日記2月
戻ります


2/29
最近は、古いゲームをいろいろやってます。
「やっぱり、88っていいねー」と感動をかみ締めているところ。
画質が悪いとかはさほど問題にならないです。
ただ、処理速度が遅いことだけは拭い難い欠点ですね。
ディスクアクセスで数秒かかることもあります。
最近のマシンのスピードが無意識的にデフォルトになってしまっているのは否定できないです。
ちょっとでも遅いと、事故(フリーズ)でないかとの疑念が湧き上がる体になってしまっている。
しかし何であれ、あのザナドゥや蒼き狼と白き雌鹿ジンギス汗の音楽を再び聴けるとは・・・・・。
まさに感無量。
今現在やっておりますのが、ガイナックスの「電脳学園」。
クイズに答えると女の子が脱ぐという分かりやすい内容ですにょ。
このゲームが楽しいのは、問題が全600問と適度に少ないこと。
しかも、脱いでくれる女の子が3人いて、それぞれごとに出題される問題ベースが分かれております。
私が「クイズ&バラエティ、すくすく犬福」が大好きなのは出題ベース細分化というシステムゆえなのですが、その起源は古いところにあるんですね。
ともかく、最初の問題群を覚えて最初の敵を倒し、そしてまた次を覚えて・・・・と極めて目標が明確。
しかもこのゲームはマルバツ二択のうえに、ポーズまでかけられるので実に難度が下がります。
分からない、ポーズ、メモの繰り返し。
ちまちましてて実に楽しい。
どうも私、ゲームってこの単純作業の繰り返しが一番好きなようです。
方眼紙にダンジョンの地図を書くのはたまらなく楽しい。
シューティングのパターン作成と反復練習も全く同様。
問題に答えると脱ぐというナゾの理不尽な頭の悪いシステムもまた楽しいですね。
「頭悪い+えちぃ」という組み合わせは黄金率です。
えっと「電脳学園」、出題内容は実に終わってます。
アニメ4割、映画SF4割、その他2割くらい。
(答えは覚えても出題の意味すらわからんのが大半・・・・)
  • 天使には性別は無い
  • 悪魔は神様が作った
    こういう理不尽な(そもそも架空の存在であり立場によって解答が違う)問題に直面した驚きはまた楽しいです。
  • ブルーノアの必殺兵器は反陽子砲である。
    この問題見るとうれしくなってきてしまいます。
    時代を感じさせるなあ。
    どうもありがとう、非常に感謝しております。

    2/28
    続いてパウロさんの書簡の印象。
    かなり偏見に満ち溢れた箇所が多いので、読んでいて興味をそそられます。
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    そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。
    しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、
    また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。
    夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。
    (第一コリント7−1)
    ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、
    女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。
    男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。
    女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、
    その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。
    女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。
    女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。
    男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。
    しかし、女は男の栄光を映す者です。
    というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、
    男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
    (第一コリント、11−1)
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    上の箇所は、性の蔑視罪悪視と評価してよいでしょう。
    パウロ氏の結婚理解は以下のようなものであると思われます。
    結婚は、「みだらな行い」を避けるためであり、そのために夫婦相互に性交義務を履行せよ。
    下の箇所は、明確な女性蔑視ですよね。
    これは解釈によっては女性のスカーフの着用義務という、イスラームの歪曲解釈と同じ結論を導くことが可能です。
    「性の罪悪視」がそのまま「女性蔑視」につながっていることの絶好の例ですね。
    (もっとも、なにゆえにその両者が結合するかは今後の学習課題です)
