日記11月
戻ります


11/29
「処女懐胎」という語を変換しようとしたときのお話。
「しょじょかいたい」を変換すると、以下の順に変換されました。
1、処女か痛い
2、処女解体
3、処女買いたい
4、処女懐胎
なんともこう、意図的に行っているとしか思われないような語句が飛び出します。
笑いました。
私が使用するのは頭の悪さで高名な「MS−IME」なのですが、固有名詞にちかいもの位は一発で変換できないものでしょうか。
最近はこの様な、誤変換に伴うと思われる語句に愛着が伴うようになってきました。
「漏れも、漏れも」とか、「中田氏」とか。
ユーモアと照れ隠しとが伺われ、心温まりますよね。
心が狭かったせいか、まだ足も生えていなかった昔はこういった語句が大嫌いだったことを思い出します。
今でも自分では決して「顔文字」や「(なんとか)」は用いないよう心がけておりますが、これも昔は嫌だったなあ。
メッセージを誠実に伝達することができるか否か。
よき言葉のメルクマールは、上の点にあるのでしょう。
上記二者を用いた文書が必ずしも劣悪なわけでもなければ、用いていない文書でも意味不明の悪意の顕現のようなものはいくらでもありますし。
(ただ残念ながら、上記二者の使用される文書は少々表現として疑問を感じざるを得ないものが多いのも事実)
最近すごく気に入った顔文字。
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
、(´・ω・`)ショボーン
実によく、表現意図が伝達されます。
ことばの本義を忘れなければ、新たな表現もそれはそれでよいものである。
このように感じられるようになってきた私でした。(福)

11/28
報道によると、農林水産省が今年の各県の米の生産目標(割り当て)量を決定したそうで。
減反云々をどうこう言うつもりは無いです。
この割り当ては、今年の冷夏の影響を考慮して、冷害の著しい地方の割当量を増やしたそうでした。
その、被害をこうむった方に所得を保証、という当面の観点では正しいんですよね。
ただ、現実的観点においてどうなのだろうと、これも私の理解を超える問題です。
冷害著しい=本来的に水稲には適さず米の品質悪い=質の悪い米が大量出荷=価格低迷=コメ市場全体の停滞。
(そもそも「生産管理=意欲停滞=市場低迷」)
この施策が実行されたなら、通常の市場原理に任せるなら、やっぱりこの流れが自然なのでは。
対処療法的処置は長期的視野に立てば、業界そのものの衰退につながるように感じます。
では直接的な所得保障を行うのが妥当かというと、それも結果は上に同じような気がします。
私個人は、水田というのは、食糧生産以上に、環境保全の役割が大きいと考えています。
特に山間地方は間違い無く。
昔面接でこの見解を述べて、「君は農林族議員のようだなあ!」といわれた過去あります。
あのころはまだ足も生えてなかったものです。
話題を戻すと、要するにお金をばら撒いても、(山間の)水田は残すべきだとどこかで思っている人間です。
でも最近思うのは、そこまでして水稲耕作を残しても、果たして誰が喜ぶのだろうということ。
耕作者たちの高齢化著しく、農業労働そのものがますます苦痛を大きくするだろうし。
休ませる方が彼らのためになるという見解は、十分な説得力を持っているように思います。
当然消費者は、特に私のように味に関心の無い心貧しい人間は、安価なカルフォルニア米のほうが望ましいし。
本当に必要なのは、彼ら高齢耕作者の「care」・自発的な若い耕作者の確保ではないのかと、思わないでもないところ。
(「失業対策として水稲耕作に・・」というと、唯一ネ申又吉イエスになってしまう)
農業政策は難しいですね。
どうしても食糧安全保障の観点ははずせないし、環境保全も機能として無視できないし。
その上で、「市場原理との共存を。」
人的生産性の向上や国産米の、ひいては米そのもののイメージアップを図るしかないのでしょう。
そして最後には、食糧安保と環境問題を意識させた上で、自発的な国産米の選択を促すと。
どうしても価値論に入らざるを得ず。
無理っぽいですね。
今のシューティングみたいなもので。

11/27
片付け続報です。
出てきたものが、DCのソフト「ラブひな、スマイルアゲイン」。
その特徴が限定版であることで、多数のおまけがついて巨大なパッケージです。
(正確には、限定版しか発売されていない)
そのおまけたるや使えないことに、風呂桶など。
邪魔でしょうがないので、捨ててやるかと封を開けてみます。
で、より危険なものが入っていることが判明しました。
下の写真、ほぼ実物大の「成瀬川なる」のバスタオル。
こんな破廉恥なものがこの世にあるとは、想像だにしませんでした。
一回使って捨ててやろうと思いましたが、絶対無理だ。
眺めていると、それっぽい気分になってきます。
人生で一度くらいこの感覚を味わってみるべきだと思いますが、長期にわたると間違いなく彼岸の住人になってしまいそう。
「抱きまくらー」なる人々のことが理解できそうで、そのような自分が恐ろしくなります。
だめ、成瀬川がよんでる。

11/26
素晴らしいサイトを教わりました。
True Japanなる、日本国についての概説サイト。
筆者が何処の国の方かは謎ですが、相当な知識に基づかねば、あれほどの記述は不可能と思われます。
まず図や写真といった画像ファイルに目を見張り、隣の文を読んで更に驚愕にいたります。
「どこかヘン」の連続ですが、悪意というより、愛情に満ちていると感じるのは私だけでしょうか。
全文英語ですが、何処と無く下手な英語で、ちび福程度の英語力があれば十分読めるでしょう。
英語の方が読み進むのに時間がかかる分だけ、笑いもゆっくりと起こって来るのがよいですね。
「笑いには、英語がよく似合う」、(阿刀田高氏風)
とりあえず、ガルダクリア。
通算プレイ回数20から25程度と思います。
2599万8590、残0、前方集中ショット機体。
犬福でもこれほど短い期間でクリアできると、簡単でいいゲームですね。
ラスボス最後難しいと思いましたが、冷静に考えるなら大往生5ボス黄流の最後と大差なさそう。
難度を大幅に落としたケイブの方々の英断に敬意を表したいです。
が、数が出てないゲームだから一体どれほどの方に触れる機会があるのでしょうか。

11/25
CDを整理してゆくと、マドンナの「ray of light」のアルバムが出てきました。
数年前によく聞いたなと思い、久しぶりにプレーヤーに。
それは「frozen」という曲。
思わず泣いてしまいました、涙がとまらなかった。
泣くなんて何年振りのことだろう。
それは、以前よく聴いたのに、このとき初めて意味が理解できたから。
(英語が聞き取れたというものではなく、何をいいたいかが分かったということ)
この世には、分からないほうがいいことがあるものだと、心の底から思いました。
歌詞そのままの体験で理解を得ようとは。
でも、心の底から、鼻声で「ごめんなさい」と思えた。
成長するとはつらいことです。
自分がどれほど傷つこうとかまいませんが、人を苦しめてしまったのならばなおさら。
ここで絶望して自殺せずに生きようとすることのみが、その償いとなりうるのでしょうか。
それにしても、言葉の力とは偉大ですね。
なんと深くまで人の心に染み入るものか。
たかが一曲の詩が、思い出し・意味を考え・これからの道を照らしてくれます。
もう一つ思ったのは、英語という言語の素晴らしさ。
「frozen」では仮定法が効果的に用いられていましたが、その他にも単数複数に定冠詞・不定冠詞、時制に人称、単数複数。
文法のみで多量の情報を伝達という厳密さは、明らかに日本語に欠ける要素です。
マドンナの「frozen」の意味が実感できるという方、私と恋人にというのは冗談として、分かり合うことができましょう。
閑話休題。
他の発掘物。
「エヴァ」、「恐るべしっっっ!!!音無可憐さん」を全話標準で録画したのとか・・・・・。
テープは邪魔なので、前者は一回見てから全て捨てよう。
えっと同じく室内から、UCCのコーヒーで「綾波レイ」、「渚カヲル」の未開封が発見されました。
この二点、欲しい方がもしいらっしゃれば連絡ください。
送料のみで差し上げます。

