日記1月
戻ります


1/31
所用あって、病院行きました。
至極立派でサービスのよい巨大な総合病院で、仏教系の宗教団体が運営母体であるそうです。
入り口ロビーで、奇妙な本を発見しました。

「仏法で触れ合う親子のマンガ」
薬の処方待ち時間に5冊ぐらい読みました。
えっと、その中で少々驚いたものを。

この作品の名誉のために申し上げれば、この回はたまたまこのパロディであっていつもはちゃんと仏教講座してます。
つらつらと読み進めるのですが、なかなか納得のいかないところが。
もちろん、この本は対象年齢が小学生程度と思われます。
その内容がどの程度仏教の主張に沿っているのかも、知識のない私には判断のつかないところ。
ただ、この本で非常に強調されていたのは、「因果応報」という概念。
しかも、懲悪的な側面ばかりが強調されている。
「悪いことをすれば、必ず悪い結果があるのです。
そしてそれは現世のみならず、来世にも及ぶのです。」
というもの。
(輪廻転生そのものも現行仏教の主張なのかどうかは不明ですが、ここでは触れない)
まあそれ自体は一つの概念として、そういう思考形態が存在することは理解できます。
ただ、それが法然・親鸞の説く、往生の概念とどう関わるのかが疑問です。
(「善人すら往生す、況や悪人をや」ってやつですよね)
端的にいえば、万人の往生という発想と、輪廻転生概念は矛盾するのではないかと。
だって、誰でも仏の慈悲にすがる気になれば往生しているんでしょ。
そこで往生したのに、どうして前世の行為の帰結や現世の悪行で来世に苦しむという自体が生じるのですか。
それとも、念仏を唱えて往生した時点で、文字通り輪廻の輪から解き放たれてしまうのですか?
この両者の概念は、調和しないように感じます。
えっと、「許し」と「贖罪死」の関係というキリスト教の問題意識と共通してるように思ったわけでした。
なんといっても、この病院「親鸞会」が母体なんです。
そこの雑誌なら、たとえ子供向けマンガとはいえ、なんらかの思想的統一性が欲しいなあと思ったところ。
思想<念仏とでもいうことか。
宗教は本来、宗教性を超越した信憑性ある普遍の言葉を語るものだと、犬福は思います。

1/29
「書物としての新約聖書」を3回目読んでます。
700ページで8400円ということは、1ページ12円ですか?
高いので元を取るべくしっかり内容覚えましょう。
気に留めるべき内容の一つが、「正典宗教」という在り方。
よく我々、ニュースで新興宗教の報道を耳にしますよね。
まあ、例えばオウムとか、法の華三法行とか。
私はああいった報道に接して、「胡散臭い」と常思いました。
その理由は、「教義」は定まっていないだろう、というもの。
(金目当ての運動だというのは、ここでは置いておきます)
この私のかつての考え方は、現在の視点に立ってみると非常に興味深い。
即ち、「明確な教義がなければ宗教ではない」という前提に立っているわけです。
そしてこの前提は、「正典宗教」というものの在り方に、教育報道を通して無意識のうちに思考を規定されていたことの結果です。
「正典宗教」とは、自己の価値観思考信仰の全てが立脚する基準となるべき絶対的明確な文書が存在するという、宗教のあり方の一つです。
一番明確なのがユダヤ教で、多分イスラームもそうでしょう(著しく自信ない)。
そしてこの正典宗教という在り方は、正典を持たないものを宗教ではないとみなすという、帝国主義的(普遍的とも)価値観につながります。
当然に「正典」という存在は、個々の宗教行為の高度な抽象化の上に生じるものなので、歴史的に見れば新しい存在。
当然に人類史上殆どの形而上学的心情は、「正典」など持つはずがなかったわけです。
いや、影響されたことすら意識させずに個人の思考を規定してしまう、社会的影響力って恐ろしいですね。
少し前までは「グローバルスタンダード」とか「勝ち組」とかそういった単語をよく聴きました。
現象としては「正典宗教」の場合と同じ影響をもたらしているのか。
話題を正典宗教に戻すなら、それが大きな影響力を持ちうるのはやはり外部への明確なかたちでの自己の提示が可能だからなのでしょう。
日本人なら小学生でも、キリスト教の正典が聖書であり、イスラム教の正典がコーランであることぐらいは知っているし。
冷静に考えるなら、以下の結論が導かれるはずです。
「正典宗教」が歴史的に新しいものであるからといって、よりすぐれた宗教の形式とはいえない。
実際問題として、「正典」が確立してしまえば、その固定性が時代との不適合と生命力の枯渇をもたらすそうで。
キリスト教は、ユダヤ教という正典宗教の否定克服として発生したものなんだそうですね。
(イエスは直接的にはキリスト教と結合しないのが通説だそうで)
それがごにょごにょあって、開始300年ほどしてようやく「新約聖書」という正典を持つことになったと。
だから今のキリスト教って、イエス起源の多様な宗教活動の一部だけが正統派の地位を占めて残ったものなんですね。
ただキリスト教が賢明だったのは、「新約聖書」といいつつ正典の内部をひっ繰り回しても殆ど教義が出てこないこと。
結局、「教会」が教義の中枢を占めたわけで、よって時代にある程度対応できた。
キリスト教は厳密な意味で「正典宗教」であったわけでなく、「聖書」が叫ばれたのはルター以降らしい。
キリスト教の「三位一体説」で「霊」を強調しておけば、相当程度に柔軟性を保つことができるという素晴らしい経営方針。
(柔軟性から逸脱すると、「異端」にされる・・・・)
ともかく、すこぶる、「正典宗教」というのは新しい現象なんですね。
つまるところ、我々は「正典」を持たないからといって新興宗教を馬鹿にしてはいけないという結論になるのでしょう。
エル・カンターレ(大川隆法氏)が相互矛盾する本を多数出版しているからといって、否定してはだめなんですね。
むしろ「正典宗教」に毒された己の未熟を認識すべきなのか。
また、同じキリスト教なのにエジプトの「コプト派」などが殆ど言及されないのは、「正典」に導かれる異端という思想に社会が規定されているためなのか。