    上の二つの引用は決して悪意のあるものではなく、この水準の記述は決して珍しくありません。
    ここで興味深い事例があります。
    下の女性蔑視事例はその根拠に創世記の神話を掲げております。
    先の聖書を旅するの犬養道子さんは、その部分に違う説明をしていらっしゃる。
    「まず男が作られて後に女が造られ、男は神に導かれて女と対面する」というのが創世記の神話です。
    (創世記2−21、男女の創造の記述は2つありそれに関しては2003年9/25日記参照)
    この神話は、男女の出会いと喜びの素晴らしさを描くことを目的としたものである、と犬養さんは仰る。
    確かに、非常に説得性は高いです。
    女性蔑視の記述よりは、男女の結合の素晴らしさを歌うほうが内容として望ましいのは間違いありません。
    しかしこれは、原文の記述を歪曲した解釈ですよね。
    そもそも創世記は紀元前6世紀頃に編集された書物であり、その時代に女性が軽視されていたのは当然のことです。
    その時代に男女平等という社会があれば、その異常さこそが注目されなくてはなりません。
    その時代状況下で生み出されたのが創世記であり、ならば女性の蔑視は当然のこと。
    素直に聖書は女性差別思想に貫かれているのだと、認めるのが誠実というものです。
    「聖書は最初から女性差別などしていない」。
    それを今になってこの様に弁明するのは、著しく不正な態度だというものでしょう。
    こうやって事実を歪曲して理解することは、原典そのものの価値を評価しないことにつながります。
    創世記は男女差別思想という否定できない欠点もあります。
    しかし同時に、深遠偉大な思想も多大に含んでいる。
    パウロ氏も同様に、性に関しては偏見の塊ですが、極めて偉大な思想も非常に多い。
    欠点は欠点として認めたうえで、評価すべき点は評価することが必要です。
    犬養道子さんのように無理な解釈で聖書の欠点を隠蔽しようとすることを、護教論というようですな。
    ともかく、最近は犬養道子さんの欠点と素晴らしさが共に見えるようになってきました。

    2/27
    今現在、新約聖書中の「第二コリント人への手紙」なる部分を読んでました。
    面白い部分は多いのですが、眠たくなってくる箇所のほうが多い。
    それでも中間の印象を忘れないように書き留めておきます。
    この書簡は地中海世界へのキリスト教宣教に最大の功績を果たしたと思われるパウロ氏が口述筆記させたもの。
    おそらくキリスト教史上、イエスを抜いて最大の人物です。
    彼自身は実際のイエスに面会したわけではないですが、イエスの招きを受けたと仰ってます。
    「当人にとっては事実であるが、第三者はそれの真偽を否定も肯定もできない事件」
    それを「幻視体験」というそうで、パウロ氏の経験もそれであったのでしょう。
    阿刀田高氏はあれほどの宣教活動を行なったのだから、パウロ自身にとっては事実に違いないという趣旨のことを仰ってました。
    (「新約聖書を知っていますか」あたりが面白いですにょ。)
    それまでが厳格なユダヤ教徒でキリスト教徒を弾圧していた人物が、突然にキリスト教を語りだしたそうです。
    (もっとも、当時の信徒が「キリスト教」という独自宗教の自覚を持っていた確証は薄いですが)
    とりあえず、もっとも強く感じることはこれです。
    (ただ、まだ知識が微小で確証が無いですが)
    パウロ氏は、イエスの語ったことに関心が無い。
    この一言につきます。
    彼が注目するのは、「イエスは復活した」という事実のみのように思えるのですが。
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    口でイエスは主であると公に言い表し、
    心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
    (ローマ人への手紙、10−9)
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    何もこれは意図的な引用ではなく、この趣旨の発言はいたるところに見られます。
    イエスはその言行が優れているからキリストなのではなく、復活したからキリストなのだということでしょうか。
    イエスの言葉で有名な、「貧しいものは幸いだ」という事柄は一切無視。
    信仰告白伝承(パウロ氏的)とイエス伝承(イエスの言行重視)の対立関係という事実があるようです。
    このあたりはまだ知識不足で何ともいえません。
    信仰告白伝承がキリスト教の主流を占めたということが、今日のキリスト教のあり方を決定したのでしょうか。
    何しろ、「イエス教」ではなくて、「キリスト教」という名前がついているくらいだから。
    結局イエスさんは、その言行を直視して正当な評価を受けることがなかったようですにょ。
    草葉の陰で、イエスさんは悲しんでいらっしゃるかも。

    2/26
    「ザワヒリ氏か、新たなテロ予告テープ 」なるニュースの件。
    「また、アル・アラビ−ヤテレビで放送された別の音声テープでは、
    フランスがイスラム教徒の女生徒が公立の学校内でスカーフの着用を禁じる法律制定を進めていることについて触れ
    、「十字軍がイスラム教徒を憎んでいる、もう一つの例だ」などと激しく非難しました。」