11/24
昨日の世界遺産、ストーンヘンジでした。
もっとも興味を引いたのは、これです。
麦畑のいわゆる「ミステリーサークル」の映像が流れたとき、「この地方の農民が奇妙な文様を描くことがしられている」とのテロップが。
テレビ報道で、ミステリーサークルの真の成因が報道されたのは初めて見ました。
さすがは「世界遺産」に「ソニー」、報道内容の真実性と権威が備わってます。
「ミステリーサークル」が騒がれ始めたころ、私は大変な興味を持っておりました。
もちろん、学研マンガ「いるいないの秘密」に始まって、「ノストラダムス」・「ムー」と全て信じていた子どもです。
当然に、ミステリーサークルも宇宙人が作ったものと信じていました。
ところが、当時普通に市販されている本を調べてゆけば、イギリスでは「ミステリーサークル」の作成コンテストが開かれていたという記事が。
(全ミステリーサークルが人工という気はないですが、少なくとも複雑な形状のものは全て人工物です)
同じ年の民放の怪奇特集番組では、上の本で見たミステリーサークルが取り上げられておりました。
当然に、コンテストの作品であることは全く触れられず、原因不明としての報道です。
さすがに信じやすい私でさえ、民放の特集番組の無責任さにはあきれたものです。
偉大なる矢追純一氏の活躍に、キャトルミューティレーションに、ミステリーサークル。
あのころは本当に、人類の歴史も宇宙人の侵略で1999年に終了するのだと、心から信じていた時代でした。
自分も宇宙人に吸い上げられて、キャトルミューティレーションのように宇宙人に食われるのではないかと、生きた心地もしなかったものです。
・・・ちょうどこのころ、「ムー」にグレイが人間を吸い上げてミキサーにかけ養分として利用しているのを目撃した、という記事があったもので・・・・
一体誰が、どうやって目撃したんでしょうね?
いずれにせよ、ミステリーサークルは人工、キャトルミューティレーションは自然死、ノストラダムスの1999年は無事に過ぎ去る。
この世の終わりは訪れませんでした。
出来事は全て通常の因果関係の範囲内で発生し、突飛なことは決して起こらない。

11/23
グルジアとかいうところで、大統領と野党側支持者がもめているようで。
印象的なのは、大統領がシュワルナゼ氏であるということ。
この様にいうのは語弊がありますが、懐かしい方ですよね。
ゴルバチョフ大統領時代のソ連(これも懐かしい)の外務大臣さんで、とてもよくニュースで名前を聞きましたよね。
子供心に、大変に記憶に鮮明に残っております。
幼いころの刷り込み現象のせいか、次のような図式が・・・。
ゴルバチョフ=ペレストロイカ=シュワルナゼ=いいもん。
実情のところ、政権側の選挙の不正操作が行われたのか、全く分からない話ですね。
ソ連崩壊以降のコーカサスの方のニュースといっても、極めて散発的にしか聞こえてこないし。
アルメニアとアゼルバイジャンの戦争に、ゲリラ(イスラム原理主義かナショナリストかすら忘れた)にシュワルナゼ氏が苦しんだとか。
そういえば数年前に、グルジアの議会が武装集団に選挙されてシュワルナゼ氏が逃げたとかいう事件もあったなあ。
この情報の少なさは、まさに日本から見れば世界の果てですね。
コーカサスなんて、普通はヨーグルトしか思い浮かばんですよ。
ともかく、かつての時代に活躍された方の名を聞くと、当時を思い出すというだけのことです。
社会主義というのは悪い国で、それがなくなるのはよいことだと、新聞民放こぞって書きなぐってたなあ。
(少なくともNHKは1年間社会主義国の特集番組を作ったのでやっぱり素敵)
テレビでチャウシェスク大統領の死体が流れたなあ。
とりあえず、ゴルバチョフ時代に先見性のある人物であったからといって、現在もそうであるとは限らないのが面白いところ。
もしやシュワルナゼさんも、エリツィンのような愚昧にして高圧的な人物に化けている可能性も否定はできず。
独裁制というのは有効かつ効率的な政治システムだと思います。
が、その唯一の欠点は統治者が必ずしも賢明とは限らないこと。
そして賢明でない場合が大部分であり、かつ賢明な人物が中途にしてそうでなくなる場合があるのもちょっと困ったことですね。
犬福は、シュワルナゼ氏を応援していません。
(「ちゆ」風に)
閑話休題。
これより「許昌学園」と「南陽学園」の勝負です。
「もっとやれ、夏候惇」。
一騎当千より。

11/22
結果論として、テロリズムにも価値があるのではないかと感じることがままあります。
すなわち、合衆国に対してイラクへの早期主権委譲を考慮させていること。
あれほど高圧的かつ先見性にかけたブッシュ氏が主権の早期委譲を考えることがあろうなど、私は予測だにしませんでした。
そして皮肉にも、テロリズムを効果的手段たらしめているのが、来年の大統領選挙、ひいては民主主義という政治制度そのもの。
これがもしも元老院のような寡頭政治だったら、決してテロリズムにひるむことはなかったと思うんです。
(歴史的に成功した寡頭政治は、ローマの場合のように個々の構成員の責任規範意識が極めて高く、決して己の死をいとわない)
手段は間違っていても、イラク人に早期に主権の委譲が行われるのは正しいことですから。
この様に考えるなら、結果として妥当な選択をもたらすことの多い民主主義という政治体制は、やはり優れたものなのでしょう。
でも、ナチスの歴史に明らかなように、ファシズムを可能としたのも民主主義なんですよね。
より妥当には、イラク侵攻を行った現行の賢明でない政権を生み出したのも民主主義というべきか。
最近我が国でも憲法改正が盛んに議論され、その主眼の一つに9条と並んで首相公選制があると思います。
それが妥当なのか否かは、私の理解を超えるところ。
合衆国が議院内閣制を採用していれば、イラク侵攻という先見性にかけた行動はなかったのではないかとも思います。
でも一旦侵攻したとなるやそのテロに対する抵抗値は、寡頭制よりは小さいでしょうが大統領制よりは大きいでしょう。
大統領制と議院内閣制の相違は、政治決断の迅速性と決断の継続性の程度問題。
どちらがよいとは、一概には決定しがたい問題ですね。
とりあえず、我が国の報道の論点として抜けているのか、意図的に無視されているのかはわかりませんが次の点。
それは、日本国憲法の根底の一つに国民自体の決定権に否定的側面がある、という観点です。
この価値判断は、個々の国民がバカだと言っているわけではないです。
ただ、投票による意思決定となると、下記のごとき問題があることに留意すべし、ということだと私は解釈しています。

  • メディア等の不正な圧力が働きやすく、それによって判断がゆがめられる
  • 議論がなされない
  • 忙しい人が多く、選挙に気を回せない
    国民により大きな決定権が委ねられた場合のメリットは、政治参加意識の向上と、自己の決断に責任が伴うことが理解しやすい点でしょうか。
    憲法起草者の方々は、前者が後者を上回ると考えられたからこそ、現行憲法の制度が定められたのでしょう。
    私自身は、議院内閣制でいいと思ってます。
    専門家でないので情報もなければ妥当な判断も下せないし。
    所詮犬福には難しいことわかんないし。

