでしょうか?
閑話休題。
発売日に「北へ」かいました。
秋葉で、未開封の中古が4800円と定価から2000円引き。
なんと今回は、一人でも観光地まわれるんですよ。
素晴らしいです。

10/31
先日、外人さん(!)に話しかけられました。
場所は東京駅近く、「大手町駅にはどう行けばよいか?」という内容。
韓国あたりからの観光客と思しき女性の二人組みさんです。
最初に自分が反射的にいってしまったこと。
「Do you speak japanese?」
残念ながら、答えはNO。
向こうの言っていることは全部解るのに、こちらの言いたいことがぜんぜん出てきません。
「・・・well、well」の繰り返しばかり。
身振り手振りで方角を指差し、「Go straight!」とこの程度の犬福レベルです。
それでも何とか目的は達成し、「Thank you」 「You are welcom」。
彼女らと別れて5フレームぐらいで、正確な文章の形で、正当な英文が浮かんできました。
日本人の英語力なんてこんなものです、という事実は彼女らに伝達できたかもしれません。
「これでも大学を出ている」とか、「TOEICで長期海外勤務可能と評定されている」といっても、世界的視野に立てば誰も理解してくれないでしょう。
日々会話してないとだめですね。
それでも、一つ思うのはアメリカの寛容さ。
あの「TOEIC」という試験はかなりのイカサマで、文部省主催の英検に比べて信憑性は著しく低いです。
(読解とリスニングのマークシート式択一のみ)
問題自体は難しくとも、日本の誇る受験英語でもかなりいけます。
つまるところ、紙の上だけでの勉強すなわち、なんらの多額の投資を必要とせず、個々人の努力のみで成し遂げられること。
これを正当に評価してくれるんですよね。
主催者側(合衆国の財団法人)も、あの試験そのものは無意味であることを理解していらっしゃるのでしょう。
あの試験は、個人の英語習得の可能性を評価する、これが背景の思想なのではないかと。
話題を戻すと、彼女らに「kingとqueenは何処にいるのか?」と聞かれました。
天皇って、英訳するとそういうことになるんですね。
外国語の発想は面白い。
勿論私の答えは、皇居の方を指差して「Over there!」ですが。
「あの建物は何か?」と聞かれても、「Tokugawa castle. Buened down threehundred years ago.」とか。

10/30
ゲームブックですよ。
6面体ダイスを2個振って、自分の技術点が相手のそれを上回れば、敵の体力から2マイナス。
懐かしさに感動を覚えました。
荒寺の大蛇
短編ですので、是非古きよき時代を。
ふと思いました。
私は遠藤周作さんの本が好きで、高校生の頃に愛読した記憶があります。
氏はキリスト教関係で「死海のほとり」「イエスの誕生」「イエスの生涯」等を執筆されていらっしゃいます。
その内容を今になって振り返ってみると、なかなか面白い事実が。
氏のイエスの理解は、「イエスは人間であった」という一言に終始します。
(表層的にはイエスの信性を否定したアリウス派と同じ)
氏の理解は、概ね以下のようなもの。
イエスは公生活を通して自らの使命を自覚し、十字架上に刑死する。
イエスの権力者側への引渡しと偽証の代償として安全を保障された弟子たちは、罪の意識に苛まれる。
それを契機に弟子たちはイエスの意味を深く考え、そしてイエスの主張を述べ伝えていった。
すなわち、「復活」の神話的(合理主義的)解釈です。
一般人がイエスを理解しようとすれば、この形に落ち着くことが最も自然でしょう。
極めて説得性が高いし、私もそれが現実の形であったと把握しております。
ただこの主張からは、信仰の要素が欠落しているんですよね。
(旧約聖書の諸預言の解釈というそれも無視)
遠藤周作氏は洗礼を受けた方でしたが、彼は異端だった、と評しておそらく間違いないでしょう。
さらに進むなら、信仰箇条(三位一体・造物主の承認)の客観的承認を信仰とする定義に従うならば、彼は信仰すら持たなかったということに。
この上なく深く悩まれた方なのでしょうね。
氏の偉大さが、少しばかり感じられたように思います。
興味深い点は、これに絡んでもう一つあります。
同氏が異端的であったにもかかわらず、それに対する非難が正統の側からなされていない点です。
氏は四谷の日本で最も有名な教会で葬式をしてますし、「カトリック作家」という肩書きを疑う人はいません。
日本の一般人にはバチカンが同氏に抗議をしたという事実も聞こえてきません。
(抗議があったとしても、それは極めて穏当なものに過ぎなかったということ)
一言で言えばバチカンの寛容性ということでしょうか。
この普遍性こそが、帝国(中世は教皇と皇帝による帝国と評してよい)の存続を可能とした原理なのだろうと実感できます。
帝国の存立を可能とするのは経済力と軍事力ですが、その二者は寛容性と普遍性のものに自ずと集まるもの。
後者が伴わない覇権は、一時的なものにとどまるでしょう。
(第三帝国や大日本帝国)
現在のアメリカだって、寛容性と普遍性があり人材が自ずと集まりるからこそ、覇権国なんですよね。
いえ、表現の自由は素晴らしい。
これがイスラム圏だったら、遠藤周作氏には「悪魔の詩」の場合のように死刑宣告が下ってもおかしくなかっただろうなあと。
言論の自由度でいえば、バチカンは現在の日本国やアメリカ以上なのかもしれません。
遠藤周作氏をめぐる対応を見れば、客観的にこの様に評価できるかと。

10/29
先の報道によりますと、合衆国でソンミの虐殺事件の裁判が行われたそうです。
(ベトナム戦争中に米軍がソンミ村の住民500人あまりを戦略的に殺戮した事件)
やっぱり、アメリカは偉大だなと、感じました。
判決自体は、軍事法廷という手続きに疑問の伴うものであり、量刑自体も終身刑と軽すぎるといえばそれまで。
しかし、我々が評価すべきは、過去の自らの誤りを認め、それを自ら裁いたという一点に尽きます。
現政権の担当者および国防長官自体は、些か疑問の余地の伴う方々です。
しかしそれにもかかわらず、自らの非を認め反省するという、態度自体は普遍にして常にあの国に備わる美徳。
古のローマ帝国を築いたローマ市民たちの規範意識と同様です。
これ故にこそ、アメリカ合衆国は帝国たりえ、現在の繁栄が得られているのでしょう。
私はこの様に思いますし、歴史はそう教えます。
この規範意識が失われるときが、合衆国の覇権の終焉の始まりでしょうね。
そういえば、先に購入した「ローマ人の物語」は4巻途中でとまってます。
理由は、ハンニバルが敗退する様を読むのが苦痛だから。
史実に感情移入してしまうのでは、NHKの「そのとき歴史が動いた」と同程度のおばかさん。
閑話休題。
シスプリで面白いの見つけました。
大笑い。
http://karzusp.hp.infoseek.co.jp/review/pias.htm