    ということらしいです。
    フランスでは十字架をあしらったアクセサリーすら公立学校内では着用が禁止されているそうです。
    ザワヒリ氏ならば、この事を以下のように評してくれることでしょう。
    「十字軍がキリスト教徒を憎んでいる、もう一つの例だ」、と。
    やはりその、フランス公権力を「十字軍」と把握するのはいかがなものでしょう。
    右翼・左翼・アカ・帝国主義という単語を使用する方々同様、知能が低いと思われても弁解の余地が無いです。
    政治闘争を宗教問題に偽装しようという意図の表れか。
    はたまた本人が本気で宗教戦争と信じ込んでいるのか?
    英雄サラディンが、十字軍を破った際に捕虜を送還しキリスト教徒に迫害を加えなかった事実をどう考えているのか。
    そもそもあのテロリストの諸氏は、異邦人たる日本人程度のがイスラーム史に関する歴史知識すら持ち合わせない可能性もあります。
    イスラームからは「政教分離」の原則が肯定できない場合もあるでしょう。
    しかし政治的指導者なら、知識としては理解をもっているべきです。
    本を数冊読めば誰でも概要が分かる簡単なことなのに。
    教育は重要なものですにょ。
    テロリズムの最大の対処法は、良好な経済状況と十分な学校教育が途上国において達成されることです。

    もらい物です、無断転載。
    やっぱりやばいので消しますた。

    2/25
    週末に家から県庁所在地の駅まで15キロ程度を歩くと足が痛くなりました。
    やはり、一番よく歩くのは東京居住の人間ですね。
    ちょっと前までは否応なく毎日5キロくらいは歩いてたのに。
    地方というものは、車自転車のおかげでかえって運動しない。
    地下鉄に乗る時間が貴重な読書時間であったことに対し、車に乗る時間というのは完全な無為ですにょ。
    それにしても、JR線内で「新約聖書」を読むのに恥じらいを覚えるのは私がまだお子様だからでしょうか。
    おじ様のように、列車の中で正面にヘアヌードを見せ付けつつ夕刊紙のエロマンガを堂々と見入る程度の胆力が必要です。
    エロマンガ読むのと新約聖書を読むのはどちらが恥ずかしいか、一概には決めがたい問題です。
    昨日の朝刊のイランの選挙の記事が面白うございました。
    なんとイランには、「農業聖戦省」という役所が存在するそうです。
    タリバーンの勧善懲悪省ほどでは在りませんが、なかなかインパクトがある名称です。
    「農業聖戦省」というものは、「農業の聖戦的遂行」を目指すための役所なのでしょうか。
    「農業の革命的遂行」という中国や北のスローガンを思い出すのは当然のところです。
    イランでも「ホメイニ村」とかがあって、そこでは聖戦的農業によって聖戦的収量を上げているに違いありません。
    そこではきっと、村民がテレビのインタビューに「直径3メートルのかぼちゃが鈴なりです」などと真顔でしゃべっていることでしょう。
    どうしてもあの、「大寨に学べ」の中国の捏造報道が頭をよぎります。
    (水増し報告人民解放軍のてこ入れ等によって、「革命的」(一見して嘘と分かる)収量を上げた村の事件ですにょ)
    革命イランでは何にでも「聖戦的(ジハード)」と形容する社会情勢がかつて存在したことは間違いないのでしょう。
    中共しかり大日本帝国しかり、事物の名称の変更にという些事に全力を挙げるという頭の悪さは万国共通ですね。
    マホメット氏の意図する「聖戦」の意味内容は全く知りません。
    しかし、事物の名称を「聖戦的」と形容することがマホメット氏の意図する「聖戦」でないことだけは確実でしょう。
    名前を聖戦に変えることで、宗教的義務を遂行した気になると・・・・
    それで上役に取り入るつもりか、国民をそれで統制できるつもりか。
    頭の悪さや、けちくさい宗教心がにじみ出る名称であります。
    名前を「聖戦的」にしたから聖戦になるわけではない。
    内容が聖戦的であって初めて、聖戦と呼ばれるだけのこと。
    肝心の選挙に関する論評は、大変に説得力のある素晴らしい内容でした。
    いくら保守派が大勝しようと、国民の大部分が望む世俗化の流れを押し留めることは不可能である。
    だそうです。
    昨夜のクローズアップ現代でイランの軍の高級官僚(?)がNHKのインタビューに答えていらっしゃいました。
    「USAの強大な軍事力の前に、我々はUSAとの緊張緩和と友好を推進する必要がある。
    それがイランUSA双方にとって有益である。」
    保守派の方なんですが、非常に現実的な見解をお持ちの素晴らしい方ですね。
    やはり軍人さんは現実を直視できるリアリスト。
    その対極が、ラムズフェルドとかブッシュとか金正日とかいった軍歴を持たない政治家です。
    ヒトラーもそうですか?
    この視点に立つと、「文民統制」という原則も些か雲って見える。
    ではまるで現実の見えなかった大日本帝国陸軍の軍人って・・・・・・

    2/24
    「イスカリオテのユダ」さんをめぐる奇妙なお話。
    いわゆるキリストを裏切ったということで有名な方です。
    「イスカリオテ」というのは多分出身地か何かでしょう。
    端的に、裏切りの必要性などは全く不明であるそうです。