1/27
シレン、「カカルー」の試練50階到達。
(自己の装備の強化ができず、かわりにモンスターをワナにかけることで進むもの)
ずいぶん難しかったような気がするが、直前に33、43、50と順当に伸びたことを考えると極端に運の要素も大きくないのかも。
以下自分用の要点メモ。

  • 基本アイテムは「保存の壷」。
    終盤には身代わりの腕輪、透視の腕輪、通過の腕輪、高飛びの腕輪、回復の壷2から3、みずがめ、一時しのぎの壷、主武装、矢を常備しておき、残りは全て保存の壷になるべし。
    保存の壷に詰めるべきは身代わりの腕輪と透視の腕輪の予備、吹き飛ばしの杖、場所換えの杖、トンネルの杖、あとは罠をつめる。
  • 武器はアイアンヘッドの頭が3マスの遠距離攻撃ができる点で最良と思われる。
    矢の軽減にもなってよい。
    ミノタウロスの斧は強いが所詮近接攻撃のみである。
    皮のたては中盤までならハラヘリ軽減用に所持の価値は大。
    序盤は、どんぶりのたて+毒矢のワナがおにぎりのかわりとして有効。
    序盤は「木の矢」「鉄の矢」のワナで矢を200本ぐらい溜め込む。
    最終版において自身の力がゼロの場合、両者のダメージは殆ど相違ない。
    なお、「ぶっ飛びハンマー」が最良の武器らしいが、自身のプレイでは一度も出現せず。
    店で売られるのみのこのアイテムだが、店の出現率は低く50階までに2,3回しかでない。
    入手できればかなり難度は下がるだろう。
  • ワナで最重要は「デロデロの湯」であり、見かけたら全て回収する。
    破損率が20%と低く、かつ敵は即死するので。
    地雷はほぼ使い捨て(破損率50%)なので有効度が落ちる。
    シレンが敵に囲まれた場合に、隣の敵に投げてダメージ覚悟で周囲を一掃するのが主たる用法。
    ゆえに数個の確保は必須である。
    (あまる場合は密集する敵に投げつける)
    「のろいのワナ」「回転のワナ」は終盤においても使えるので、壷の容量があれば持ち運ぶ。
  • 基本方針
    中盤までは矢のワナで矢を稼げるだけ稼ぐ。
    にぎりへんげの出現する6から9階で、ワナをおにぎりに変えてもらって満腹度を200に。
    7階クリア後の「二古玉村」ではおとぎりそうをもてる限り買い込んで最大HPをあげる。
    以後大部屋モンスターハウスの場合は即降りが基本。
    40階以降はアストラルデビル、デブートン(さらにアークドラゴン)が存在するので即降り。
    厄介な敵は分裂する「しおかんべん」。
    力はゼロになることを覚悟しておく。(さほど支障ない)
    イッテツ戦車・イアイ・シハン・ラジャーガ・メガタウロスは水をかければ殴りあうことも可。
    安全な階層では可能な限りレベルを上げておくべき。
  • 重要テクニック
    通常時は透視の腕輪を装備し、敵に近接が必須の場合は破損回避のためにあらかじめはずす。
    一回くらい殴られてもよい。
    面倒であるが、多分これが重要。
    個人的にもっとも便利なアイテムは、高飛びの腕輪。
    敵に囲まれそうなとき、hpが少ないとき、階段を下りるときは装備しておく。
    破損率が非常に低く、かつダメージ時の高飛び発生率が高く(1/2以上)て有用。
    さらに瀕死の場合は身代わりの腕輪を装備する。
    アストラルデビルとデブートンの存在する40階以降は、HPが100程度になれば身代わりを装備するべき。
    通過の腕輪は、水上から陸上の敵を遠距離で一方的に攻撃するという使用法があるので所持しておくべき。
    「ワナの巻物」「ワナの罠」は広い部屋があればそこで使ってしまう。
    「デロデロの湯」が補給できるし、一つでも「落とし穴」が出るかもしれない。
    (終盤は「ワナの巻物」2回につき落とし穴一個ぐらい)
  • 反省点
    「モンスターのワナ」「怒りのワナ」は敵に踏まれると厄介なので、発見したら意図的に踏んで消すのがよいかもしれない。
    少なくとも、敵の通過しそうにない隅に移すくらいはやったほうがよいだろう。
    「ワナの巻物」はため込まずに、即消費しきるくらいの心持がよさそう。
    所詮モンスターハウスの回避には確実でない。
    怒りのワナを踏んだ敵は特殊攻撃しかしなくなるので、序盤で満腹度を200にする際ににぎりへんげに投げつけるのがよさそう。
    ガルムドラゴン、アイアンヘッド、ラジャーガ、シハン、メガタウロス、パオパオーンはHPが高く、接近させてはいけない。
  • 以上。
    確率的要因の大きなゲームであればこそ、常に失敗の場合に対処できる行動をとってゆけば問題ない。