10/28
「オンモラキの瑕」終わっちゃいました。
面白かったせいなのか、昨夜今晩で終了。
まず、あの陸軍の大佐(?)と彼が仕込んだガキはどうなったのか。
至極どうでもいいことなので、彼らはなかったことにしておくのが賢明な態度なのかなー?
本作は、一言で言ってしまうと「アイディア小説」だったのではないか。
阿刀田氏ならば30ページばかりで終わらせるところを、京極夏彦氏は750ページあまりの長編としたのでしょう。
(両者の優劣を比較する意図は全くないです)
「死=肉体の消滅」。
阿刀田氏の創作ノートなら、この一行のメモが残るのみのアイディアだと思います。
最近はこういう物語のある小説を読むと、その構成やそれにいたる過程、など製作サイドの事情を想像して楽しんでしまいます。
私に対する阿刀田氏の影響は絶大だなと、認識するひと時。
(「アイディアを探せ」など、同氏は執筆時の方法論を公開していらっしゃので、一読をお勧めです)
話題を戻すと、「死=肉体消滅」というアイディアを長編化する為に、その他の部分が付加されていったのでしょう。
ハイデガーは犬福の足レベルの飾りだったんだなと、まんまとだまされた喜びが残ります。
とりあえず今作は、主犯やその方法などは、事前に情報が公開されていることもあって、完全に読者の予想通りですね。
読者が求めるのは行為ではなく、行為のの理由にあるわけです。
事実関係は公開しておいて、本質である意味の公開への期待を高める。
今作の上記手法は、そのために大変優れた表現方法なのではないかと感じました。
なんといっても、読者はやっぱりあの胡散臭い黒尽くめの陰陽師の活躍を期待しているわけですから。
推理小説には、以下の二つの部類があると思うのですが、どちらがいいのでしょうね。
1、事前に情報を公開して犯人の特定を読者に可能とするもの
2、探偵のみが最後に読者の知りえない情報を駆使し、読者に対抗が不可能なもの
「そして誰もいなくなった」とか「シャーロックホームズ」は後者ですよね。
今作においても、動機にかかわる情報は読者には最後まで明かされませんしねえ。
文句をつける気は全くないですが、いくら隔絶してても死の意味が解らないというのは少々無理がありますね。
京極氏はそれを納得の上で、何処まで説得性を持たせられるかに挑まれたのだと思いますし、その立場で評価するのが謙虚な読者の正当な態度でしょう。。
あの図書館なら、絶対に医学書くらいはあるだろうし、「三兆説」(呼吸、拍動、瞳孔反射停止)なんかも知ってると思うけど。
父が博物学者なら、生物学関係の本もあるでしょう。
細胞レベルのネクローシスとアポトーシスという、確実に定義可能な死の形は嫌でも読んでると思うんですが。
まあ、至極些事です。
自分が知らない知識が概念が詰まっていたし、面白かったし、いい本でした。
そういえば、以前に生命倫理(宗教)としての儒学の解説書を読んだ記憶があるので、もう一度読み返して勉強しましょう。

10/27
現在、「オンモラキの瑕」は300ページ半ば程度まで。
主人公の名前が「中禅寺秋彦」であることを初め、人物関係はほとんど失念しておりました。
久しぶりに読んで思うこと。
筆者の京極夏彦氏は、文の長さそのものを、一種の表現手段として扱われるようですね。
村上春樹流にいうならば、「宇宙の観念がある」というところ。
登場人物の一人、榎木津礼次郎の人物紹介のみで60から70までの10ページ。
ほかのキャラクターもみな同様。
これはこれで、一種優れた表現方法なのかもと、感じるようになりました。
読者が期待しているのは、芝居における役者の場合と同様、好きな人物が活躍してくれること。
ならば解りきった、しかもこれまでに何度も読んだような人物の紹介を繰り返すことも、立派な読者サービスなのかも。
読者に、「うん、そう、そう。」と思わせることは大切なんですよね。
今時のギャルゲーがプレーヤーに媚びている(この表現は適切でない、サービスというべきか)のと同じ事。
今回の「オンモラキ」は、面白いですね。
今のところ、林羅山の功績をめぐる主人公たちの会話が強く私の好奇心を刺激しました。
朱子学ひいては儒学からの完全な宗教性の排除による、朱子学の世俗化と一般化の下地作り。
林羅山の真意は其処にあったということでした。
(とりあえず、この時点で本作の再読は決定)
我々の偏狭な常識に対し、新たな視点を提供してくれるというのはこの上なく心地よいものです。
京極夏彦氏の偉大さは、この点にあるのではないかと。
勿論、表現方法そのものは稚拙な点も多いとは思います。
ハイデガーの存在論を登場人物が語り合う部分など、学説の論証の一つ一つのフレーズを、各登場人物に分担して話させていることが明らかに伺われました。
しかし、それが作品の評価を下げるということは、決してないでしょう。
私のような犬福にでも解るように、様々な概念を解りやすく説明してくれているんですよ。
おそらく京極氏が著作中で扱った諸学説は、その極めて表層を紹介した、浅薄にして不十分なものに過ぎないでしょう。
しかし読者はそれにより、その概念の存在と、それを自ら学ぶ機会を提供されたわけです。
それ以上に貴重なものは、この世に存在するものか。
キャラクター性と知的好奇心の刺激という両者(往々にして相反する)を充足させる手法を開発した京極氏は、やはり偉大です。
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私信。
木馬の恩恵で、しばらくメールは控えます。
http://www.famitsu.com/game/news/2003/10/22/103,1066792138,17557,0,0.html
MSXのエミュの奴です。

10/26
流石は名高き智者オデュッセウス、「Trojan Horse」と検疫結果が表示されたときは感動しました。
感染源は全く不明。
最大のウイルス対策は、コンピューターで重要な情報を扱わないことですね。
どうも「お気に入り」の内容とか探られていたように感じますが、タイーホされるわけでもなし。
それにしても、木馬に兵士を入れて内部に潜入するって、皇国軍の自爆兵器に近いものがあるような気がします。
木馬ごと火を放たれたらおしまいなのに。
発案者のオデュッセウス自身、木馬に入ってトロイアに潜入しているのは立派。
日本海軍の人間魚雷「回天」も開発者が第一号に登場していらっしゃるのは、その方の人間性の高さの証明でしょうか。
靖国神社に実物が展示してあるので、ぜひご覧になってみてください。
(さすがに、「桜花」は展示してないですが)
勿論、トロイの木馬が創作の逸話だということは認識してます。
本日知ったこと、「聖書を旅する」9巻の記録。
まさに、足が生えたような思いでした。
「罪」の最も重い形は、絶望。
(罪とは自分自身に対するものと理解する、信仰を持つ人ならその対象に造物主が加わる)
故に、ダビテ王が偉大な人物とされる理由も納得が行きました。
彼は、自分の行為(姦通と夫殺し)に対して、必死に悔いて、許しをこうている。
決して、絶望してないんですね。
私だったら、全てをあきらめて即座に自殺してるでしょう。
「許しを請う」ことができるって、偉大ですね。
将来に希望を持っていることの現われですよ。
よくあろうとする希望、それこそ人間に最も大切にして、私にかけているものかも。
ダビテ王の逸話自体は遥か昔から知ってましたが、その意味が解ったのは今日はじめて。
そしてこの絶望の象徴的表現が、失楽なんですね。
(勿論ダビテ王の逸話自体、人類普遍の問題を描くことに主眼がある)
5年10年そして一生ものの疑問があるときついに氷解する、これこそ本を読むことの喜びと実感できる瞬間。
文学って偉大だなあと、思った瞬間。
これに絡んで、少々話題発展。
世の宗教思想には、二つの方向性が認められるように思います。
人間存在に対して、肯定的評価を与えるものと、否定的評価を与えるもの。
仏教はほとんど無知なので解りませんが、二元論の宗教はほとんど後者ですね。
人間は悪の力が生み出したもの、故にこの世に意味はなく、魂のみの救いを求める。
(ゾロアスター・グノーシスともに、人間の魂に「光」の残存を認める)
いわば完全な悲観主義。
対する一神教は、究極的なオプティミズム。
キリスト教のいうところの「からだの復活」の教義などは、二元論の主張の見事な対極。
人は造物主がその似姿として創造したものであるが故に、人間は存在するだけで価値があるとの考え。
一般論として、オプティミズムは考えが甘いとか言われますが、じつは悲観主義の方が遥かに、心情として安閑だと思います。
自分に価値を認めるのはとても難しいこと。
人権という一般的原理や人間の尊厳を認めても、それが自分にも適用されるとはなかなか考えられないものです。
今の私には、信仰よりも仏教哲学の方が共感がもてそう。