    権力者側はイエスの個人の特定や居場所の把握を完全にしていたから、ユダの行為に意味が全く見出せないというところ。
    (上記一行は田川健三氏の「書物としての新約聖書」の指摘から)
    各人の離反の心理作用を演出する舞台装置として導入されたのがこの逸話だと私は把握しております。
    その真実性を問うことに意味は無いでしょう。
    以上が概要ですが、面白いのはそれをめぐる聖書の記述です。
    4つの福音書ごとに、微妙にニュアンスが変化しているのが興味をそそります。
    事前知識として。
    イエスという人物の言行を記す書物が新約聖書内には、以下の4つありますにょ。
    「マタイによる福音書」・「マルコによる福音書」・「ルカによる福音書」・「ヨハネによる福音書」
    それぞれイエスの直弟子が書いたという名目で流布したもの。
    実際の著者の価値観や所属教団の見解が盛り込まれており、この相違が今回の眼目。
    以下にイスカリオテのユダをめぐる箇所の引用を。
    同じく引用元は日本聖書協会のサイトです。
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  • マタイ福音書
    そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、
    「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。
    そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
    (26章14節)
    そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し
    、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
    「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
    しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
    そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
    (27章3節)
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  • マルコ福音書
    十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。
    彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。
    そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
    (14章10節)
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  • ルカ福音書
    しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。
    ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。
    彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。
    ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
    (22章1節)
    「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。
    この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。
    ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。
    ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、
    その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。
    (使徒行録1章16節・・・この書はルカ福音書と同じ著者)
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  • ヨハネ福音書
    弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
    「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
    彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。
    彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
    (12章5節)
    夕食のときであった。
    既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
    (13章2節)
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    以上引用箇所でした。