    1/26
    自衛隊の「施設」部隊が、どうしても「私設」部隊に聞こえてしまうのは私だけですか?
    昔聞いたネタです。
    現場で複数の「男根」(弾痕)が発見されました。
    笑っちゃいます。
    「クローズアップ現代」見ました。
    夜7時という時間を辞めて、以前のように9時半に戻してほしいと犬福は思います。
    内容は、「リストカット」が若い女性に広まっているというもの。
    私リストカットって自殺を試みた跡だと思ってたのですが、どうも違うようですね。
    番組に拠れば、リストカットを試みる人には共通項があるそうです。
    「若い女性で、両親や友人など対人関係にトラブルを抱え、それを言語的に表出することが不得意である」
    ことだそうです。
    クローズアップ現代の信憑性の程度はナゾ。
    「オタク文化論」を「メディア文化論」と放送時点で事実を歪曲して報道してたし・・・・。
    短い準備期間ですので、問題提起と現状リポートを得られるだけでも感謝することに私はしてます。
    話題を戻して、そのような女性の証言が非常に興味深い。
    ・・・
    自分に存在する価値がないように思えてくるんです。
    私はいてはいけないんだって。
    だからそういうときに手首を切ると、血と一緒に様々な感情が流出するんです。
    それで、ああ、許されたって思うんですよ。
    以上、女性証言。
    非常に面白いと持ったのが、古代の宗教感情と極めて強い類似性を持っていること。
    「血を流す」という行為によって、「許し」が与えられるという理解です。
    勿論「リストカット」自体はその贖いのおこないの現代的表現に過ぎません。
    断食などの苦行がその地位を占めたこともあったし、より直接的に自らを鞭打つなどはまま見られますよね。
    そしてユダヤ教なら、神殿に生贄を捧げること。
    もちろんこれらの場合は、自らの存在の義化の対象が宗教規範です。
    宗教規範というとえらそうですが、その実たいしたことはないはず・・・
    リストカットの場合の義化の対象は、対人関係ですか。
    両者の共通項は、なんらかの「行為」によって自己の存在が許容されるという感情を得ようとすることか。
    こう考えると、人間の心情って時代に変わらず同じなんですね。
    そしてそれに対する解法が、法然親鸞の往生であり、イエスの許しであり。
    つまり、既に自分は許されているのだ、という認識をもつことなんでしょうね。
    それは難しい。
    おめでとう、おめでとう、おめでとう。
    (テレビ版エヴァの最後)

    1/25
    感動したもの。
    = サイト名未定 =
    を閲覧していたとき。
    (2ちゃんねる・レゲー板のネタスレッド「ゲームの理不尽な点を強引に解釈するスレ」を整理したもの)
    その中のドラクエの項目。
    ゲーム内の世界の人が皆同じ言葉を話すのはどうしてですか?
    544曰く、「あの世界ではバベルの塔が作られなかったからです。」
    このウィットの利かせ方は、賞賛に値しますね。
    たかがジョークでも知性の輝きが現れてます。
    私もこういう機転の利かせられる人間になりたいです。
    バベル関連で言うと。
    上のネタが分からない場合にも備えて、一応概略。
    むかしむかし、人々は考えました。
    天に到る塔を作って我々はそこに集い、我々の名を高めようではないか。
    そこで人々が集まって塔を作り始めました。
    それを見た神様は、人々の言葉を乱したのです。
    次の日から、人々はあい互いに異なる言葉を話すようになり、それぞれが何を言っているのかわからなくなりました。
    こうして塔の建設は放棄され、人々は世界に散っていったのです。
    以上。
    どうでもよい知識としては、こんな感じ。
    「バベル」とは「乱す」という意味。
    イエスの死後50日目に弟子たちに「炎の様な舌」が下って世界各国の言葉で福音をとき始めた逸話は、バベルの塔の逸話との対照を意図して脚色されたとか。
    以上。
    バベルの塔の逸話は、実のところは人々が「別々の言語」を話すようになったわけではないそうです。
    (勿論この逸話自体が古代流通した神話であって事実ではなく、その意味解釈に本質がある)
    人々は「同じ言語」を話しているのに、お互いに何を言ってるかが分からなくなった。
    ということらしいですね。
    人々が嘘や利己心に凝り固まって、他の人のことが全く分からなくなった、分かろうともしなくなったということだそうで。
    相互不信と自己閉塞を主題としている点において、「バベルの塔」と「エデンの園」の神話は実は同じなんだそうです。
    (エデンの知恵の実も、あの馬鹿夫婦でお互い責任のなすりあいしてますよね)
    この意味は犬養道子氏に教わったのですが、この点では実に彼女はいい本を書いてるんです。
    ともかく、バベルの塔の逸話、同じ言葉を話しつつ分かり合えないって、まさにわが身のことか。
    偉大な文学ですよ。

    1/24
    自衛隊先遣隊派遣に関する質問。
    記者曰く、「先遣隊の調査が不十分なのでは?」
    小泉首相曰く、「専門家なんだから、十分分かるでしょう。」
    完全に合理的な説明を放棄し、宣言することで終了。
    この程度の図太さがなければ、人の上に立つことはできないということなのでしょう。
    あえて批判の意図はないです。
    どう考えても、記者の指摘するとおり先遣隊の調査は不十分です。
    たった数日の調査でサマーワの治安が判明するはずがない。
    そのことを認めたうえで、好きに解釈してくださいとの表明のようなもの。
    これができれば人間大人ですね。
    えっと、この事を思ったのは1/22の続きのつもりの「新約聖書」曲解の意図があったからです。
    (相変わらずこっちは先延ばし・・・)
    現行聖書学では、4つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)が相互に矛盾する主張を内包しているとの見解が通説であるそうです。
    ところがこれでは教会(正確には旧弊を引きずった教会の一部というか多数)にとって都合が悪い。
    聖書は全体として一つの真理を述べていなくてはならないからだそうです。
    (これも実は勝手な思い込み)
    ですので、福音書が如何に矛盾していようとこの宣言。
    「信仰のめでみれば、それらはひとつの真理を述べているのである。」
    えっと、上記の小泉首相とそっくりじゃないですか?