10/25
先ごろ、「妹もの」なる部類のノベルゲームやりました。
最大の驚きは、なんといっても「妹」というジャンルが存在することなのかもしれませんが、しかし・・・
いかなるものでも、一つの定型として分野を形成しうるという認識。
これが当然の前提となってしまった以上、もやはどんな新奇なものを持ってきても、そこに新鮮さはもうないかも。
偉大なのは、常に新しい概念が存在しうることを提示した先駆者のみかも・・・・。
話題を戻すと。
妹もの、のいくつかの法則性が存在することが推測されました。
1、兄と妹は、血縁関係にない。
2、親は別居もしくは存在しない。
3、妹は昔から兄が好きだったが、兄は鈍感なのでそのことに気がつかない。
4、特定の停止条件の成就により、兄は妹を女として認識する。
5、兄はそれでも、妹であるが故に、彼女を遠ざける。
6、傷つく妹、そして妹のかけがえのなさを認め、彼女を恋人にすることを決意する兄。
7、結ばれる。
以上、この定式に「名前」「場所」「イベント」の3要素を適当に挿入すれば、完成しますね。
(この式、「妹」を「おさななじみ」に変えるとそのまま「おさななじみもの」の定型になるのでは?)
上述の定式のポイントは、1番と7番にあるようです。
まあ、エロゲーにできるというわけで。
その、最も重要視されるべき問題意識は、ここにあるのではないでしょうか。
何ゆえに近親間の恋愛関係(当然に性行為を伴う)は、許容されないのか?
私が「妹もの」のシナリヲを担当するとするとして、少々。
妹、「にいや。」
兄、「おおっ、マイハニー。」
妹、「あにぃ、契りましょう。」
兄、「駄目だ、我々は血縁ではないか。」
妹、「兄くん、何故血縁の場合の性交渉は許容されないの?」
兄、「ソフ倫、いや社会が許さないからな。」
妹、「お兄ちゃん。刑法犯ではなく、そして民法上の婚姻の制度が利用できないだけですわ。そもそも社会的通念など誤謬の集合よ。」
兄、「ではまず、生物学的、そして社会学的な歴史を振り返ろうではないか。」
妹、「兄ちゃま、そもそも、マリノフスキーの明らかにした・・・・・・・」
其処には、真摯な討議にを交わす兄妹(恋人とルビでもふる?)の姿があった。
そして、そのそばをてけてけ歩く犬福の群れが。
犬福、「にょ。」
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いえ、勿論、「妹もの」がそういう思惟を目的としたものでないことは解ってるんです。
「妹萌えーーー」という、何処にもいない妹を求める、そういう心情を歌い上げることが目的なんでしょう。
ただ、もう一ひねりあってもいいのではなかなあと。
萌え尽きそうな状況を描き出す筆力も大切ですが、その前提に自然科学と古典教養が必要なのではないかな。
私がプレイしたのは、Silence〜涙をふいての全年齢版なるものです。
いえ、製作者の方に不満を申し上げる気はないですし、純粋に敬意を表します。
一人でこれほどのものを作り上げるとは、まさに驚嘆の技。
シナリオ・プログラミングは犬福でも勉強しだいでできるでしょうが、作曲なんて絶対無理です。
調べを紡ぎあげる才能、それは讃えられるべし。

10/24
先ごろ、素敵なメールを頂きました。
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ここまでヘンなものは初めて。
思わずリンク先見て、大笑いしてしまいました。
これは本気なのか、ネタなのか、それが解らないのが難しいところ。
ただ確実なのは、一線を越えてしまうとそれはもうギャグにしか見えなくなる、という事実でしょう。
(例、巨人の星、シスタープリンセスリピュア)
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72% of women are not satisfied witth their lovers penis size.
Are you sure you are not one of those men....
She is not going to tell you "You are Small"...
She will just tell her friends !
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72%という数値の出所が何であるのか、些か疑問の持たれるところです。
「男らしさ」なる幻影を自ら樹立し、その幻影に囚われる「男」。
自ら誰にも遵守の不可能な律法を樹立し、それを守れない罪の意識にさいなまれる厳正ユダイズムと同じですね。
ただ、「size」をほかの基準に置き換えてみるならば・・・・
人は不自由な存在です。

10/23
シレンの「クロン」の99階到達。
この迷宮の特色は、いわゆる「魔法」のごときものをアスカが使用できること。
HP回復から、敵を眠らせるなど効果はさまざま。
この魔法の有無にかかわらず、シレンの本質である「誤った行為には相応の不利益を」という原則は貫徹されている。
すなわち、1ターンのミスは死亡。
(このダンジョンは盾の強化ができないので、事実上最後まで防御力ゼロ)
目前の状況に対し、正しい対応をとればアスカは生存可能。
よいゲームだ。
金の剣盾に根性の竹刀で力99、生還時に身代わりの腕輪は7個のストック。
閑話休題。
現在「聖書を旅する」は9巻。
犬福程度の理解ではあるが、キリスト教の中心的教義、理性で把握可能な範囲と信仰によってのみ了承可能な範囲の区分が見えてきたように感じます。
キリスト教など迷信という場合に挙げられるのは、たいていエデンの園であったり、イエスが蘇ったという話だったり。
上記の逸話の真意は別として、それらは極めて些細な問題に過ぎないように感じます。
最大のキリスト教の不条理はなにか?
それは間違いなく、「イエスが十字架上で死ぬことにより死が滅んだ、そしてその効果は万人に波及する」という一点に尽きるのではないかと。
この問題は、完全に合理的な知性の了承可能な命題ではないでしょう。
故にこそ、信仰によって了承されるべき問題なのか。
「不条理であるが故に信ずる。」という古人の言葉が納得が行くようになりました。
理にかなっているならば、それは信ずるまでもなく正しいことが納得が行きますし。

10/22
結局、京極夏彦の「オンモラキの瑕」かいました。
今までの京極堂のシリーズは、一応全て2回づつ読んでいるので。
今回は、筆者の方に正当に敬意を払って、私も新刊を購入しましょう。
この方のお話は、おそらく推理小説でも妖怪ものでもない。
本質は、京極堂のひたすらの薀蓄にあるのだろう。
(故に、記憶すべく読みます)
唯一にして最大の問題は、主人公自らが自分の言葉は詭弁であると明言しているところ。
何処までが正しいかは、読者が判断しなくてはならないようです。
私自身は、「女郎蜘蛛の理」が一番好き。
先の吉川英冶の「親鸞」3巻を読み終わりました。
とりあえず、犬福レベルで「親鸞」がいつの時代のどんな人間だったかは、おぼろげに理解できました。
吉川英冶氏は、見事なエンターテイナーですね。
彼は、読者に先を読ませるのが大変に上手です。
決して読者の予想を裏切らない展開ですが、それが「つまらない」という水準に堕することは決してありません。
微妙にタイミング、内容が予想を裏切ってくれるのが素敵。
新聞連載を主体とされた方だけあって、常に読者の心理を把握することに長けていらっしゃるようです。
少々の面白さは、13世紀の人物が、その時代には存在しなかった概念を会話に用いていること。
「世界の創造」「革命」などなど・・・・。
たとえてみれば、赤壁の戦いで孔明が地対艦ミサイルを用いるようなもの。
「吉川英冶氏は驚異的な博識だったが、専門家が見れば単純な誤りもおおい。」
とは阿刀田高氏の言葉ですが、犬福が見ても間違い多かったかも。
この原因は、氏の過密スケジュールにあったのではないかと、予想しています。
何でも氏は30代の時にも一度親鸞を書いているそうです。
その時には同僚よりも2時間早く出社して、その日の新聞連載分を(資料を調べながら)執筆していたそうで。
印刷工場長と、ストーリーを話し合ったりしていたそうです。
おおらかな時代ですね。
肝心なことに、この小説は「念仏仏教」の教義内容、従前の自力仏教の教義とその問題点、という大切な部分がかけていました。
もちろん、この小説は親鸞という人物を描くことが主眼であって、仏教の教義を語ることを目的としているわけではありません。
その点で、私の方が間違っているというのはよくわかっています。
「学研漫画」に「数式で説明しろ」といっているようなものです。
この小説はあくまで犬福程度の啓蒙書ということで、読者が問題意識を持ってくれればそれで目的は達したというものなのでしょう。

10/21
文書化するとなると、自分の中の理解が逃げてゆくようなきがします。
正確には、文書化するだけの理解にかけているのでしょう。
とりあえずの成果が、これ
残された時間を有効に。