    上記書籍注では、「マルコによる福音書」が歴史的に最も古く、もっとも事実に忠実な姿を伝えていると考えられています。
    それを加筆改竄したものが「マタイ」「ルカ」の二つ。
    「マルコ」には単にユダが裏切りの約束を交わした記述があるのみで、その後は記述がありません。
    これが「マタイ」になるとイエスの具体的な売却価格が加わり、その後に首をつったことにされています。
    引用の先の箇所にはユダの裏切りと死は旧約聖書のこの予言の成就なのだという解説が続きます。
  • 「旧約」の記述に適合するようにユダが死んだことにされた
  • 悪者は氏ねという頭の悪い勧善懲悪思想
  • 実際ユダは首をつって死んだ
    こういった可能性が考えられます。
    これが「ルカ」(使途行録)になると、ユダさんは凄まじい死に方をしたことにされています。
    一応予言の成就なのだという記述が続きます。
    ただ予言の条件に沿うには血が流れればよいだけで、はらわたを出す必要が見出せません。
    この箇所を読んで「やったー、悪者が氏んだ!」といって喜んだ人もいたことは想像に難くない。
    結局こういうことを書くと、知性の低さが露見されるだけですな。
    一番面白いと思ったのが、「ヨハネ」です。
    ここにいたっては、ユダさんは単なるコソ泥扱い。
    (死んだ記述はありません)
    イエスが説いたのは宗教的な救済でしたが、弟子たちはイエスを政治的解放者を求めていました。
    (ローマからの独立)
    弟子の中で一番頭のよかったユダさんはその相違を理解していたので去っていった。
    他の弟子は頭が悪かったので、イエスが死ぬまでイエスを軍事的政治的指導者と理解していたそうです。
    (以上は遠藤周作さんの仰っていること)
    「ルカ」「ヨハネ」にはサタン・悪魔という要素が入ってます。
    人の内心の背反分離傾向を人格化したものが「サタン」の元来の意味であるそうです。
    ですので、この様に実際に「サタン」の行為というものを持ち出すと、その神話的意味が忘れられあたかもサタンという実体が存在するかの誤解をもたらすことになります。
    ただ、「ヨハネ」の場合はなかなか一筋縄でいかないそうで。
    この書物は実に奇妙な本で、小アジアの二元論(善悪の対立というゾロアスター的把握)を掲げるキリスト教徒に多大な支持を受けていたらしい。
    つまるところ、「実際に悪魔がキリストを殺そうとしたのだ」とも取れるわけです。
    この「ヨハネ」に対する反対もかなり強かったとか。
    教会勢力統一のためには、「ヨハネ福音書」を正典と認めざるを得なかったというのが歴史的事実の模様。
    今日的に言えば、自民党が選挙のために公明党を手放したくないのと全く同じ事象でしょう。
    いずれにせよ、非常に興味深い。

    2/23
    改めて読み進めると、「聖書」というのは実に奇妙奇天烈で不可思議な書物だという印象を受けます。
    以下少々、「はぁ?」というか、笑えるという箇所を少々。
    出展は新約聖書「使徒行録」の5章。
    (使徒行録とは、弟子たちの宣教の様を記した文書ですにょ。)
    些か長いですが、是非最後まで読み通しください。
    顔がにやけてきます。
    事前説明として、発足当時の信者の集まりは原始共産制を取っていたそうです。
    (その真偽は不明)
    それぞれが私財を全て売却して金を持ち寄り、集団の共同管理下においていたらしい。
    「ペトロ」氏はイエスの一番弟子で初代ローマ教皇ということになっている方です。
    アナニア・サフィラというのは信者になろうとしている一般人。
    以下は日本聖書協会のサイトから転載。
    ------------------------------
    ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、
    妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
    すると、ペトロは言った。
    「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。
    売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。
    どうして、こんなことをする気になったのか。
    あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
    この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。
    そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。
    若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。
    それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。
    ペトロは彼女に話しかけた。
    「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」
    彼女は、「はい、その値段です」と言った。