    1/23
    サマワでポルノCDを販売する店が爆弾攻撃されたそうで。
    ビデオCDを再生できる環境が、十分普及しているという事実の表象と理解すればよいのでしょうか。
    「途上国」なんて偏見もっちゃだめですね。
    むしろ偏見を持っていた私自身が人格の発展途上です。
    ところで、ポルノを販売することは反イスラムなのだそうで。
    ポルノそのものは確かに原則として法条違反の可能性がありますが、それを爆破攻撃することはよりイスラム法に反する可能性が高いでしょう。
    このあたり、エジプトあたりの開明的かつ知性的でかつ権威あるイスラム法学者の解説が欲しいと犬福は思います。
    ところで、「永遠に処女の妻と、善行の回数と断食の日数分だけ性行為ができる」天国というのは、部外者には些かポルノライクに聞こえます。
    (岩波文庫「コーラン」の第一巻の一番最初のほうにあるので、是非立ち読みで確認するにょ!)
    たかが一断片をもってイスラムを断罪するほどに私は傲慢ではないです。
    でもこれでは意味が分からないので、なんらかの理の通った解釈を、信憑性のある言葉によって聞きたいです。

    1/22
    目前の事実をそのままに認識すること。
    実はこれって、至難の業なんですね。
    再び犬養道子氏の「聖書を旅する」のお話。
    本書は旧約聖書、新約聖書を犬養道子氏が解説解釈するという内容です。
    何が問題の焦点化といえば、彼女が目前の事実をそのままに認定していないということ。
    勿論これは、彼女にとどまらず、旧来のカトリックプロテスタント含めた「教会」勢力一般の欠点だったのでしょうが。
    まず旧約聖書。
    古代テキストは寓話を持って神話的に記述されるので、その意味を把握することが本質であるとのすばらしい指摘。
    ついで「創世記」の逸話の深い哲学性をもった人間の実存そのものの問題を重視し、その意味を繰り返し解説してくださいます。
    そして我らが抱く神のイメージを否定。
    本書に触れ、自分の理解が如何に偶像的なものであったかを私は悟らされました。
    「じじい」みたいな神を以って偶像という程度は誰でも知っていましょう。
    が、それでもやはり心中どこかに人格的存在を神認識に対して与えていたのが私の理解。
    犬養氏の記述をたどる限りでは、「ことば」「関係性」「生命」などの普遍原理そのものがいわゆる唯一神というものの本質であることが察せられます。
    (私は何も分かってませんが、「大日如来」が普遍原理そのものであることと同じなのではないかと感じます)
    ここまでの犬養氏は、まさに私にとっての偉大な師そのものといってよい。
    ところが、暴走がここから始まります。
    いわゆる、全てをキリストに結び付けてしまうもの。
    「旧約聖書のこの記述は、キリストを預言しているものだ・・・・」
    (「預言」とは神の言葉を預かることで、「予言」とは異なると、えらそうな分かったような説明がされますが・・・・)
    と理解してしまうわけです。
    「アレゴリー」解釈とか言うそうですが、旧約聖書をそのものとして理解しようとしない。
    全て、新約聖書に結び付けて意味を考えてしまう。
    事実認定の段階では資料は十分にそれ単体で普遍を告げているものが、意味づけになると全てキリストと関連付けられてしまう。
    これは自身が正典とするところの「旧約聖書」に対する侮辱なのではないかと、一般的には感じるところです。
    私の「聖書を旅する」の初期の感想は、「旧約」の普遍メッセージに対する純粋な敬意でした。
    ところが読み進めるにつれ、犬養氏のむちゃくちゃな解釈に毒され、いつしか自分の無理解を恥じるようになってしまって。
    「屁理屈」ー護教論ともいうーに丸め込まれてしまったわけで、言葉って恐ろしい。
    ともかく、まずドグマが前提にあるために、犬養氏はそのようにしか事実を見ない。
    ものを見るのは難しいものです。
    えっと、それでも犬養道子氏は部類で言えば知性的開明的な方ですよ。
    「原理主義」といえば自動的にイスラムに結び付けられる風潮ですが、それ以上の害悪がキリスト教の原理主義。
    なにしろ、ブッシュ(共和党)の大きな支持母体ですので、実際に政治を悪しき方向に動かしてしまう。
    「ものを見る」というただそれだけのことです。
    が、それに対する知的な誠実さが欠落した場合、如何に大きな社会的害悪が生じるかの典型例ですな。
    えっと、犬養氏の名誉のためにも、上記の解釈は旧来の宗教勢力全体の方向性であることを宣言しておくです。
    歪曲されているのは「旧約」のみならず、実は拠ってたつところの「新約聖書」と「イエス」その人がより程度が著しいそうですが。
    長くなったので次の回に。