10/20
割り当て5メガが足りなくなってきました。
字ばっかりなのに、意外と容量あるんですね。
今のとこ過去日記を適当に間引いて対応。
昨日の続き。
やはり、ある程度のテキスト量は必要なんですね。
ギャルものいくつかやったんですが、文字数が少ないとやっぱり説明不足が。
かわいいとか、いとおしいとか、萌え、とか言う以前に、あんた誰?、といったところでした。
でも、物語を書くってちょっとあこがれちゃいます。
自分そんなことしたことありませんし。
情景描写とか、女性のちょっとしたしぐさ、その一言。
「うんうん、そうだよね。」と私に感じさせるノベルゲームの製作者の方は、やっぱりすごい。
ある程度までは客観的な方法論と努力の次元で、何とかなりましょうか?
自分もなにか小説書いてみようかな、と思ってみたり。
予想するに、私が小説書くと、シンボル過多に神話的解釈が主体になって、最後に犬福が出てハッピーエンドになりそうです。
「そして、犬福は良しとしたにょ。 完」
物語には、3つの型があるような気がします。
・1、シェイクスピア型
・2、推理小説型
・3、神話型
1番は、話の筋は全体として支離滅裂、内容も破綻気味。
でも、台詞や文の一つ一つが、それ単体として光るもの。
「弱きものよ、汝の名は女。」とか、「この金はお前の貧しさに与えるのだ。」など。
一部一部で別個独立に人を楽しませればよいではないか、という発想にもとづきます。
(正直に告白すると、私はシェイクスピアは全く未読、上記は「シェイクスピアを知っていますか?」阿刀田高著によります)
鬼平犯科帳なんかも、間違いなくシェイクスピア型。
世の物語の9割9分はこの分類でしょうね。
解りやすく普遍性があって、しかも面白いし。
2番は、物語全体が強固な首尾一貫性を持ち、分割することができないもの。
もっとも明白なのが、クリスティの「そして誰もいなくなった」などかあ。
呪いが、冷酷かつ確実に後代に至り完成する様を描いた、ギリシア悲劇なども間違いなくこっち。
聖書なども、歴史の段階的完成という視点に立てば、こっち。
全体構造を理解しないと全く価値が見えてこないという点では、解りやすくは無いのかも。
読み解くという行為と努力がまた、この分類の魅力なのかも。
「怒首領蜂大往生」は間違いなくこの類型ですね。
3番は、叙述されたものは手段に過ぎず、その意味にこそ筆者の主眼があるもの。
神話は、合理主義精神の表れですからね。
その表層のみに目が奪われ本質に思いをめぐらすという、本来の読み方が忘れられつつある時代が現代なのかな。
「エデンの園」とか「イザナギの黄泉くだり」とか。
どの類型もそれぞれいいところを持ってるとは思いますが、私は2,3番が好き。

10/19
公団藤井総裁の聴聞って、あくまで制度内の通常手続きではないのだろうか。
彼自身は弁明をするには値しない人物なのかもしれない。
そうであっても、自己主張を通し人権というより大局的利益を守るという、公益を果たしてくれている。
それを「混乱」と報道する報道機関は、少々見識を疑われても仕方ないですね。
「人権」の基本って大学で法律を学ばないと解らないというほど難しいものではないはずなのに。
啓蒙は、報道機関の重要な役割だと思うのですが。
藤井総裁は次は解任処分の取り消し訴訟と損害賠償請求で活躍なさってください。
閑話休題。
一昨日のノベルゲームの続き。
一つ驚いたのは、「幽霊同居もの」というジャンルがあるんですね。
(エッチのジャンルに、「触手」という範疇があるのを知ったのと同じくらい驚き)
「まぼろし月夜」(DC、PS発売)ってそういう流れの中の一つだったのかと、ちょっと納得。
このジャンルからは共通性を抽出すると、一つの原則が明らかになるようです。
(主人公の「いぬふく」が萌え萌えの天然ボケ幽霊少女と同居して恋に落ちる、というのはここでは除くとして)
 ・「幽霊は近いうちに消滅する運命にある。」
すなわち、主人公との別離は比較的近いうちに訪れる、ということです。
(別離までの期間は、そのゲーム製作に費やされる時間などの製作者側の事情による)
「幽霊同居もの」は、絵柄・表現形式等は、いかにも同人的で、一般人からは胡散臭いと思われてしまう作品だと思います。
でも、そこで描かれるテーマって、人間に共通の運命として、極めて高い普遍性をもってるんですね。
回避が絶対的に不可能な別離。
それが死によるものであれ、愛の終わりによるものであれ、幽霊が消滅するものであれ。
オルフェウスが死んだ妻を求めてハデスに下ったギリシャ神話、イザナギが妻イザナミを求めて黄泉に下った日本の神話。
これらと、根本において同じだと思うんですよ。
別離を表現するには、「幽霊」は結構便利な表現様式なんだなあと。
神話の一つの表現様式、といってよいのかな。
幽霊を通して語られるのは、プレーヤー自身の愛する人との別れの記憶であったりするわけで。
この神話の一つの表現として有名なものに、マルセル・カミュ監督の「黒いオルフェ」なる映画があります。
ギリシャ神話のエピソードを、リオのカーニバルを舞台に再現したもの。
短きが故に燃え上がる生のエネルギーがリオのカーニバルに仮託された、見事な作品でした。
でも、幽霊同居ものも、決してこれに劣るものではないなあと。
起源あるが故に燃え上がる生のエネルギーが、萌え萌えな幽霊とのハァハァ体験に仮託して描かれているんでしょ。

10/18
ラーメンにって、キャベツよりもレタスがあうんですね。
ついに、親鸞聖人が、姫を妻にくださいと願い出ました。
インスタント麺の「中華三昧」ってなかなかおいしいにょー。

10/17
最近腱鞘炎です。
理由は明白、シレンやりすぎてパッドを握り続けていたから。
(手が痛いのでパッドを握りたくない)
ということで、ここしばらくはフリーウェアのノベルゲームなるものをよく遊んでました。
(コードレスマウスをクリックするだけなので、ベットに寝転びながらコーヒーをすすりつつ・・・・・)
フリーウェアといっても、素晴らしいのはちゃんとあるようで。
人がその精力を傾けて創作活動を行えば、それだけのものが作られるということの証明なのでしょう。
とりあえず、興味のありそうなものをいろいろと落としてみてます。
良作は楽しみつつ。
そうでないものは、何が駄目なのかを客観的に分析しつつ。
人のふり見て我が振りなおせ、といった感じで他山の石としましょう。
でも中には最後まで続けることができなかったものがいくつか。
基本的に少々の設定(時代考証、誤字脱字)などは気にならないのですが。
基軸となるストーリー、もしくは根幹の思想。
それが客観的に「間違ってるよ」というものになると。
(つまり学問上証明されており極めて説得性の高い観念を、おそらく無知によって知らない場合)
製作者の方が、何かを伝えたいのだろうということは、私も解ります。
そして、その稚拙さゆえの、情念を感じ取ることもできます。
ただ、あまりに痛々しくて続けられなくなって。
宗教思想がらみの作品に、この部類が多いかな。
製作された方々も、公開後数年たってしまうと、昔の作品をよんで顔から火が出そうになってらっしゃるのでしょう。
・ゲームを作りたいという情熱があるときには、ゲームの基軸となるべき思想と知識がない。
・ある程度の理解が進むようになれば、ゲームを作りたいという情熱が失われてしまう。
(時間もなくなるし・・・・・・)
この様な関係性が確実に存在すると思います。
そのバランスの問題ですね。
それに創作物って、誰を対象とするかも難しいし。
大学で専攻してたり、興味があって何十冊も本を読んでいたり、こういう人間を対象とするのは、多分不可能でしょう。
かといって、中学生くらいまでしか楽しめない作品というと、底が浅くなりすぎますよね。
こう考えると、本を書くって大変なんでしょうね。
自分の無知と作品の不完全を知りつつ、それでも出版するって難しそう。
それを割り切れるのが、プロフェッショナルなのかな。
とりあえず、今の私はもう「ベルゼルク」は楽しめそうにないです。
ファンタジーって、年齢の上限が確実にあるんですね。
中学生のころの私だったら、きっと楽しく読めたと思うのですが。
ヤングアニマルは「ふたりエッチ」が一番面白いかなあ。