    11/20
    いろいろと片付けてます。
    最近の本の処分は、専ら地下鉄根津駅の「メトロ文庫」に寄贈。
    寄贈といっても、正確には本棚に勝手においてくるだけです。
    わざわざだるい思いして古本屋に売却して数百円はばかばかしいし、ならば通り道の駅に。
    大学通うのに使ってた駅なので、感謝の気持ちも込めまして。
    一応読み物として成立しており、しかも自分がもう一度読み返す可能性のないものは全て寄贈することにしております。
    私が寄贈した本はなかなか好評のようで、翌日のぞくともうなくなっているものばかり。
    阿刀田高、遠藤周作、曽野綾子、岩波新書、文庫クセジュとこんな本は皆さん喜んでくださるようです。
    他の方に読んで頂けるなら、本にとっても本望というところでしょう。
    ちょっと申し訳ないですが、場所柄こういう需要もあろうかということで、教科書を少々。
    版が古い教科書なんて、悪質かもしれません。
    (それにしても講義の教科書に自分の著書を売りつけるのは辞めて欲しいものです)
    明日は刑法判例集なんかを、寄贈してこよう。
    この本も教官の自著で使えないんですが、死ぬほど笑える判例もたくさんあったなあ。
    片づけで、スプレー缶を4本処分しました。
    使い切ってから出ないとガス爆発を起こすので、なかなか処分が面倒です。
    ムースが2本、トイレに出し切ると便器が泡でいっぱいに。
    自分は整髪料は嫌いで、かさかさの髪に合わせてヘアクリーム(女性用しかないのかな?)を愛用です。
    制汗剤はガス臭いので部屋の外に向かって一斉放射。
    放射し続けていると、突然右親指に激痛が。
    ガスがあたっていたらしく、真っ白になって凍傷状態。
    まあ一生で、こんな体験ができることもあまりないでしょう。
    本日の喜びは、半年余り探し続けていた「パカパカパッション2」を購入できたこと。
    実物を見たのは初めてで、何のためらいもなくレジに。
    3400円でしたが、たとえ定価の5800円でもためらわなかったでしょう。
    実質、ここ2年余りの私のゲームライフは大往生とパカパカパッション(スペシャルと2)が主軸でしたので。
    これでゲーセンのない環境に行っても大丈夫。

    11/19
    何故これほど続くかとも思いますが、いまだに「聖書を旅する」を読んでます。
    現在のところ第3巻、3回目ということになるのかな。
    やはり根本に抱かれる疑問は、何故に人は自力では救済(言葉が適当でない、楽になるというべきか?)されないのか、ということ。
    この答えはおそらく、理屈で見つかるものではないのでしょう。
    私もそこそこ年をとってきたし、これまでに人生を振り返り、何を為したかを省みるにつけ、否応なく肯定的でない評価が浮かびます。
    歴史上も、碩学人徳で名高い人々の多くが、「私は罪びと」とのたまわっているそうで。
    この実感の中にこそ、上の疑問の回答があるのだろうなと。
    原典の記述(特に新約のほう)で面白いのは、一つ一つの文句が多大な背景を負っていること。
    イエスの言行の一つ一つが、最初の人間アダムの、そしてモーゼの行為のリフレインであり、それに新たな意味を与えるものであり。
    宗教的側面を排除して考えると、計算しつくされた文芸作品という側面もあるようです。
    アニメでいえば、「この場面のもとネタはあれか!」という具合ですね。
    一文一文がもとネタを持つにとどまらず、そのもとネタとの意味の対応関係が考えつくされているというところ。
    伝承の口伝期間もふくめるなら、2000年近くの時間をかけて形成された書ならではでしょうね。
    えっと、原典の聖書そのものは、ほとんど読んだことがありません。
    一度通読したことはありますが、なにがなにやら。
    解説なしでは全く何一つ解らない本ですね。
    もう10年ぐらい勉強を積んでから、もう一度あたってみようかしらん。
    それと、根本的に感じるのが、日本語で出版される聖書の、言葉の貧弱さ。
    私も好きで覚えている語句は少々あるのですが、それを書店に並ぶものの中に探してみれば落胆を覚えるばかり。
    口語訳が駄目なら、いっそのこと文語訳してくれたほうがありがたいかも。
    それともそろそろ、日本語に見切りをつけるべきときなのか。
    「ことば」そのものが生命であり神であるという根本命題を持つ価値体系なのに。
    (このヨハネ冒頭の文句は、ある程度文字通りに理解するのが適当と感じます)
    日本語をあの宗教は、著しく軽んじているのでは?

    11/18
    落としてくるゲームは、専ら選択肢皆無のノベルゲームばかりです。
    端的にいえば、別にゲームがやりたいわけでない。
    いまだに大往生のパターン作ってて、ゲームやりたいときはシューティングやります。
    ノベルものになってくると、選択肢は邪魔でしかないように最近感じます。
    ゲームらしくするために選択肢なんて作ると、かえって根本のストーリーが駄目になるだけで。
    (選択肢と物語性を並存しようとすると、「街」の水準が必須と思いますが、それは個人で不可能)
    選択肢で試行錯誤させるくらいなら、その時間を考えさせる脚本を作ることが大切なのではと感じるところ。
    素人の作るノベルゲームが面白いなと思うのは、それが強烈な主張の表れであること。
    正確には、何らかの強く表出したいメッセージを持つ人が、ノベルを作ろうと考えるのでしょう。
    だから、表現方法そのものは稚拙でも、その主張は著しく重みがある場合が多いようです。
    (更には、実体験に基づいている場合もあるようで)
    この手のフリーウェアのノベルによく書いてあるのが、「感動の・・・・」なる文句。
    これを謳うものに、浅薄な内容に稚拙な表現である場合がままみられるように思います。
    人を感動させるということは、意図的に行えるものではないですね。
    たいてい「感動」というのは、よくわからない萌え少女が登場して死んだりするだけ。
    勝手にキャラを出して殺して生き方を見つけて、それっぽい音楽を流せばいいというものではないと思うのですが。
    それで感動するとでも思っているのでしょうか。
    さらには、「涙を流すこと」を「感動」と取り違えているような気もします。
    泣くこと自体は、単純な生理反応。
    心を動かされた結果として涙が出るのであって、その逆ではない。
    もっとも、生理学的にはその逆も真というわけですが、意図的にそのような横道を選ぶのは表現手段として邪道というもの。
    表現手段として人を殺すという手法に頼らない、この様な制限をかけるというのはいかがなものでしょ。
    (私が一番好ましいのは、笑えるものなんですが、これが実は一番難しいかも)
    もう一つ疑問に思うのが、「幼馴染」なるもの。
    「いちおう、俺の幼馴染だ。」という台詞をみたときには思わず笑いそうになりました。
    幼馴染っていいなずけ並みに現実味のない言葉です。
    人気取る必要がないなら、無理に女キャラを出す必要ないと思うのですが。