    1/20
    ガルダようやく4250万。
    「書物としての新約聖書」の再読開始。
    最近思いますのは、ウェブ上での作法なるもの。
    えっと、「ネチケット」という造語が嫌いなだけです。
    既存概念の範疇に包括される事象に新語を当てる行為に、わが良識が違和感を覚えるだけのこと。
    本文書をご覧くださる方が多数いらっしゃるそうなので、最初に宣言しておくです。
    当方は、本サイト内掲示板を利用される方に苦言を呈する意図は全くないです。
    本題に。
    なかなか有名なのが、毒吐きネットマナーですよね。
    初めてこれを見たときは、まさにそのとおりと思っていたものです。
    でも読み進めるにつれ、自分の過去の所業が、その意味づけと共に脳裏に浮かび上がります。
    あのころの私は、なんと人様に失礼な、迷惑をかけることばかりしていたのだろうか。
    この罪の意識ばかりは、未来永劫ぬぐえるものではないですね。
    自分の見解を、普遍であるかのように装って、一方的に述べ立てる。
    相手の方がそれを見てどれほど不快に感じるかなど、当時は考慮したこともなかったし。
    ましてや、内容が妥当性を持つものならともかく、単なる主観にすぎなかったわけだし。
    この経験は見事に萎縮効果をもたらしてくれ、よそ様に顔を出そうという意欲を抑制してくれます。
    自分の行為が相手方に不快感を催すのではないかと、必要以上に心配してしまうです。
    人徳を磨くという、古風な言い方しかなさそうですにょ。
    ですので、ウェブ上で不快感を覚える場合でも、昔自分もやった事だしと、怒りを覚えることも殆どなし。
    「人の振り見て我が振りなおせ」。
    まさにこの命題の妥当する場面だと感じてます。
    ちょっと話題変わりますが、素晴らしいと思ったのがこれです。
    ネチケットってなーに ? !
    「HPを管理している方へ」という部分の製作された方の見解に、素直に感じ入りました。
    「小学生にも分かるように振り仮名いり」というのは、何気ないようで素晴らしいものです。
    ウェブ上には、「小学生もいる」という当たり前の事実。
    考えたことすらなかったですが、指摘されて初めて認識したです。
    どうも私、ウェブ上の見えない相手方は、教養学歴等が自分と同程度であると前提としてしまっている悪い傾向があるです。
    勉強になるですね。
    自分の過去を考えれば、中学程度までは馬鹿そのものだったことを思い出します。
    私が相応の対応を取った相手の方も、実は年齢相応の知性であったという単純にそれだった可能性もあったのかもしれません。
    反省させられます。
    ・「熟読し熟考し最大限の努力を払ってから質問せよ」
    ・「閲覧することはそれに伴う不快感に対する包括的承認である」
    この様な自明の断りすら、中学生のときの私は理解できなかったという、悲しい確信をもてます。
    後者に到っては、悟ったのはいつのことだか。

    1/18
    先のスコプチサイトのお話。
    長年疑問だった「世界人類が平和でありますように」。
    この正体は、宗教法人 白光真宏会だったのですね。
    ちょっと、納得。
    それにしても、この様なウェブサイトを製作される方は本当に素晴らしいです。
    素直に、敬意と賞賛を捧げたいところ。
    ネットという媒体に始めて触れたころは、ゲーム情報というものが関心の中心だったような記憶があります。
    最近は、ゲームサイトなるものにいささか(もしくはかなり)関心がなくなってきました。
    自分の読んだ本の情報集めたり、関心ある分野のサイト見てたり。
    ゲームそのものは今でも好きですが、流通する情報などどうでもいいやという感じ。
    市販ゲームに関心ないのもその一因なのかも。
    ちょっと、成長したのかな?
    「書物としての新約聖書」はとてつもなく面白いです。
    やはり、優れた学者は誰にでも分かりやすいすぐれた本を書くものだという原則を確認。
    ハードカバーの700ページ8400円と少々お高いですが、そこから得られる理解を考えれば比べれば安きに過ぎる。

  • 新約著者(とくにパウロ)の偏見に満ちた様
  • マルコと他の福音書の相違、(「義」という概念など)
  • ヨハネ福音書の特徴、(歴史事実としては小アジアのグノーシスの人々に愛用された)
  • 新約正典化の経緯、(異端を排斥する点でのみ強く結合し、自身内部のさらに大きな見解の相違は無視するのが正統派)
  • 初期キリスト教の驚くべき多様性、(グノーシスなどの現在でいう異端が数量的にも多数を占めた)
  • ドグマの根拠のなさ、(三位一体の根拠はエラスムスの時代に聖書に挿入された)
  • 翻訳のいい加減さ、(原文ギリシャ語に忠実といいつつ、都合のいいように翻訳段階で聖書を改ざん) などなど。
    以上一例ですが、それらの学説上のほぼ通説的立場を占める見解(上記は筆者の見解ではない)を、その証拠資料や歴史共に詳細に解説してくれます。
    一般に言われるところの「キリスト教」なるものが、如何に事実の歪曲のうえに成立しているかがはっきりと分かります。
    汚濁にまみれようた現状のあり方を、学問的誠実さによって解明是正すること。
    そしてその方向性が、キリスト教という宗教勢力の内部から発生しているというのは、やはり尊敬に値する。
    カトリック教会そのものが、自身の歪曲の歴史を認め、そういう真摯な学問的聖書研究を奨励しているというのはすごいことです。
    それがやはり、普遍というものの持つ力。
    対するわが日本国といえば、あのカトリック教会よりも歩みがのろいなあ。