10/16
吉川英冶の親鸞読み中。
親鸞さんって、義経のまたいとこで母方源氏の藤原氏の生まれだったのですか?
小説の場合は、史実と虚構を見極めるのがちょっと困難。
しかしそれでも、主要人物の出生や年代は史実に従っていると推測します。
何らかのイベント(戦争や政変などの大事件以外)があった場合、それはおそらく虚構だろうと。
ただ、虚構は虚構として、筆者はその事件に仮託して何を訴えたいのかを理解するように。
神話的解釈になりますが、筆者は主張を伝達するためにこそ、筆を進めるわけですから。
それにしても吉川英冶さんって多作の人ですね。
巻末の一覧を見ると、新平家物語・平将門の二つは読みたいなあと。
本日のつり広告「フラウ、体のある純愛をしたい」(たぶん)を見て思ったこと。
現実の恋愛がどうとかいうのではなく、事象の認識レベルの議論です。
「性は(性交は)不純である」。
この価値観が何処から生じるのか?
何故に性が不純なのか、本来的に生産力持った「性」は「聖」であったはず。
少なくとも生物学的には間違ってない。
「有性生殖」とそれが生み出した「死」って、ほとんどの生命の本質じゃないのかと。
人類史を振り返っても、「性」「性交」は長らく「聖」そのものだった。
西洋世界だと、厳正ユダイズムと基督教意向が「性=不浄」の成立だと思いますが、それにしても最近2000年ほどのこと。
(ケルトは知りません)
日本だって、明治維新以降の武家秩序が一般にひろまって以降。
(江戸の浮世絵の9割以上が春画であることを考えると、おおらかさが伺える)
性が不浄って、新しい価値観なんですよね。
私がこの価値観に問題を感じるのは、終局的にその観念が女性の人権抑圧につながるから。
「性=不浄」という価値観は一般的に女性にのみ適用され、男性はその価値の枠外にあるという二重の基準論が問題なんです。
生物学的に女性は出血出産と、より生物学的で性に結び付けられるし。
理念として、「性=不浄」という価値観は破棄されるべき、というのが私の信条です。
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「性=不浄」の価値の根底の一つにあるのが、処女性の価値らしい。
この「処女性」の尊重は、どうやら父権の確信という機能的をはたしたからのよう。
語源的に「ハネムーン」とは、女性を一月経周期の間独占することを意味したらしい。
1、期間中最初の月経と、初夜による出血(うさんくさい)を確認し。
2、その間女性を隔離し、性交を続け、次の月経がないことを確認。
3、身篭った子は自分の子であると確認。
そしてこの父権の確実性が要求されるようになったのは、人間が定住生活を営み都市が成立するようになったあたりから。
(集団生活(部族)の場合は、一般的に財産は母系相続。父は不明でも母だけは確実)
やっぱり、せいぜいここ最近1万年程度。

10/15
予定通り、「日本神道の全て」読み返し中。
・日本において、神話と信仰は別個に発展した。
・前者は、朝廷の豪族統合に合わせて進展。(一つの成果が古事記・日本書紀)
・平安京における疫病などの都市問題が、「穢れと祓い」の概念を神話に睦びつけた。
・これにより(仏教儒学の影響を交えつつ)、信仰としての神道の原型が確立。
・対して後者は、民間における性信仰、穀物信仰、太陽信仰、など何らかの尊いものを祭ったもの。
・神が名を持ち、信仰に朝廷神話との関係が生まれるのは、農業生産力が向上した中世以降。
・神道という概念が意識されたのは、百済からの仏教伝来時。
・神道は外来思想との関係において、自らを体系化。
・その際には、仏教、儒学の概念用語を用いた。(神道の語は、中国の古典にある)
今のところ、ここまで。
古本屋で見かけて、ふと吉川英冶の「親鸞」三冊かいました。
吉川英冶といえば、10年以上前に「三国志」読んだとき以来かな。
私の実家は浄土真宗なんですが、当然私は教科書程度のことしか知らず。
お東さん(東本願寺派)、北陸といえば真宗王国らしいので。
とりあえずは初等教育として、犬福でもわかるように小説から親鸞を読み始めます。
(仏教といえば、密教は興味があったので新書3,4冊は読んだんですが・・・・)

10/14
今現在「聖書を語る」は第8巻。
テーマは、「日本的心情と聖書」でした。
「古事記」「日本書紀」「万葉集」を通して、そこに現れるの古来(儒学、仏教以前)の心情の姿を明らかにする。
そこに他宗教と共通する要素、相違する要素を探る。
こういった内容でした。
とりあえず一読したものの、正直なところよくわからなかった。
何がかいてあるかは、簡単なんです。
比較と考察の対象とされるべき、日本本来の思想を私が理解してないので、内容に実感が持てなかったです。
そこで、神道の概説を振り返ってから、もう一度この本に戻ろうと。
幸いにして数年前に読んだ「日本神道の全て」なるモノが手元にあるので、もう一度読み返すことに。
(題名は恐ろしく頭が悪そうですが、内容は極めて穏当な良書でした)
今度はしっかりと要約作って、理解と記憶を明確化しましょう。
それにしても、自国の文化よりもヘブライ・ギリシアローマ世界の方がはるかに詳しいとは。
知識量にすると、1対100ぐらいといっても、誇張ということはないでしょう。
情けないですね、私。
自分のよってたつべき基礎を理解しないものが、他文化を理解できるはずがないです。

10/13
本日のNHK特集、「文明の十字路」の感想。
さっきの話の再録ですいません。
今回の対象はイスラム世界の中心であったバクダッド。
一部カルトの原理主義といい、米軍の占領といい、時節にあったテーマは見事。
番組そのものの内容はといえば、些か疑問符が付きまとったような。
否応なしに世界が縮小しつつある現在、些か白い目で見られるイスラム世界。
「文明の道」なる高邁なテーマにそうならば、本特集の内容は次のようなものあるべきだったのでは?
・イスラム世界のそれ以前の世界との継続性。
・イスラムと、他世界との深い関係性。
・イスラムの極めて高度な普遍性。
・これらを明らかにした上で、現在におけるイスラムとの共存可能性の立証すること。
どうも本日の番組を見る限りでは、かつてのバクダッドの再現映像に、その文化水準の高さを紹介したのみ。
黒柳さんと坂東さんと真君のいない「世界ふしぎ発見」みたいでした。
他世界との関係を思わせたものは、中華からの製紙方伝来と、ヨーロッパへの医学伝達、ギリシアからのアリストテレス継承のみ。
せめてこれらの事実に、現代につながる何らかの意味を与えるべきであったのでは?
要するに本日の特集からは、「何を主張したいのか」という根本が伺えませんでした。
勿論、諸事情あることは理解できます。
まず、たかが60分でイスラムをまとめることなど絶対に不可能。
(ならば第一周のアレクサンドル編が終わった後、現第二部で1年がかりほどでイスラムをやればよかったのでは?)
そして、本日特集の内容は、高校で世界史を取った方以外には常識ではないとい思われること。
まず前提となる最低限の知識を提示した上で、あとは視聴者の側で学習に励んでくださいという趣旨なのかもしれません。
番組を作るって、難しいでしょうね。
「視聴者をどの層と想定するか?」およびそれに付随する「内容の詳しさは?」。
プロフェッショナルであらせられるNHKのディレクターのご判断ですから、私ごときに口を挟む資格はありません。