    11/16
    本日のNHKアーカイブス、「千日回峰行」。
    「千日回峰行」とは比叡山の僧がのべ1000日間、一日40キロの道のりをまわる荒行だそうです。
    この番組でいささか疑問が合ったのは、その行の意味(宗教的なものを含めて)に一切言及がなかったこと。
    「偉いお坊さんが、すごい荒行に挑戦して成し遂げました。」
    「すごいにょ。」
    と、この次元にとどまってしまっていること。
    それとも、挑戦することそのものに意味があるのだという、人間の実存を描いている番組だったのでしょうか?
    (修行の意味を解さない私には、どちらとも断言できない)
    私が感じたのは、極端な荒行の意味とその必要性に対する疑問。
    修行さえすればよいと、自己そのものを判断基準とする思考の萌芽が見られるように感じます。
    この文脈が示すのは、修行の果てにたどり着くところに、何らかの意味が存在するという概念。
    キリスト教が(そしておそらく大乗仏教も)提示するものは、既にそこにあるもの。
    重要事項は、己を虚しくして、その与えられたものに心を向けること。
    両者のメルクマールとなりうるものは、自分を基準としないという謙虚さをもてるかどうかにあるのだろうと思います。
    (修養を積むことは決して後者が否定するものではない)
    この意味において、後者は普遍だと感じます。
    千日回峰行で中途に9日間の断食業があるそうで、その模様も報道されておりました。
    9日明けの行者の姿は、葬儀・通夜の際にみた、命の離れ去った祖父であった身体を思い出させました。
    宗教的な修行の一つの機能的評価としては、死の疑似体験という要素が確実に包括されると考えてよいのでしょう。
    死を知らないものが、死を、そして生を語ることは難しいから。
    だからといって、オウム真理教のように薬物による死の体験は(脳内作用は同じでしょうが)間違ってます。
    それに至る過程は、死の占める多くの(生者にとっては全ての)意味ですので。
    閑話休題。
    「一騎当千」みました、そのあらすじを転載。
    高校生たちが、互いに骨を砕きあう戦乱の地、関東。そこでは7つの実力高校が、天下を我がものにせんがため、覇権を争っていた。そんな中、女子高生・孫策伯符が現れる。運命に導かれるように、戦いに血が騒ぐ孫策だが、その彼女を幼なじみの周瑜公瑾が、心配そうに見守る。
    しかし、「孫策を倒せ!」という勅が出され、次々と強敵が襲い掛かる。それを振り払いながら次第に実力をつけていく孫策だが、その中の強敵・呂蒙子明と拳をまじえることになる。
    「幼なじみ」という単語と、周瑜公瑾という人名が極限まで調和しないように感じます。
    本日の放送では、周瑜(勿論女子高生)が、「董卓に気をつけろ」と忠告をされつつ、クンニリングスされてました。
    ここまで来ると、わいせつを通り越して、失笑を禁じえないというレベルです。

    11/15
    「スパーフリー」の関連で、東大農学部の学生が逮捕されたそうで。
    何ゆえに「東京大学」というだけで騒がれなくてはならないのでしょう。
    しかも、必ず一定の悪意を伴って。
    わずかばかり記憶力や理解力が高いだけで、その他は一般人と全く同じ人間である。
    報道機関の一部は、この当たり前のことが解らないのか、意図的に無視しているのか。
    (そういえば、法学部のグラビア女性とか、国松長官狙撃とかにも「東大」と必ずつけられてた)
    あまりに悪意に満ちていると思ったのが、こちら
    (まあ、夕刊紙だけど)

  • 高山容疑者が専攻する東大農学部の応用生命科学課程は、大手予備校の偏差値表では「65-67」の超難関。
  • 「スーフリをきっかけに童貞を捨てた」ともいわれる大学デビューの代償はあまりに大きかった。
  • 赤門のバカモン
    あんまりです。
    「農学部は赤門から遥かに遠い」・「募集は科類毎であり、学部学科単位の募集はない」と、些事には些事を持って対応を。
    閑話休題。
    東方紅魔郷、巫女さんの下タイプでワンコインクリア。
    画面上に上るとアイテム自動回収効果が発生するようで、これに気がついてから俄然面白くなりました。
    回収パターンを作っていくのが良い感じ。
    もう少し弾を減らして高速弾を増やした方が、良いと思います。
    弾道を見切って微調整で避けるよりも、大きく動くパターン避けの方が私は好きだし、普遍性も高いと思うのですが。

    11/14
    イラクのテロで、巻き添えになるイラク人に関してのテロリストの声明。
    「外国人と共に働くことは認められていない。」だそうですね。
    一体「誰が」認めていないのでしょうか?
    ふと思い出しますが、アメリカ人はイラク人にとってみれば、同じ造物主を信じる人たち。
    尊敬にせよ哀れみにせよ、歴代のイスラームは暖かい扱いを与えてきた人々なのでは?
    いわゆる「啓典の民」とかいうやつですよね。
    過去のキリスト教政権とおなじ非寛容政策を採っているようでは、十字軍云々と批判することもそのうちできなくなりそうです。
    原理主義とは、偶像崇拝の一つの形である。
    ノベルゲームで一つ思ったこと。
    製作者と読者の間で、共通の前提事項が成立しにくいこと。
    大雑把に言うと、その脚本がファンタジーなのか、リアルなのか、という前提。
    ゲームといえば何でもありと言う悲しい前科があるいじょう、ここが難しい。
    ストーリーを考えるにしても、登場の自己同一性に始まって、二重人格、ドッペルゲンガーなど考えていくと際限がない。
    当然超能力もあって、挙句の果てには人間にミカエルやルシファーが宿って戦うことまで。
    推理小説にたとえるなら、「新しい毒薬」(きっちり3日後に突然死)を使ってはいけないという前提条件が成立していない状態。
    考慮すべき事項が多すぎて、ストーリーの解釈が著しく難しい。
    素晴らしい物語とは、読者に適度な予測可能性を与え、大枠において予想に沿いながら程よく微妙にそれを裏切るもの。
    ノベルゲームの場合も、何らかの状況描写で現実世界の物語か否かぐらいは、明らかになるといいのかな。
    (でも、読者が必死に考え想像する物語があるもの自体が多くないかも・・・)
    人様の文書(しかも一般人の手による洗練のなされないもの)を多く読むと、文書そのものに関するいろいろな要素が見えてくるのが思い白いです。
    こういうあたりも、フリーウェアのゲームの魅力なのだと感じます。
    (以上、水葬という素敵なゲームの感想)

    11/13
    現実、というより、現実感とは一体なんだろう。
    人間の認識上、主観的なrealityこそが現実なのだろうという気がしてきます。
    現実に共にあることではなく、その意味をかみしめること。
    さすれば、遠くに離れたり、別かれてしまったり、死んでしまったりした人でも、共にあることになるのかも。
    (以下は一個人の妄想です)
    ふと、「ことばは神と共にあった、ことばは神であった」ということが実感できたような錯覚を覚えました。
    (新約聖書のヨハネ福音書の一番最初で、名文なのでぜひ手にとってみてください。)
    この場合、「ことば」を「ロゴス」などと難しく考えない方が良いのでしょう。
    我々が日常操るもの、それを「ことば」と考えればよいように、私は感じます。
    そして我々が言葉を交わすその中に、「二人、三人とお前たちが集うただなかに私はいる」ということで、神がいるという意味なのでしょう。
    (上の言葉は、ナザレのイエスの発言です)
    そして言葉(神)とは、他者との積極的係わり合いをめざすもの、なのでしょう。
    (造物主、という存在は理解できない)
    ナザレのイエスが言葉であった(=神であった)という言明はー理屈はある程度知りましたがー私は規範的評価において納得できません。
    しかし、言葉が十字架上で死ぬことによって、実体を持たないが故の普遍性を獲得するということは同意できます。
    (聖書的意味の復活体(霊)は誰にも見えない、とはこの意味なのかな?)
    私は納得いかないですが、他者に向けられた言葉の中にナザレのイエスがいると考えられたら、それは素晴らしいだろうな。
    カトリックの考え方によれば、信とは与えられるもの、なのだそうです。
    (正しいことを究極的に確証させる光は、外部からもたらされるという意味)
    イエスという人間は偉大だったと思うし、ことばの働きの尊さもある程度はわかります。
    ただ、この両者が同じと考えられるのは、賜物なのでしょうね。
    信仰の領域です。
    とりあえず、誰が対象でも、誰か(言葉、イエス、神)が共にあると考えるキリスト教は、普遍だな。