    1/14
    すごいものを見つけました。
    スコプチなる、恐るべき宗教団体。
    是非ともご一読を。
    「オウム真理教」などかすんで見えるほどの異常団体です。
    不謹慎ですが、最も面白いのはその教説内容。
    以下全て上記リンク先の情報に基いた記述ですが、その参照した情報の真実性の程度は不明です。
    筆者の方は宗教一般の広い理解をお持ちのようですが、些か手の及んでいない理解もあるようです。
    ・・・
    スコプチは、「聖書を文字通りそのままに理解する」という点で原理主義団体の模様。
    まあもちろん、文字通りに読んで意味が通じるはずもなく、それを自己流に曲解してしまうのがこの教団のオリジナリティか?
    文字通りに読んで意味が通じないなら、その記述の背景の意味を考えよというのがテキストの告げるところでしょう。
    もちろん、その理解がないからこそ、カルトに関わるわけなのでしょうが。
    筆者の方の「性欲を悪とするキリスト教(カトリック教会)の思想」という認識は誤りで、カトリックとプロテスタントという既存教会が解釈を誤っているだけではないかな。
    キリスト教の根本は、性欲を否定も肯定もせず、ただあるものと捉えていると思うにょ。
    それはとりあえず、このスコプチの結論は狂信的というか、首尾一貫しているというか。
    あの去勢方法は19世紀的表現であって、きっと現代なら大脳辺縁系の性欲中枢そのものを破壊するという行為にでるんだろうな。
    そう考えと、類似教団は今後も現れそうです。
    最新のテクノロジーを採用しつつも、根本の、古代ギリシアから普遍不変の「考える」という姿勢だけを欠如させるのがカルトでありますので。
    あの「独身者」というのは、結婚しなくてはならないかという質問の回答のはずなんですが。
    (民族の繁栄を神の意図と理解するユダイズムに拠れば、独身というキリスト教修道会のあり方は許容の余地がないという伝統的理解を踏まえたうえでの質問だったはず・・・)
    どう考えたら、独身者が「不能者」になるのだろう?
    そもそも識字能力があったのかどうかという点で疑問ですが、手元に聖書があったかどうかもわからない。
    もっとも、聖書自体が、教会の都合のいいように書き換えられている事実が写本研究であきらかになっているそうだ。
    (でも、原典の執筆者自身の著作が真実であるという保証も全くゼロだけど・・・・)
    14万4000人というのは、何処の教団でも好きなようですね。
    「モルモン教」「ものみの塔」など原理主義団体は全て14万4000人だけが、文字通り「天に揚げられる」と信じているそうですが。
    12*12*100=144000というシンボリズムは、極めて多くの人間をあらわす趣旨だそうですが。
    完全数の「3」*東西南北全ての「4」=「12」って、なんじゃそれ?
    さらに12が12個あるといわれても、大完成を表す100をかけられても・・・・
    完全数「3」+万物を表す「4」=「49」で、それに1を足すと大完成の50。
    その50が二個あったら何?
    犬養道子氏の解説で理屈は分かりましたが、合理的人間が意味を見出すのは不可能なこじつけですな。
    なんで最初は3*4なのに、次は3+4なんですか?
    とりあえず、スコプチによればイエス自身は去勢者だったのか。
    統一教会に拠れば、イエスの使命はセックスによって原罪を負わない子を多数生産することだったはず。
    ・・・
    ということは、おそらくイエスは性的接触なしに女性を妊娠させることができたのだろう。
    さらに、統一教会が「セックス」という契機を強調するからには、きっと被害者の女性は突然エクスタシーに達して妊娠させられたに違いない。
    異常少々、私も原理主義的文字通り解釈を試みて見ました。
    これがどこかのカルトの教義だといわれも、まったく違和感がなさそうだ。

    1/13
    NHKの世論調査の結果を見てると、いろいろ分からないことだらけ。
    自衛隊派兵反対が過半数を超えるのに、小泉首相の支持率が8ポイント上昇というのはどういうわけか。
    小泉政権という巨大な集合のうち、自衛隊派遣はごく小さな部分集合に過ぎないからだという理屈はわかります。
    感覚的に、納得がいかないなあと。
    (この調査では、自衛隊派遣の賛成反対派ごとに政権支持率の数値がほしいにょ)
    自衛隊派兵反対の最大の理由は「危険だから」でしたが、じゃあ安全だったら派兵してもよいのだろうか。
    状況の良否で派兵の是非が判断されるというのは、その判断が何らの根本的価値基準に基くものでないことのあらわれのように思われるのですが。
    でも私は、全く派遣の是非が判断できません。
    合衆国の行為が侵略であって肯定の余地がないことは明白。
    しかし独裁政権の危険性も否定できず。
    さらには悪化した状況に苦しむイラクの国民にも、「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏から免れ・・・・」る権利があること。
    そして「我らは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去・・・」することを決意している。
    これらは憲法典の一部である前文に明記されている。
    いったいどちらの価値が重要視されるべきなのか?
    政権の果たすべき説明責任はこの明確な論理に基く価値判断であり、報道機関の責務はその判断基準を提示して国民そのものに考えさせることにあると犬福はおもうにょ。
    「どう読むか、聖書」を読み終わったので、次の「書物としての新約聖書」に取り掛かる。
    前者は、非常にいい本だったなあ。
    信仰に根拠を求めることのない、研究事実のみに基く論旨展開。
    そうでなくては、何らの普遍性を持ち得ないだろうし、理性的な人間の受け入れられるところもそこにしかない。
    そういえば、一つよい単語を覚えました。
    「護教的」、うん、まさに犬養氏は護教的な論理展開が多かった。
    おおよそのところは万人遍在の理性知性に基いて話を進めるのに、結論だけ非合理が理性を超越している。
    それにしても、なぜに信徒でない私がこれほど聖書の勉強をしているのだろうか。
    やはり、非常に面白く知的好奇心を刺激するから、というのが最大の理由なんだろうか。

    1/12
    朝鮮労働党の機関紙に、サダムフセイン体制を批判する論評が掲載された、という報道がありました。
    その内容を聞きますに、実にオリジナリティに溢れた視点に新鮮なる驚きを覚えます。
    核査察を受け入れたことが、米国の攻撃を招くことを予期できなかった。
    これしか記憶に残ってないのですが、残りもまあ似たかよったか。
    独裁体制への批判は一切なく、外交姿勢の甘さを非難するのみ。
    まあ、自分のお国も独裁体制だし。
    この手の国家で特徴的なのは、対外論評を唄った記事が、実は国内に向けたメッセージに他ならないらしいということ。
    サダムフセインを非難しているように見えて、実は国内に米国介入の警戒の喚起と、反対派(及びその予備軍)への警告が記事の目的。
    「社会主義の20世紀」とか「ワイルドスワン」で歴史的実例は多数見聞できましたが、その実物をお目にかかれるとは幸せです。
    それにしても、文書の解釈というのは難しいものですね。
    表層の意味と、製作者の真意が全く異なることもありうるわけですし。
    同様に、筆者のそのままの意図を、読む側で曲解してしまうこともありうる。
    閑話休題。
    やっぱり思ったのが、本題の犬養道子氏の本。
    彼女は極めて正論を述べ、文書はその意味を理解することが肝要とときます。
    特に聖書のように、古代のシンボリズムに満ち溢れた文学類型は、その正確な把握に緻密な学問考証が欠かせないと。
    ここまでは極めてアカデミックであり、万人が納得することを説かれるのです。
    ところが一番肝心なことに、解釈対象である聖書の記述そのものの信憑性に全く疑念を抱かない。
    聖書内部には相互矛盾をきたす箇所に溢れているのですが、それらも理由付けを行なってしまう。
    この理由づけは、古いカトリック教会の主張そのままで、著しく合理性を欠いたものばかり。
    その上で非合理な教説を、「神のわざ」であって人間理性には了解できないものと仰られる。
    そのわざを理解できるのは「信仰」の光であって、信仰とは「神の賜物」なのだそうです。
    たとえてみれば、自説の正当性の証明に自説を用いているようなもの。
    これは合理的な知性の持ち主が了承できる主張ではないです。
    なんだか最近、犬養道子さんの本の難点ばかりが見えてくる。
    でもそれは、それだけ彼女の主張が理解できてきたことの現われなのでしょう。