10/12
ふと思い出して、「ローマ人の物語」を読んでます。
1,2巻を読んだのが一年以上前。
でも、要約作っといたおかげで、記憶は鮮やか。
今回は3,4,5,6,7と店頭に並んでいるものを全て求めました。
この書に私が求めているのは、「ローマ帝国」の構築を可能とした要素が何であったか、を明らかにすること。
この点第三巻の冒頭に、なかなか興味深い記述がありました。
こういう超大局的視点が面白く感じられるようになったのは、私も年をとったせいかな?
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歴史への接し方は、大別して次の二派に分類できる。
第一は、アピールしたいことの例証として、歴史を使うやり方である。
第二として、歴史の叙述そのものを目的とし、それを手段とは把握しないこと。
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著者の塩野七生氏は多くの例を挙げつつ、自身第二の立場に立つことを明らかにされておられます。
私は、歴史は現代を考えるための手段と考えているので、どちらかというと前者の立場でしょうか。
実際両者の境界は、明確なものではないでしょうが・・・・
前者のように例証として歴史を用いる場合、その前提にあるのは諸地域を時間を越えて比較することでしょう。
それは、相当量の知識を即座に運用できることが必要であって(九九のようなもの)、そのためには後者のアプローチが不可欠となるわけですし。
以上前置きでした。
3,4,5巻のテーマはポエニ戦争。
まだ4巻半ばまでしか読んでませんが、面白かったことが一つ。
カルタゴ軍は、敗軍の将軍はその責任をとわれ、斬首もしくは十字架刑に処せられていたそうです。
対するローマは、敗北そのものの責任は不問。
(命を尊重したとか、決して人道的な理由によるものではなく、純然にプラグマティックなもの)
結果として、前者は「臭いものには蓋をしろ」。
敗北の理由分析や将来的展望に欠けることとなったようです。
先の大戦時の皇国軍にも通じる姿勢ですね。(別に敗将を処刑したわけではないが)
ローマ人は、敗軍の将を(能力があると見れば)民会で再び執政官に選任してみたり。
「帝国」の本質たる要件の一つ、「寛容性」がここにも現れているのが興味深いです。
ではローマ独特の要素は、全帝国(ローマ、中華、USA、中世ヨーロッパ、イスラム)共通の寛容以外のものは何か?
それは「システム」の概念であったのではないか、という気がします。
すなわち、運用する人間にかかわらず機能する制度。
ローマ法しかり、軍制しかり。
個人(天才)に依存せず、誰でもできる地道な行為の積み重ね、これがローマだったのではないかと感じるこのごろでした。
「ローマは一日にして成らず」という言葉が、より重みを持って感じられます。

10/11
衆議院が解散されたそうで。
綿貫民輔議長の晴れ舞台でした。(富山県民)
昔からよく思うのは、事あるごとに「官僚批判」が起こること。
あたかも、「官僚」なる一個の実態が存在するが如くに。
何かを批判すればいいって(メディア、政治家、一般人ともに)、ものを語る姿勢として責任転嫁の最たる姿ですよね。
良識ある人がその批判の姿を見れば、「ああっ、この人は知的に恵まれないんだ」って思うだけで。
テクノクラートって必要も何も、単なるシステムなんですよ。
立法府(政治家)がそれを利用できないからこそ、システムが自己主張を始まるわけで。
優秀なテクノクラートは絶対に必要だし、その補佐なしに非専門家である政治が行政をになえるわけがないのであって。
そのシステムを利用する制度の構築(要するに立法)こそが、合理的思考の結実。
民主党が政権をとったと仮定した場合。
(田中派から出てった人たち以外は)経験もないでしょうから、行政事務など単独では不可能。
でも官僚システムさえあれば、彼らでも(犬福でさえも)十分に実務をこなせるわけで。
省庁設置、人事はともに法定事項、それ以外は政令事項のはず。
いくらでも立法府裁定の範囲内ではないですか。
「官僚の猛反発が」というなら、それは官僚を利用できない政治家の資質の問題。
歴史上の偉大な政治家というものは、目的達成のためには、いかなる手段を駆使しても成し遂げたもの。
ちなみに、「官僚」と単純化すること自体、思考法論法として極めて稚拙。
官僚になった人は、みんな優秀だったと思うんですが。
頭も悪くはなかったし、100%がパワーシーカーというわけでもなかったし(多分5割以下)。
欠点があったとすれば、少し知識(もしくは興味関心)の範囲が狭かったことかなあ。
古典・宗教・自然科学といった基本的教養はちょっと少なかったのか、そういう会話はあまり成立しなかった記憶が。
でもそのころはたかが大学生でまだまだ子ども。
私はまだ足も生えてなくて、にょにょにょにょ言ってたな記憶があります。
そのころ私は本当に馬鹿で、官僚をあしざまに罵っていた事を正直に告白します。

10/10
昨夜の続き。
3日間の、エホバの証人・統一教会・モルモン教紹介はおしまい。
こんな変なことでも、自分で文書化してみるとずいぶん記憶に定着するものです。
これらのカルトの共通要素は何か?
問題はこの一点に集約されるでしょう。
 ・確実な事として、教義がどれも著しく単純である、という事実が第一に挙げられます。
どれもこれも、一読して理解完了。
難しければいいというものではないでしょう。
しかし、解らないが故に、必死に頭を働かし、謙虚に学ぼうとするという人の基本姿勢が発生するという事実は否定できないもの。
私の基督教の場合、幼いころの岩波ジュニア文庫のイエス伝のようなものから始まり、遠藤周作、阿刀田高、犬養道子・・・。
たぶんのべ50冊以上は読んでいると思いますが、自分に理解があるとは全く考えられません。
歴史と論理と文理解釈の点では少々認識がありますが、根本は一生わからないであろうという自信があります。
奥行きのないものに、価値がある場合は希少ですね。
漫画でも、映画でも、ゲームでも同じ事。
 ・次にいえるのは、聖書の文字通りの解釈を行っているという点。
聖典の文字を一字一句正しいと理解する、いわゆる原理主義です。
(原理主義は本来的には基督教の上述の理解を行う人をさす用語であり、イスラムのそれは新しい用法)
結局のところ、原理主義がもたらすのは思考停止。
しかも聖典には、合い矛盾する箇所が多数あります。
歴史性文学性を帯びるものである以上は総合的な解釈をされるべきものだから、読む側が考えないといけないのですが。
結局のところ、原理主義は自分に都合のよい聖典の一部だけを主張し、ほかは無視することに。
(女性教育禁止、大仏破壊などを行った、タリバーンがその好例)
 ・異端であること。
「異端」という用語には、実はかなり理にかなった明確な定義が存在します。
己の主張を持たず、正統教義の一部のみを強調し、その他を否定する事。
特に今回取り上げた3つの異端基督教は容易に異端性を肯定できますね。
「統一教会」のばあい、ひたすらに「原罪」を強調し、「キリスト」の神性を否定するなど。
オウム真理教にしても、仏教哲学の我田引水的解釈に、メシアを主張する麻原。
幸福の科学の場合、オリジナリティにかける諸宗教概念の流用に、著しく単純かつファンタジーな歴史認識。
結局のところ、正統派の単純化が普遍性を薄めてしまうのでしょうか?
・以上共通要素の抽出でした。
カルトの教義が(理性がある以上)思想の自由市場で多数を占めることは、内容ゆえに、ありえないでしょう。
でも、それが間違っていると納得させるのは困難な事。
極端な例として統一教会を上げると・・・
「性行為以外にこの世の行為に意味は存在しない」
この言明は間違っていると私は思います、しかしそれを説得する言葉は、私には存在しない。

10/9
雑誌つり広告の、「子どもを殺人鬼にしないために、絶対に子どもに与えてはいけないゲーム」ってどんなのでしょう。
「すくすく犬福」も入るかな?
子どもたちが犬福をやると、
(クイズの結果賢くなって)「見よ、子どもは我々の一人のようになり、善悪を知るようになった。」
って、悪い無知な冗談です。
昨夜の続き。
モルモットは「モルモン教」、正式名称は「末日聖徒イエス・キリスト教会」。
開祖は、宝探しを趣味とした「ジョゼフ・スミス」。
14歳のとき(1830年)に天使から、「既存教会は全て間違い、真の信仰を回復せよ」との啓示を受けた。
彼は趣味を生かし、ニューヨーク近郊で土の中に埋められた「金版」を発見した。
金版には、アメリカ先住民の文字(改定エジプト文字)で文書が記されており、天使がその文字を解読するためのメガネを貸し与えた。
(学問上、「改定エジプト文字」なるものの存在は肯定されていない!)
この金版を解読して英訳したものが、「モルモン経典」である。
この金版は解読後に天使の命令で再び隠された。
(スミスは身内11人を証人として金版を見せたが、そのうち3人は棄教、一人は「信仰の目で見たのみ」と告白)
・経典の内容
キリストは昇天後アメリカにわたり、インディアンに宣教した。
そしてこのインディアンとは、失われたイスラエル北部10氏族であった!
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イスラエル人は12氏族からなり、前11世紀ごろ統一王国を樹立するが、その後南北に分裂。
北部王国は前7世紀にアッシリアに滅ぼされ、そこに居住した10氏族は帝国各地に強制移住させられた。
かくして北部氏族は他民族に同化吸収されて消滅。
北部氏族がこの様に行方知れずとなった故に、各地でいいように利用されている。
「モルモン」のいうように、アメリカ先住民となった。
シルクロードを通って日本に入り、天皇家となった。(日ユ同祖論)
この様に、自民族の祖をユダヤ人とする説はほぼ世界中の全民族にある。
(ユダヤ陰謀論を唱える人の多くが同時に、ユダヤ人同祖論を主張しているのが興味深い)
ちなみに南王国は前6世紀に新バビロニア王国に征服され、住民はバビロンに連行される。
ユダヤ教経典の編纂がこの時期に編纂され、民族のアイデンティティーの確立が進んだことも、南氏族が存続した理由では?
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キリストはアメリカで教会を確立(その後滅亡するも)、その遺物が「金版」である。
創始者スミスは旧約聖書にあるように一夫多妻制を唱え、合衆国憲法違反で追求された。
また自身が設立した銀行の倒産で投獄されたが、これらをモルモン教は「迫害」と主張している。
(彼自身は倒産被害者に暗殺されて、「殉教者」となった!)
一夫多妻制そのものはイエスも戒めているが、モルモンに従えはイエスの周囲の女性は全て彼の妻であったことになっている。
モルモンによれば、神には体があり、神が人間になったように人間も神になれる。
また人は一つの天体の神になることができる。