    11/12
    米軍のリンチさんが救出劇の欺瞞性を告白なさったとか。
    当時の報道、彼女がイラク兵に強姦され虐待された、というものを疑問の余地なく受け入れていた自分を思い出します。
    やはり私は愚かでした。
    この経験が、(同じ過ちは今後一生繰り返しましょうが)、よき方向に活かされますように。
    合衆国の開戦は妥当でない選択であったと思いますが、今撤退するのは許されませんね。
    内容いかんに関わらず秩序を維持していた政体を自ら破壊した以上、新たに実効的統治を達成する責任を合衆国は負っているはず。
    私が自分の能力を超えると思う問題は、ここにあります。
    秩序を構築する責任を合衆国は負担している。
    しかしそのための実質的不利益(=責任)を負担するのは、占領軍の個々の兵卒である。
    すなわち、行為の決定主体と、不利益を負担する主体が異なること。
    責任すなわち不利益を感受すべき根拠は、自由意志による選択の結果の自らの行為の帰結という以外に求められませんし。
    軍隊への加入は、個々人の意思にゆだねられていた。
    無理やりこじつけてもせいぜいこの程度。
    この問題は、選挙の場合にもそのまま適用されますよね。
    政策決定権者の判断ミスにより、大きな損失が発生した場合です。
    憲法上は彼らは国民の意思によって選出されたと擬制されるわけです。
    しかし彼への反対票を投じた人も、自分が望まなかったにもかかわらず、不利益を負うことに。
    憲法制定権までさかのぼっても同じ事。
    「国民」という現実には存在しない主体を想定して、その選択と擬制しないことには何も立ち行かず。
    そして意に反する不利益を感受することになると。
    「それ以外に政治運営の手段がない」という機能的な把握が、最も説明的なのでしょうか?

    11/11
    ニュースで面白いの見つけました。
    ・うつ病には映画療法 (ゲンダイネット)
    うつ病に「映画療法」を用いる動きが全米で目立ってきている。
    深刻な良質の映画は、患者の心理の深層にまで食い込み感情移入を容易にするから、いっきょに患者の心理を楽にし開放する効果があるのだという。
    1900年代に流行した聖書療法がヒントになったというが、視覚に訴える「映画療法」の効果は読む「聖書療法」より直截的で強烈だ。
    以上・・・・
    文化大革命の時代に毛沢東の甥が、精神病治療に毛沢東語録の朗読が有効であることを「発見」したことを思い出しました。
    東方紅魔郷、魔女の上タイプでノーマルワンコインクリア。
    悪くないゲームかも。
    大きく動いて弾を散らすよりも、静止して微動でやり過ごす方が有利な場面が多いのが、少々。
    手先の器用さは、あくまでシューティングの一部だと思うのですが。
    それでも文句を言わずに、全キャラの1クリアの努力しましょ。

    11/10
    毎度のことではありますが、選挙の当日のテレビ報道のあり方には少々疑念を抱かされるものです。
    我々国民にとって意味があるのは、数ではなく何が行われるかである、なんてことは今更ですね。
    (数が終局的には行為を決定するものであれ・・・・)
    この様な正論はおいておくとして、端的にいうとつまらない。
    何処の局も一緒のことばかり。
    自民党・民主党がともに極端に大敗大勝していないこと。
    この事実さえ判明すれば、多くの国民にとっては翌日の新聞でことは足りるはずなんですが。
    あれは「衆議院選挙」に名を借りた、野球中継に過ぎないと感じるのが大多数の良識的な人々でしょう。
    その中で唯一(教育テレビは除外)独創性がありそうだったのは、フジテレビ。
    「踊る大選挙戦」などという見出しとともに、よくわからないことをやってました。
    製作された方の意図は不明ですが、この表題からは選挙で騒ぐこと、および報道のあり方そのものに対する自虐が感じられる素晴らしさ。
    もう少々面白そうな企画を立てた方が、視聴率も上昇して商業的にも成功すると思うのですが。
    たとえば、泡沫候補特集。
    (ようやく本題です)
    全国各地から、泡沫候補を特集。
    この際にはユーモアに溢れた人を笑わせるものであることが望ましいです。
    パワーポリティックスの観点からではなく、政治思想信条の側面からその候補者が何ゆえに泡沫なのかを解説。
    解説は民放頻出の胡散臭い人物の個人的見解ではなく、憲法の教科書を解りやすく述べるのがよし。
    勿論その場合には、「主権」の意味から始まって、政治的表現の自由などを重点的にです。
    こうすれば、笑いかつ、NHK含めたどの曲の選挙特集よりも教養あふれたものができると思うのですが。
    本選挙で、私の最大の関心事項であったのは、次の候補者の動向です。
    ・東京一区、又吉イエス。(詳細はこちら
    正気を疑わせる上に、そのお顔がサタニックに輝いていらっしゃいます。
    それを物語るのが、このポスター
    「海江田万里(以下諸氏・・・)は腹を切って死ぬべきだ」、です。
    最も重要なのは、この様な品位のない発言であれ、それが許容されるという事実です。
    すなわち、選挙管理委員会などからの、禁止命令が出ていない、ということですね。
    表現の自由が最大限の保障を与えられるのは、それが民主的政治過程そのものであるからです。
    (不正な立法などは議会の政治過程を通して修正できますが、表現の自由がゆがめられると議会に民意が反映されなくなる)
    しかし上記の「死ぬべき」は、どう考えても「政治的表現」とは思われません。
    それなのにどうして保護されるのか。
    それは、表現の質理由に規制することは内容の審査につながり、ひいては内容を理由とする制限を導くからです。
    すなわち、選挙公報であるという形式のみで保護が与えられるのであり、規制は内容中立的でなくてはならない。
    (内容中立規制の具体例が、現行公職選挙法による規制)
    いや、やっぱり日本は表現の自由の保障が高いですね。
    「又吉イエス」氏のみで、個人的見解皆無で2時間特集は10本ぐらい作れると思うのですが。
    彼の主張で最も笑わせてくれたのが、これ。
    ・国内問題の第一として失業者雇用対策税を新設し、その財源で公共事業を起こして全失業者を雇用する。
    公共事業はツルハシ、モッコ、ショベル等使用の人力での作業で可能な限り多人数使用。
    ・神イエス=又吉光雄が北朝鮮・イラクなどの全問題の交渉役になる。
    情報源は、http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Vega/6529/mituo.html