    1/11
    手続き中に関わらず、ホームページ公開代理サービスは利用できるらしいです。
    いまのとこ、インフォシークにお金払って場所を借りることにしました。
    やっぱりあの、上下に広告がついてるのは見苦しいという美意識を尊重することに。
    300メガもあるそうで、だめ写真展でも公開できそうです。
    月額500円に初期費用3000円だそうで、1万で一年遊べるなら安いものです。
    にしても、文書だけ書いてて5メガが一杯になるとは予想もしてませんでした。
    次回更新予定は、神保町のそば地図、皇居近辺写真集。
    皇居のあたりはいいデジカメ買って写真とってきたいですね。
    失ってはじめて分かるありがたさ、ですね。
    まあでも、こっちも春になって気候がよくなってきたら、大規模撮影を敢行したいところ。
    近くの県民公園の風景、自治体のホームページにないし。
    そういうわけで、300メガは自己満足にありがたそう。
    「どう読むか、聖書」を読んでいると、犬養道子氏の難点がいろいろと見えてきたです。
    彼女はテクストとして批判的に聖書を読むこと、そして意味を把握することに本質があることの重要性を説きます。
    そのためには、歴史背景に、新約聖書の当該記述が下敷きとする旧約の該当部分の解説、言語的解説などを、学者の見解を紹介しつつ、十全に説明してくれます。
    ここまでは極めて素晴らしい点。
    彼女の学識及び知性と、根本の確固たる理性が伺える場面です。
    ところが、必要な事実を明らかにした上での、最後の評価の次元において、自説が十分に貫徹されていない。
    すなわち、従来のカトリック教会の主張をほぼそのまま受容しているに近い形になっています。
    神の本質は開放された関係性であり言葉であるという普遍的な理解を提示しつつ、言葉の受肉托身や贖罪死という従来の説に行き着いてしまっている。
    「復活」についても、復活体は霊であって人は見ることができない、と古い見解がそのまま。
    復活とはそもそも、見たり触ったりできる現実世界における事象ではない、というのがより聖書の文に忠実かつ、普遍的な理解であると思うのですが。
    彼女は最新研究成果を十分に考慮に入れて筆を進められるようでした。
    しかし、専門外なので私は断言できませんが、どうも自分の理解に都合のよい研究だけを参照しているのでは、と思われる節も無きにしも非ず。
    彼女の説明は、実は学説上ほとんど支持されていないものであるのに、その旨の記述がないとか。
    (十字架上のイエスの「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」は詩篇の冒頭という解釈は、ほとんど誰も学者は支持してないらしい・・・・)
    まあでも、あくまで「聖書を旅する」は犬養氏の見解であるわけだし。
    そもそも、我にこれだけ考えるだけの基礎理解と知識を与えてくれたのは犬養氏ですし。
    私という人間に、自ら考えるだけの基礎を育てたという意味では、彼女の創造行為は実に有意義だったと、感謝するべきでしょう。
    自身の見解を提示することで読者に自ら考える起点を与えることが、犬養氏の真意であったという可能性も十分に考えられます。
    全部で2万以上は本を買ったので、ちょっとくらいは反対意見述べても、許してくださいな。

    1/8

    降りました。
    漏れは一体何をやっているのだろうか。
    かかる実存的苦悩にうち震えます。
    昨日の「どう読むか、聖書」は非常に興味深い指摘に満ちておりました。
    現在の学説上では、以下のことが通説的立場にあるそうです。
    ・イエス自身が、自己の死を「贖い」と認識していないこと。
    ・福音書中のイエスの死の予告の言葉は、付加されたものであってイエス自身のものではないこと。
    ・イエス・パウロの思想は、福音書執筆の時点で相当程度に修正されていること。
    信仰持たぬ私にとっては、現在の聖書学の示すものがより合理的に思えます。
    現実世界での認識態度における「許し」と、心の中での「復活」。
    なんらの自然法則からの逸脱を持たない概念であればこそ、普遍性と説得性を持つように感じます。
    現実を超越する力を持つから神な訳ではないし、ゆえに無価値ということもない。
    そもそも「唯一神」という概念に、万能という属性は含まれないはずなのに。
    (これは犬養氏が指摘していること)
    「からだの復活」って、非合理ですよね。
    「非合理であるからこそ信じる」というのは、やはりどこか間違っている。
    「信じる」とは、対象の真実性故にそれを受け入れること、であるはず。