10/8
道路公団の総裁の解任にも、聴聞の機会が与えられる手続き保障は素晴らしいものですね。
彼個人の行為とは別に、制度そのものには感心させられます。
マックスウェーバーによる官僚制のメリットの一つが、政治からの影響の隔絶であったことを思い出しました。
ついでに、狂牛病の牛が見つかったそうで。
この病気には結構関心があります。
一番面白いのは、たんぱく質からたんぱく質への情報伝達が行われている点。
核酸からたんぱく質(正確には、DNAからRNAですが)への一方的情報伝達という、セントラルドグマが破れている点が不思議というか、恐ろしいというか。
いかなる形で、プリオンは自己複製するのでしょう。
我等の身体の蛋白が突然にプリオンになったら、と思うと相当怖いです。
・昨夜の続きで、今回は「原理運動」。
世界基督教統一神霊協会が正式な呼称。
創始者は、平壌生まれの「文龍明」。
(自身の教義では、龍=サタンなので、文鮮明に改名)
16歳の復活祭の日、イエスからの「2000年前の私の使命を全うし、人類を救済せよ」との啓示を受ける。
(ちなみにこのとき、イエスはヘブライ訛りのある韓国語で話しかけてきた!)
1941年から43年まで早稲田大学に留学したと自称するが、実は早稲田工業高校であることが判明している。
その後ソウルで職を得、「金百文」氏の弟子となる。
「金百文」の教えは、「血わけ」の宗教であり、それはセックスを支柱とする教えであった。
平壌では女性問題で告訴されて2度投獄され、(啓示により)アメリカにわたってからは脱税で投獄される。
(勿論、協会ではこれを迫害と主張している!)
・教義
神は、「陽性」と「陰性」を合わせた「中性」であり、それが三位一体。
(聖書の本当の意味は文鮮明のみに啓示され、一般人には解らないことになっている)
・原罪
神はアダムとエヴァを造ったが、二人は神の許しがあるまで結婚してはいけなかった。
しかしエヴァはだまされてサタンと性交し、次いでアダムと性交した。
そうしてサタンは人類を支配し、神の計画はむなしくなって人類は楽園から追放された。
(原罪は遺伝するらしい、なぜにセックスが罪なのかは不明である)
・復帰原理
神は人類の救いのためにイエスを送ったが、イエスは十字架で殺されたので失敗に終わった。
(神によるイエスの使命は、セックスにより正しい人類を生み出すこと!)
そこで神は新しいメシアを送る必要に迫られた。
文鮮明の解釈によれば、メシアは1917から1930の間に韓国に出現するらしい。
(明らかに自分のことをいっている)
そして彼は、日々の営みに励んで、子孫を増やすことによって、原罪から無縁な完全な人類を作り出す。
いくら彼が精力絶倫でも、人類救済には不足である。
そこで彼の定めた男女が結婚すれば、そこから生まれた子は原罪を負わない。
これが集団結婚式である。
・感想
何故にそこまで性交に教義の焦点が当てられているのか、理解に苦しむところ。
教義の実践は楽しそうですが、朝から晩まで宗教的勤行に励んでいればどうなることか。
最初の一月くらいは楽しそうですが、そのうちに虚しくなって1年は続かないような気がします。
その虚無感に打ち勝てる文鮮明氏は、ある意味超人なのかも。

10/7
本日、書店にて面白いものを購入しました。
「ゆがめられたキリスト」と題するパンフレットが150円。
すなわち、エホバの証人、モルモン教、原理運動の解説を、カトリックの側から行ったもの。
(異端を定義するため自らの根幹を明らかにしてあるところが名著)
我が大学でも「統一原理」と「民青」が、一般学生とは遠いところで戦っていたなあと、懐かしくなりました。
(「民青」とは「民主青年同盟」という共産党の下部組織、ちなみに「大民青」は「大日本民族青年同盟」)
彼ら自身、お互いの相違は理解していなかったようで、教室内にまかれる互いの誹謗中傷ビラは無知。
これでは発展がないものと、少々研究してみることに。
(私マルクスは理解してません、犬福なので馬鹿)
なかなか興味深いので、ここに概要を。
「奇妙な論理」(かつて社会思想社から)をお楽しみの方なら、きっと面白いはず。
本日は、「エホバの証人」から。
まず些事から。
創始者はペンシルバニア州生まれの「チャールズ・ラッセル」。
妻に離婚訴訟を起こされ、ガン治療の万能薬を売り出し、エジプトのピラミッドの計算から未来を予測した。
地獄の恐怖から独自に聖書を研究し、己の教義を確立した。
彼は世の終わりを確信し、キリストの再臨を1914年と予測。
彼の予言の信者は、その予測に基づき財産を売却したが、世の終わりはなし。
信者から訴訟を起こされる羽目に。
彼はその前に死に、彼の弁護士が2代目の主導者に。
彼の独自の計算に基づき、キリスト再臨の予定は1918、25、30に移行。
(現在の最終的再臨の予定は、1984年になっているらしい)
再臨のキリストとともに復活するアベル、ノア、アブラハムのために信者から金を集め、豪華別荘を建設。
高級車まで用意して、自らそこに住んだ。
3代目の現指導者が「ナサンクノール」
上記別荘を売却し、現在の膨大なパンフレット配布体制を築いた。
また、独自の聖書の翻訳を完成させるが、謙遜ゆえに訳者の名は明かされず。
次いで教義。
キリストは1914年に再臨し(霊的な姿なので見えない)、千年王国が始まった。
そして千年王国は、2914年まで続く。
(聖書における「千」は無限に多いことを示すシンボリズムであり、具体的な数ではない)
エホバの証人以外(国家権力、経済界など)はすべて「サタン」の手先であり、最後の戦いのために戦力を整えている。
(故に彼らは国家公務員にはならない!らしい)
最後の戦いの後には、キリストともに宴の席につき、「天的大国」の相続者が決定される。
その数は14万4000人と、黙示録に記される。
(この数自体も、12*10000というシンボリズムであるが、それが文字通り採用されている)
エホバの証人の信者自体が14万4000人を上回っており、入信しても救われない人が多いことが、教団内の大問題となっているらしい。
彼らにとってキリストとは、大天使ミカエルであり、生まれたのは12/25ではなく、10/1である。
(ちなみにカトリックはキリストの出生日を確定していない)
まとめ。
彼らは「聖書」を文字通り受け取っている点で、原理主義と同じ。
天地は1週間で創造され、人間はチリから生まれたので進化論もだめ。
彼らが使う聖書も、自らの都合のよいように独自に解釈されたものである。
個人的見解としては、己のみが救われるという選民思想を核にすえる点で、普遍的宗教たりえない。
明日は、統一教会、モルモン教の予定。