    11/9
    所用あって駒澤大学に。
    掲示板を見ると、公開仏教講座とかとても面白そう。
    何十年かして、暇とまにーができたらもう一回大学いきたいです。
    大学受験生だったころは、全く考えもしなかったけど、上智とか面白そう。
    そういえば神学の授業って教養の講義一覧にのってなかったなあ。
    当然専門にはいればあるわけなし。
    帰り道、渋谷の本屋で1時間ほど立ち読みしてしまいました。
    なんと、「サンマーク出版」(脳内革命など胡散臭い本中心)の以下の本。
    ・マンガ、仏教入門
    ・マンガ、密教入門
    ・マンガ、親鸞入門
    ・マンガ、神道入門
    さすがにこれだけお世話になってそのままでは申し訳ないので、以下二冊購入。
    ・マンガ、法然入門
    ・マンガ、法華経入門
    そう悪くないシリーズだと思いました。
    マンガ、といっても決してバカにしたものではないと私は思います。
    まず第一に、私のような無知な人間の場合は、この様に解りやすいものから入らないと理解できないし。
    それに、学研マンガに明白ですが、その内容水準は決して低くない。
    こういう、犬福でも大丈夫なようにわかりやすく書くのって、とても難しいと思います。
    無理に詰め込んだだけ、文書と絵が無関係など、欠点は上のシリーズにも明らかでしたし。
    でもやっぱり、「マンガ」ってありがたいです。
    特に上の「親鸞入門」は先の吉川英冶の小説の復習にもなって大変便利。
    一つ思ったことです。
    法然親鸞の念仏仏教の「他力」思想、キリスト教でいうところの「許しを請う」という発想に共通するのではないでしょうか。
    「他力」というのは仏の慈悲(私はその内容を全く理解していません)にすがろうとする発想。
    その前提として存在するのは、自己を見つめ、よりよくありたいと思い、なんらかを信頼し素直にそれを表出すること。
    けっして「他力」は容易ではないと思えます、絶望して自殺するほうが楽です。
    それにしても、仏教も難しいですね。
    キリスト教の場合は、記述は平易であるがその意味を汲み取るのが極めて困難、という教説のあり方。
    対する仏教は、教説そのものが学問然として整然と並んでおり、親しみにくい。
    難解さの度合いだと、でもやっぱり仏教の方が高そうです。

    11/8
    最近たまに見ている番組。
    千葉テレビ日曜夜の「一騎当千」なるアニメ。
    三国志の武将が、魏蜀呉など国ごとにまとめて女子高生に生まれ変わり、高校ごとにパンツ丸見えて戦うという内容。
    (呂布奉先という名の女子高生ですよ)
    実に意味不明です。
    実はこの直前の「君の望む永遠」なるアニメの直後の番組。
    こちらを見ていたのですが、第2話あたりで鬱病になりそうなのでやめました。
    全てが、痛々しかった。
    彼(名前忘れた)と彼女(ミツキ?)が普通に笑って食事して性交するだけの日常の描写が、見ていられなかった。
    このあとには、「一騎当千」のような頭の悪い番組が似合っている。
    痛々しいといえば、最も痛々しいと感じたもの。
    それは、福音書。
    もちろん、その内容が痛々しいわけではないです。
    ただ、それを執筆した弟子たちの感情を想像すると。
    福音書は(犬福並みに短絡的に述べると)、ナザレ人イエスの事跡を述べた書物。
    3年にわたり彼と時間を共有した弟子たちは、イエスの処刑後に(かなりたって)、彼の書をまとめました。
    その過程で、自分たちがイエスを全く理解していなかったこと、そして全員が彼を裏切ったことを、嫌というほどかみ締めたはず。
    (本質はより高いところにありましょうが、ここでは卑俗な人間レベルに限定し、復活は除外)
    イエスを、「恋人」と置き換えるなら、その意味が明白になるのではないでしょうか。
    ・あれほど愛したあの人を自分は全く理解していなかった。
    ・それどころか、ひどく傷つけ、裏切った。
    ・そして、永遠に失われてしまった。
    ・あの人との出会いのときから、全てを思い出し、その意味を考えた。
    きっと彼らは、欝になるほど泣き、後悔し、それでも事実を直面したのでしょう。
    おそらく私なら自殺してる。
    (ユダが滅びの子とされるのは、裏切ったからではなく絶望したからだそうですが、ならば私も同じく滅びの子)
    「思い出す」・「事実を直視する」、必要ですが、難しいことだ。
    きっといま「ノルウェイの森」を読んだら、欝になるだろうな。
    閑話休題。
    新手の新興宗教の布教か?と思いきや、なんと衆院選の候補者の演説であったこと友人に聞きました。
    その名は、又吉イエス。(東京一区)
    http://kobe.cool.ne.jp/torichan/matayoshi/
    mp3の政見放送聴いちゃいました。
    上のリンク先のポスターは確実に笑えます。

    11/7
    先の献血の時の話です。
    腕の血を止める理由を看護婦さんに聞きます。
    「その方が、血管が怒張して血が戻りやすいんです。」
    えっと、その「怒張」って名詞じゃなかったんですね。
    閑話休題。
    先の精神の起源を巡る自然発生説と創造説の議論です。
    創造説に関し、自分が重大な錯誤を犯していたことに気がつきました。
    精神自体は、中枢神経構造の進化に伴って、ある時点で発生したものである。
    創造説は、ここで精神という機能が生じた事実を、「与えられた」「創造された」と理解するわけなんですね。
    対する自然発生説は、この精神発生の事実を、「自然に物理過程にしたがって生じた」と理解するのみ。
    事実を把握する手法の相違、というわけで。
    (勿論創造説は、根源的な充溢する生命の存在を前提としていますが)
    私は「創造説」を、ある時点で何らかの外部的要因が、実際に(手術室でor超自然的方法で)精神を与えた、と理解していたようです。
    聖書の記述はあくまで背景の意味を理解するべきであって、決して文字通りに受け取ってはいけない。
    この原則を理解していると思い込んでいたのに、実際それは誰かの解説のある部分についてしか適用していませんでした。
    たまたま説明のなかった精神の期限に関しては、全くの文字通りの理解。
    本当に、自分の知性は犬福並みだと痛感させられました。
    まあそれでも、遅まきながら悟っただけでもありがたく思うことに。
    犬養道子氏の、確実な欠点に気がつきました。
    それは、関係代名詞節を乱用すること。
    えっと、そもそも日本語には関係代名詞という用法はないんですが。
    彼女の文書は、「()」や「−−」でくくった部分が2,3行と挿入されるのは当たり前。
    主述の対応すら、注意して読まないとわからない始末です。
    複数化国語を操れる方になると、日本語の方が怪しくなってくるのでしょうか?
    文書は短く、解説は文を改めましょう。