    1/7
    年頭から晴天が続きます。
    新年早々、何をバカなことをやっているのかと思いますが、素晴らしいものを発見しました。
    こちらに在ります、「LadySword新章」。
    かなり笑えます。
    新年初の購入書籍は、100円の「ブラックジョーク大全」阿刀田高。
    初の購入ゲームは、「キングスフィールド4」、1570円。
    ゲーム機を起動できる見込みが当面ゼロなのですが。
    アップスキャンコンバーターを買ってきて、パソコンのモニターに出力できるようにするまではお預けです。
    少なくとも数ヶ月は先になりそう。
    とりあえず昨日を持って、「聖書を旅する」読了。
    総計12000ページあまり(3回分)、でも分量は無意味な数値。
    阿刀田高のだめな本なら2万ページ読んでも疲れないだろうし、難解な専門書だと1ページでも疲れます。
    要約とメモを作ったのが大変な労力でしたが、その恩恵で自身の理解と記憶は大いに助けられました。
    製作物を置いて置く場としてのウェブサイトというのは、ありがたいものです。
    営利目的皆無の、個人の趣味の領域としては、これが最も適切な在り方と思うところ。
    「聖書を旅する」は膨大な知識と理解を与えてくれました。
    しかし、理解というか同意できない部分も多し。
    やはり現行の教説の中心をなす、体を伴っての永遠の生命への参与、いわゆる復活という部分が、理解を超越している。
    より適切には、非合理の領域に到っているというべきか。
    筆者の犬養氏は「信仰とは、ことばの自体の信憑性故に同意するもの」と定義されています。
    しかし、「復活」(すくなくとも教会の説明するあり方の復活)は、ことばが信憑性をかいているとしか私には思えない。
    より合理的な説明が成り立つはずです。
    私の知性は犬福並みですが、物事の一面を見てそれで全体を判断する行為の愚かさだけは理解しております。
    でも、この「復活」以外の大部分のキリスト教の教説は、宗教という(我にとっては)偏狭な領域を超えた普遍性を持っているんですよ。
    とりあえず、違う人の見解を読んで異なる角度からの学習に勤めましょう。
    今手をつけた、「どう読むか、聖書」(朝日選書)の指摘が著しく興味深いです。
    筆者が犬養氏のような一般人でなく、聖書学者であるために、より文献考証に基く学問的普遍的見解を提示してくれるのが素晴らしいです。
    ただ、この書の価値が見出せたのも、犬養氏おかげ。
    彼女の著作によって他学説および基本の聖典そのものあるていど(簡略に説明できる程度には)理解できたからこそです。
    故に本書の見解の独自性や立脚する価値が、他説との比較検討によって明白に浮かび上がってくる。

    1/3
    昨年は、阿刀田高御大を初めとしてだめな本を多数読みました。
    我が恵まれたのは、それでも「聖書を旅する」を一貫して読み続けてきたこと。
    よき出会いに感謝するのが、素直な心のありかた。
    本書は造物主を承認する信仰のあり方を、「聖書」なる古典を文学的読解してゆくことによって、明らかにするものでした。
    かの信仰について、浅薄ではありますが、概要の理解が得られたのはよき点です。
    それ以上に、信仰なる一側面(人によっては基底面)を超える、普遍性を持つ概念を多数学べたのが最大の恩恵です。
    聖書は極めて限定された場面のストーリー(古代ユダヤの民の歴史やイエスの処刑)を叙述することで、人間に普遍的なあり方を描くという手法を採用しています。
    それを我ら一般人にとって普遍化してみれば、この様に述べてよいと思います。
    信仰を持つ人という人類の一部の姿を描くことで、全人類に普遍的な心のあり方を描いている。
    大学で学んだ法哲学同様、我にとって価値基軸の中枢を構成させるだけの内実にふれた。
    祝福されるべきであいでした。
    法哲学教官の井上達夫教官(創文社「共生の作法」あり)と並び犬養道子氏を、普遍に触れる機会を与えてくれた恩人と認識します。
    第10巻を終えた後、「ローマ人の物語」に進むべきか、「書物としての新約聖書」に進むべきか。
    贅沢なる悩みです。
    えっと、ようやっとガルダクリアできました。(残0、3500万)
    (レバー真ん中1Pのみの筐体での話、トライタワーのガルダ3台中の真ん中状態)
    2,3週間ぶりかも。
    環境に順応して、慣れるしかなし。

    1/1
    新しき年が始まり、生活も落ち着きを取り戻してまいりました。
    本年がよき一年でありますように。
    2年以上計画していた靖国神社写真集を2003年の締めとしてアップロード。
    と思いきや、大変デイリーなことに小泉純一郎首相が靖国神社に参拝なさったそうで。
    靖国の複雑な様相を一瞥し、その理解を広めたいというのは、私自身の真摯な願いです。
    どうか皆様、ご一覧ください。
    時代の意味を各人が考慮して価値基軸を定めてゆくことは、この時代において必須のことと私は思うです。
    それにしても、最近はさすがに以下の質問はなくなったようですね。
    「公人としての資格ですか、それとも私人としてですか?」
    かかる質問に意味を見出すのは著しく困難ですし、外国に通用しないのは自明の理。
    ただ、首相の参拝が「神道式であったか否かは明らかにされませんでした」という報道は少々面白い。
    何とかして「政教分離」の論点に話題を持ってゆこうという努力は伺われますが、些か頭が悪い。
    政教分離制度が何を目的としているかという視点に立てば、参拝の形式が何であっても国家に侵害行為となりうるという判断が妥当でしょう。
    「上からのファシズム」というか、国家が民衆を組織化し神社勢力の一部を利用した。
    この日本の特殊事情を考えると、「政教分離」という把握が妥当であるかには疑問の余地があります。
    そもそも靖国は「宗教」なのか、ひいては「宗教」とは何であるか。
    ここから考えることが重要であると思うのですが。
    文化文明を築いたものが国家ではなく宗教である西洋の議論である「政教分離」。
    それはキリスト教のような強大な宗教勢力の存在が前提となっているように感じられます。
    日本において必要なのは、軍国主義なる問題を「政教分離」の元で語ることではないと思うのですが。
    直接的に、国政の覇権化や好戦化を抑制する枠組みを構築することこそ、本質であると私は考えます。
    それこそが、憲法前文や9条の問題なのではないかなあ、と犬福は思うにょ。

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