10/6
最近思うこと。
本来の著者の意図は、そのしるされた言語でないと正確には伝わらない。
「翻訳」という作業自体、極めて困難だと言い換えてもいい。
それは、原意を伝達するのが難しいという単純な問題ではない。
言語の相違は、概念そのものの相違を意味するからだ。
適切でないと感じた訳語は、「罪」。
勿論、高校英語を学んだ人ならば、罪には、「sin」・「crime」という二つの単語が相当することを知っているだろう。
前者の「sin」は辞書には道徳、宗教上の罪、という訳が当てられている。
この定義を知っていれば、「sin」の意味が解るかというと、それはありえない。
「罪」という単語を使うから、であろう。
日本文化において「罪」とは、「crime」そのもの。
そして「crime」とは、刑法的定義に従えば「構成要件に該当する違法で有責な行為」、およびそれに対して科される不利益。
自己の行為に対し、外部の権威に従って負荷される何らかの不利益が、「crime」。
対して、「sin」。
それは自らの行為に対し、自らの心が、それを犯したことに何らかの不和感を抱くこと。
行為評価の主体が、外部的権威ではなく、己の心である点が最大の相違点だ。
感覚的には、夏目漱石の「こころ」の「先生」が陥っていた状態が、「罪」の明白な例だろう。
己の心に由来するものであるが故に、決して贖われる事のない苦痛。
これをこそ、「人は罪びと」と言うのかもしれない。
故におそらく、「原罪」「罪の結果は死」というときの「罪」は、「自己由来心理的不和感」などと言い換えるのが適当なのだろう。
長ったらしいけど。
言語を学ぶことは異なる思考体系を学ぶことである。
この言明は、上のような作業を通して人が新たな概念を獲得して行くことをさしているのかもしれない。
概念そのものを抽象的に操作するという作業こそ、学問の一つの意味かも。

10/5
本日早朝起床しまして、たまたまテレビをつけると、「週刊フジテレビ批評」なる番組が。
(早朝のCMのない自己批判番組)
自民党総裁選の報道のあり方を取り上げておりました。
フジの方々に加え、有名な「政治評論家」なる方が登場。
驚かされたのは、この政治評論家氏が正論を方っていらっしゃることです。
憲法的、政治学的な普遍的視点のものとに、政治は、そして報道はいかにあるべきか。
この方は通常の番組にもよく出演していらっしゃるのですが、それを見る限りでは・・・・・。
「狭隘な視野に、短絡的見解と、対象は権力争奪戦」、これらのみコメントをしていらっしゃる。
客観的に考えて「知的に恵まれない」と評価されても弁解の余地のない方でした。
そのような方が正論を吐かれるとは、喜ばしくあり、少々の驚きも抱く局面でした。
冷静に考えれば、彼とて好き好んで頭の悪い発言をされているわけではないでしょう。
この当然の事実に気がつかなかった私こそ、愚の骨頂というべきか。
お金のためとはいえ、彼も常日頃の頭の悪い演技には嫌気がさしていらっしゃるでしょうなあ。
スポンサーと視聴率の圧力から自由になれば、フジテレビの方々だって本当は良識的な番組を作りたいのでしょう。
政治解説者の理想って、どんなものでしょうか。
とりあえずは、誰にもわかりやすいように権力闘争とスキャンダルから。
そこで対立の争点を明確化し、その争点を普遍原則から一般化して解説。
そして、視聴者自身が判断を下すことができるように、考え方と基準を詳しく教える。
ここに、ユーモアを交えられれば完璧。
この様な話し方のできる人間になりたいものです。

10/4
風来のシレンの死に様は、何故に毎回かくも劇的であるのか?
予見可能性と対処に必要なものは全て与えられているのに。
ということで、気分転換に背後の画像に目を転じました。
私はパソコンで何か(99%シレン)やっているときには、別ウインドウで動画を流してます。
ニュースが主体です。
ゲーム中のシレンは音声オフ、横のウインドウの音声のみを流します。
時間は有効活用?しなくては。
ブロードバンドの恩恵に感謝する日々でした。
逆に言えば、ネットで受信する番組は専ら音声としてのみ利用しております。
光ケーブルで高度な画像の受信が可能になっても、きっと私はおんなじ使い方してるだろうなあと。
たぶん、「ハリーポッターと秘密の部屋」を背景にして、英語のままで聞きながらシレンやってるでしょう。
世の中には結構、画像情報を必要としない方は多いと思うところでした。
画像を見るほど時間のある層は、ほとんど存在しないのでは?
この際に視聴する主なものは、当サイトのインデックスページの一番下の「動画ニュース」の項目です。
もっぱら自分の利用のためなんですが、そこそこ便利なので気が向いたら使ってやってください。
(自分でも見たことないの沢山混じってますが)
「ヤフー」「エキサイト」は複数のニュースを連続して流してくれるので、手間がかからず便利です。
「NBC」も連続再生してくれますねー。
私の利用頻度最高は、「CBS」。
冒頭に「CBS dotcom video is always free!」ときてくれるのが大変に心強いと感じるところ。
(CNNは有料なんですよ)
ちょっと前までは海外ニュースはNHKBSでもなければ見られなかったものが、今では好きな時間に視聴できるのはとってもありがたい。
外国のニュースは、中東の報道がとっても充実してて興味がもてる内容ですね。
アナウンサーさんの英語は、(北朝鮮や日本の国連代表ほどではないが)とっても聞き取りやすいですし。
「日経」は犬福にも解るように経済事象を解説してくれます。
面白いのが(今追加しましたが)山本晋也監督の「ランク10国」。
監督が、さまざまなものに突撃インタビュー。
面白かったのが、「日曜エロ画劇場」の「アダルトゲーム」。
監督が「エルフ」に潜入して、「らいむいろ」をやったり、スタッフとエロスについて語ったり。
彼って、すごく考え方がリベラルなんですね。
一つの道(ロマンポルノ?)を究めれば、多くのものに応用がきくんでしょうなあ。

10/2
本日は読書ノート。
専ら自分のためだけです。
長いので、こちら
本に直接書き込んだものの転載です。
本は書き込みが多ければ多いほどよし。
サーバー上においておけば、なくなる心配も無し、あとから自分が読み返して復習できますので。
対象は、「聖書を旅する、5巻」
たかが数ページに、かなり悩みました。
ただ、10年来の「イエスが人性・神性」を持つことの理由が解決してうれしゅうございます。

10/1
本日付で、首都圏でのディーゼル車走行規制が始まったそうで。
花粉症、アトピー、鼻炎を抱える私にも、そこそこ関連性のある事象です。
ニュースで印象的であったのは、運送業を営む方の言葉。
「我々だけに負担を課すのは納得がいかない。」
確かに、そのとおりなんでしょう。
ただ、我等が経済学は語ります。
「どの過程において課税(負荷)がなされようと、それを負担するのは終局的には消費者である。」
ディーゼル規制をクリアするための負担は安くはないようです。
しかも市場の状況を考えるなら、その負担を運送請負コストに反映することができないのでしょう。
ただ、そのような過当競争も時間の問題。
中期的には淘汰が進み、ディーゼル規制のコストも運送請負料金に上乗せされるようになるはずです。
さすれば、その運送料金上昇はめぐりめぐって小売価格の上昇を招くはず。
いってみれば、ディーゼル廃棄汚染の主犯は消費者。
大気汚染(さらにはエネルギー消費)を抑制するには、需要総量の抑制以外にはありえないはず。
そして需要を抑制するには、価格を上げるしかない。
この理屈自体は単純明快だし、極めて説得性が強いものです。
解るんですが、経済の理屈って少々冷たい面もありますよね。
「淘汰」が進むということは、多くの失業が生じることを意味するわけですし。
ここで生じる失業に対しては、「税制による所得の再配分」なる解答を経済学が用意します。
人間って、金をもらえばいい、というわけでもないですよね。
経済学の主張が合理的でありすぎるが故に、この様に思うのでしょうか。
実際のところ「所得の再配分」等の政策が十全に機能することは稀でしょう。
が、そんな事は原則と関係のない手法の手違いと経済学は正当にも語るはず。
自分を省みれば、コンビニを多用する私はその個別少量輸送の恩恵を多大に受けておりますし、玄関までやってきてくれる宅配便もありがたい。
消費者こそが大気汚染の主犯である、業界がこのことを理性的に語れば、ほとんどすべての消費者は納得するんじゃないでしょうか。
そして運送業・小売業の方々は、心おきなく、小売価格に規制コストを反映してください。

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