    11/6
    近頃、フリーウェアのゲームにご執心です。
    何が面白いか、端的には、製作された方の人間性がうかがえるのが最大の魅力です。
    テキストや画像、プログラミングの不備など何の意味がありましょう。
    人間を感じられることほど面白いものはないです。
    (こんな感じで更新が日記と推奨ソフトのみですが、実際ゲームはパカパカパッション1,2しかやってないので)
    先ごろ、変わったものやりました。
    Multi☆Heart!!なるもの。
    「To herat」なるゲームの冥土ロボが主役のえちいな二次創作だそうです。
    フリーソフトといえば、(本当はウェブサイトも同じなんですが)自己責任原理が明確。
    つまらなかったとしても、それは勝手にダウンロードした自分の責任。
    製作された方の尊い労力に対して苦情を申し立てるなど、ゆめ行ってはなりません。
    ・・・・そういえば先ごろ、当サイトにも自己責任を説いた挙句に全く責任の意味を全く理解していない奇人にあきれた・・・・
    話題を戻しますと、このゲームは自分は楽しめなかったというだけのことです。
    冥土ロボといろいろあった挙句に、双方が恋愛感情を抱いて結ばれるというありがたいお話が原作でした。
    (この二次創作ものも同じです)
    私が違和感を感じたのは、(心が通い合ってセックスするのは祝福されるべきことだが)、所詮相手はロボだろうという点。
    この事実には、いくつかの解釈が可能だと思います。
    1、マルチ(冥土ロボ)萌えー、故に全てALL RIGHT。
    2、ロボは人ではない、故にそれは無意味である。
    3、ロボは人ではない、しかし性欲さえ充足されれば問題ない。
    4、人とロボに何の違いがあろうか?
    私が「To heart」の冥土ロボで二次捜索を作るとすれば、きっとこうするでしょう。
    4番の問題提起を主体に、2の立場と3の立場を、(二人の人物にそれぞれの役割を担わせて)戦わせます。
    そしてたかが同人に過ぎなかろうと、どれほど考察のレベルが低かろうと、人間の実存そのものを主題にするでしょう。
    (このあたりが、冒頭に述べた「フリーソフトは製作者の人間性が伺われる」という記述の意味です)
    私は同人の方々のように、虚無を直面できない弱い人間ですので。
    ・・・・
    この二次創作では、マルチが「浩之さん」と呼びかける場面が一つの鍵でした。
    私しばらく考えた挙句に、「そうか、これは原作の主人公の名か」と気がついた次第です。
    なぜかというと、原作でプレーヤー名を「犬福犬福」、愛称を「いぬふく」にしていたので。
    この間やったゲームは、主人公を犬福、恋人をちび福にしたために笑い話になってしまいました。
    名前で一番思い出すのは、女神転生(初代)でしょうか。
    二人の主人公の名を、「メタトロン」「サンダルフォン」としたたのです。
    ラスボス「ミカエル」を倒したあとのストーリーで「メタトロン、お前か・・・」などと言われて、一瞬壮大なストーリーがあるように錯覚してしまいました。

    11/5
    結局のところ、「聖書を旅する」を第一巻に戻ってもう一度読み返してます。
    第一巻、当初は気がつかなかった一文一文の意図が見えてくるので大変に面白くなりました。
    (知識が増えたので、ちょっとばかり理解が可能となったのでしょうか)
    というよりも、一体以前は何を読んでいたのか。
    目には入っていても何もみていない、この言葉がぴたり賞です。
    (最も、数年たって読み返したときにはまた同じことを感じるでしょう)
    少なくとも、読むたびに新しい発見のある書は、良書と断言してよいですよね。
    そういえば、半年以上この本読んでるのに、まだ続けることを決断した自分にきがつきました。
    一つの本に(参考書除いて、それに一つといっても全10巻)これだけの期間をかけるのは、私の人生で初めてのような気がします。
    もう一度読み返して自分の考えをまとめたら、素人の理解を感想として犬養道子氏に届けたいと、かなり真剣に思います。
    彼女が50年の成果をまとめた著作なら、幾許かの感謝をそれに捧げたい。
    私でさえ、大往生の攻略記事で初めての人が1周できたといわれるとうれしいのですから。
    ましてやその何億倍の労力を捧げた一大全集なら、きっと喜んでいただけるのではと、ちょっと考えます。
    自分の文書が読者にどう理解されるかは興味がおありでしょうし、今後の執筆の動機付けにもなるのでは。
    閑話休題。
    キリスト教の基本として、似姿として霊(命、言葉)が注がれた被造物であるがゆえに、人間は尊いという価値観があるようです。
    人間の精神は、与えられたもの(自然発生ではないという意味)なんだそうです。
    ここが、私の不調和を感じる部分。
    私自身は、人間の精神は脳の構造とともに段階的に自然発生したものだと考えています。
    (自分の状態を把握する神経の働きが、精神の発生であるとどこかで読んだ)
    ここで重要なのは、精神が物質に依存して自然発生したものであるからといって、それの価値が減ぜられるのではないということ。
    むしろそのような不安定で儚い物であるからこそ、精神(ひいては個人)は尊いのではないかと。
    憲法学における人権の議論と同じです。
    人権は自然的に存在するものではなく、それは価値判断として存在することを了承されたものである。
    人権を肯定したがゆえに、我等は常にそれを守らねばならないのである、という議論ですよね。
    被造物説と自然発生説は、機能的には精神(個人)の尊重という点で同じです。
    ただ、よってたつベースが全く異なるんですよね。
    もっともその点は、価値観の相違ではなく、機能面の一致という無神論者と信仰者との対話の基礎と理解するべきなのでしょう。

    11/4
    「聖書を旅する」の10巻で、一部に詰まって3,4時間とまってました。
    個々の叙述は平易なものの、それが全体の中で占める役割と、前後とのつながりが全く見えなかったからです。
    そうやって、気がついたこと。
    実は、著者の犬養道子しの文書は、見事なまでに論理的なのではないかということ。
    この方の文書は、一見すると前後の脈絡がなく、唐突に叙述が進むように見えるのです。
    実際私もそう思っていたし、それは同氏の文書力がいささか落ちるせいではないかと評価してました。
    犬養氏は、文書の作成を極めてシステマティックに進めることが、読解を通して感じられるようになってきました。
    最初に主題を決め、それの論証に必要な要素を選び出す。
    そしてその要素一つ一つの論証に必要な事件を、膨大な知識の中から選別して挿入する。
    こうして全文の構成表が完成した後に、それを忠実に文書化してゆく。
    論文などと同じ手法なんですが、それを1冊の本、ひいては全10巻に貫徹させてしまうのです。
    ですから読み手としては、同氏の構想表を再現することが作業の中心となるわけです。
    常に何を論証するための過程であり、その叙述は何を意味しているのかを考えていないと、路頭に迷ってしまうわけです。
    つまり、一つ一つの叙述が、唐突に挿入されたように感じられるわけです。
    (犬養氏が叙述の手段として選定する事件の幅が広いことも唐突さの一因)
    この方の扱うテーマが、価値の把握の何割かは「信」という主観的要因によらざるを得ないものであるからなおさらなのでしょう。
    「信」を客観的に扱ってゆくので、非常に叙述の間のつながりが見えにくいです。
    必死に目前の記述が何を意味するのかを考え、その章立ての主題の中で果たす役割を見出したとき、初めて意味が理解できてくるという類の文書です。
    それでも犬養氏は、自書の読解の方法や叙述方については何も語らない。
    (正確には、ほとんど全ての本を書く方は、そのような種明かしをしないですよね)
    先ごろまでの私のように、犬福程度の知性しかない人間は、その価値を見出せずに曲解するでしょう。
    そのリスクを負担しても、読者には必死に考えて欲しいというのが、本を書かれる方共通の価値観なのでしょうか。
    でも、よく考えると斑鳩や大往生も全く同じかも。
    ちなみに・・・・私は神学者の叙述を本書の引用で初めて読みました。
    対象が主観であるがゆえに客観的に筆を進め、叙述に説得力があるんですね。
    「神学論争」というと無意味な空論の代名詞です。
    その実情は、神学に触れたことがない人間であるからこそ、そのような短絡的結論が導かれるということで。

    11/3
    地下鉄内のつり広告見てました。
    其処になんと、驚愕の文句が。
    「アルカイダのハダカ。」
    にょー、と思いましてよくみてみると。
    「アカルイハダカ」。
    人間の脳内における認識構造が顕著に現れる錯覚です。
    単語は、先頭から順に一文字一文字認識されるわけではないようですね。
    全体を同時に認識し、その構成要素(この場合ここの文字)の種類を、活性化された単語の記憶に照合。
    そして一致度の高いものを、目撃した文字列の示す単語と判定する。
    この場合「アカルイハダカ」の構成文字を、複数回使用すれば「アルカイダのハダカ」が出来上がりますよね。
    (「の」は除く)
    渋谷に行ったついでに、献血してきました。
    成分献血の途中、本当に気持ち悪くなりました。
    「ここで血を吸い尽くされて死ぬのか、それも一興」と、思ったものです。
    体調悪いわけでもなかったのに、何ででしょ。
    「聖書を旅する」第10巻は、全10巻のまとめとしての福音書解釈部で、ずいぶんと難しいです。
    でもようやく、意味がおぼろげに見えてきたような。
    「初めに言葉があった、言葉は神とともにあった、言葉は神であった、全ては言葉によってできた、言葉は命であった。」
    ヨハネ福音書冒頭の意味が、少々(多分1億分の1くらい)感じられるような錯覚を覚えました。
    神は言葉であり、言葉とは生命であり、三位一体とは他者とのかかわりを望む命のあり方である。
    これがおそらく、キリスト教の中心部なのではないか、という気がしています。
    こう解釈すると、キリスト教は現実的なこと(自然因果関係内の事象という意味)しか述べていないのではないかと、ちょっと納得が行くような気がします。
    ただ、これはあくまで抽象的な概念の水準のこと。
    イエスという人間が2000年前のジェルサレムに存在したことは、確実な事実(考古学上の成果を踏まえて)。
    ならば、イエス=言葉と等号でつなぐことができれば、キリスト教の主張は完全に現実味を帯びてくることに。
    そしてこの等号の成立を認めることが、「信仰告白」なのでしょう。
    いずれにせよ、その承認は理性の枠外の問題。
    私が理解できないのは、復活と永遠の生命という事の意味。
    自分が生きていたいと、さほど望まない人間には、理解できないのだろうなということは想像がつきます。
    形而上のレベルで理解することは、現実を肯定して理解することの比して遥かに容易。
    私の理解も、二元論やグノーシスと同じく、生を肯定できない人間の単純な内容なんだろうな。
    とりあえず、信仰無しの思想体系としてなら、キリスト教の思想がちょっと感じられたような。
    現実的であり、生産的でありすぎて、私には遠いかも。
    所詮私は、「私は死にたいの、欲しいものは絶望、虚無に帰りたい」という虚無に共感を持ってしまう人間ですので。
    いずれにせよ、恐ろしいほどに計算しつくされた見事な文学作品です、聖書は。
    でも、根幹である復活だけはぜんぜん解りませんが。

    11/2
    テレ朝でやってました、「グラディエーター」の感想。
    舞台は2世紀のローマ、妻子を殺された将軍が剣闘士奴隷に身をやつしながらも皇帝に復讐するというお話。
    この映画を見たのは3回目。
    気がつきました、この映画が神話であることに。
    客観的に眺めるなら、ストーリーは支離滅裂です。
    皇帝がコロセウムで剣闘士奴隷と戦うことを筆頭として、どれもこれもばかげた事件ばかり。
    ただ、映画の内容が史実と異なることに重要性はありません。
    それはこの映画が主人公の(おそらくはそれを普遍化して人の)、生のエネルギーそのものを叙述することを目的とするものであるから。
    (「神話」という語は、その叙述が背景の意味を伝達することを目的としている、そのような説話を意味します)
    主人公マキシマスを突き動かすのは、妻子の復讐という単純なもののみではないでしょう。
    将軍としての誇り、剣闘士としての名声、自ら手にかけた剣闘士への哀歌、ローマへの忠誠、友情、人の情念、名誉、様々。
    映画中の全てはそれを描き出すための舞台装置に過ぎず、最後の皇帝との勝負は頂点としてのそれらの結実。
    故にこそ、史実と異なる、などとの指摘は物語解釈の知識の欠如を示すのみ。
    見事だった。
    背景知識に依存しないからこそ、この映画は普遍。
    つまり、誰が見ても解るということ。
    ハリウッドの目指すこの理想は、極めて重要ですね。
    背景としての膨大な知識(この映画ならば初期帝政下のローマ)がないとメッセージが伝わらないとすれば、それを理解する人間は極めて少数。
    其処に普遍性はないはず。
    少々極論的に述べるならば、「ローマ」は犬福の足と同レベルの飾りに過ぎません。
    皆が興味を持ってくれるなら、それは何でもよかったはず。
    この映画のもう一つの魅力は、古代ローマの鎧の煌きにあるんです。
    悪役コモドゥス帝の白金の鎧の質感だけで、この映画の価値の1/3はあるといってよいのでは?
    ただ、そのためにはパソコンの高解像度のモニターにDVDで出力する必要があります。
    (テレビロードショウでは、この映画の衣装の素晴らしさが1/10程度しか再現できないのが残念)
    剣闘士と言うと思い出すのが、我が富山中部高校の世界史教官であった長谷川氏。
    スパルタクスの乱を、彼が話したことを思い出します。
    彼は、共産党員だったらしい。
    その事実自体に意味はないし、それによって差別されることがあってはいけない。
    ただ、彼のものの見方が、悪い意味でのマルクス主義史観に毒されていたのは著しい欠点だった。
    歴史を、階級対立のみで把握するというのはいかがなものか。
    全てを階級対立に還元することは、事象の単純化であり、それを行うものの知性の低さを示すのみ。
    剣闘士には、彼らなりの実存があった。
    歴史はあくまで帰納的に観察されるべし。
    私の信条です。
    高校生なんて、知能はちび福以下のばか。
    そこに偏ったものの見方を教えるのはいかがなものか。
    でももしや、長谷川氏の真意は反面教師として愚かさを提示することにあったのでしょうか。

    11/1
    ここ数日、神保町(いわゆる神田古書店街)で古書祭りなるイベントが行われているようです。
    私には、その意味がよくわからない祭り。
    これが古書街の全てなどと断言する意図はありません。
    ただ、古書にも、中古ゲームの場合と同じく(おそらくは遥かに陰惨に)、ゆがんだ世界が存在するのは想像に難くないです。
    無益なプレミアムに、中古転売益をねらう背表紙屋という存在。
    たとえば、岩波書店すぐ近くに、中古の岩波新書を専門に扱う書店があります。
    特異なのはその価格、一冊2000、3000円という価格が普通についています。
    (ここで3000円した「バナナと日本人」は100円本の常連)
    おそらく、発行年や、微妙な内容の違いによる希少価値でしょう。
    すなわち、なんでも鑑定団の場合と同じく、その内容ではなく、希少価値に対する評価です。
    書物はその情報にこそ意味がある、これは間違いないでしょう。
    ただ、明確な「財」として「本」という形をとる以上、そこに様々なゲガレがついてまわると。
    でも、神保町は、その利用法さえわかればこれほど便利なところはないと思いますよ。
    すなわち、自分の読みたい分野を扱う書店を数件知っていればよいだけです。
    神保町には「三省堂」という最大級の新刊書店があるのですが、分野さえ決まれば小さな古書店も決して引けをとりません。
    むしろ、古書店の方が選択肢が豊か(しかも安い)で便利。
    新刊書だと流通している本しか並びませんが、古書店ならここ3,40年内の絶版になった本も普通に並んでいるのがいいですよね。
    店主の圧力がこたえるのが、最大の困難でしょう。
    (神保町生活が長いですが、ここは本当に自信以外の対抗手段がないように思います)
    こういう商売してるから、どんどん古書店が倒産する。
    閑話休題。
    とりあえず「聖書を旅する」は10巻読み終わりました。
    10巻が難しかったので読み返し中。
    これほど売れなさそうな本を全巻刊行してくれたことに対し、中央公論社に感謝です。
    決して安い本ではない(とりあえず25000くらい払った)ですが、与えてくれた理解に比べれば安価に過ぎるというもの。

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