    ペトロは言った。
    「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。
    あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」
    すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。
    青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。
    教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。
    ------------------------------
    これあの、どうみてもお布施を強要する今日の悪徳新興宗教なんですが。
    アナニア氏が死ぬ件はまあ、ショックとして理解可能ではあります。
    ところが妻のサフィラの場合、客観的に見る限りではペトロ氏が脅迫して殺している。
    「もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」
    というくだりは最高ですな。
    「青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。」
    この部分はマインドコントロールされたオウムの信者みたいです。
    まあ勿論、これは実話ではないでしょう。
    そこらに流布している「ありがたいお話」を収集編集して「使徒行録」に採用しただけ。
    これほどむちゃくちゃな人物にされてしまったペトロ氏はお気の毒様です。
    この「聖書」というのは読んでいくとこのレベルの話が結構多い。
    「死人を生き返らせた」「病人を癒した」「わけの分からないことを話した」
    こういうすごいことを行なったから、人々が「イエスキリスト」を信じるようになったというロジックが極めて多い。
    言説そのものの価値によってではなく、奇跡を起したから信じたという展開です。
    上記の「アナニアとサフィラ」の逸話にせよ、使徒行録に採用されたのは教会の威光付けという明確な目的あってでしょう。
    「逆らうと死ぬ!」といった頭の悪い心情の表れか。
    聖書とはいえ、所詮人間が編集したものである以上欠点はいくらでも出てくるものです。
    むしろ著者編集者含めた人間の欠点を修正せずにそのまま残している点にこそ、高い価値があるんでしょうな。
    次はあの有名な「イスカリオテのユダ」さんの予定です。

    2/22
    「選挙の結果がいかなるものであれ、我々はそれを受け入れなければならない」
    大統領さんがいってました。
    改革派の立候補が全て事前に認められず、投票前から保守派が過半数を獲得することが決まっているらしい。
    護憲評議会が無い分だけ日本はましですな。
    それにしても、ハタミさんというのも何を考えていらっしゃるのかよく分からないにょ。
    基本的にああいう良識的な方は支持する必要があると思うところ。
    ですのでアメリカのように「テロ支援国」扱いするのはいかがなものかと思います。
    だからといって、USAがハタミさんを友人扱いすれば、彼は国内で大悪魔の手先として非難されるのだろうし。
    表面上は罵りつつ、実質は可能な限りの支援を行なうというのが一番賢明なのかもしれません。
    政治って難しいですね。
    最近車をよく見に行ってます。
    動きゃいいや程度にしか思ってないので、車がたくさんありすぎてよく分かりません。
    興味も無いので、メーカー・車種共に識別が不可能。
    えっと、同じ名前なのにボディの形・エンジン・内装が異なるというのはどういうわけなのでしょう。
    どうして「デミオ」同士なのにこれほど違うのか。
    仕様がそこまで異なればそこに何らかの共通性があるか?
    既に別の車なのではないかと疑問はつきません。
    きっと、「デミオ」のイデアが存在して、その別々な現れ方が現状の車種の相違なのでしょう。
    我の理想としては、車庫入れの楽な車がベストです。
    前後ろが出っ張らない、マンボウみたいなかたちがいいですにょ。
    車の塗装は、どうしてメタリックな焼付け塗装のものばかりなのでしょうか。
    傷つけたときに自分で色が塗れないとは最悪。
    戦車みたいにペンキそのまま塗ったのがないのかな?
    個人的には、こんな車が欲しいです。
    えさは大福かチョコレート。
    クラクションを鳴らすと、「にょー」といいます。
    「ちゃん ちゃん ちゃらららんらん」というBGMと共にてけてけ走ります。

    2/20
    「経典を用いて報道をバラエティー化し、笑い話のようにし、必要な理論や路線をないがしろにしてる」
    新聞の見出しのパロディーです。
    テレビ朝日の事件。
    「ニュースステーション」では民主党のシャドーキャビネットを30分間報道。
    「TVタックル」では対北食糧支援の自民党議員の野次を拉致問題質疑に挿入したそうです。
    それでテレビ朝日が非を認めて、役員を処分したらしひ。
    新聞によると、ニューステーションは以下だそうです。
    「同局でワイドショー的な報道が行われるようになったのは、1985年10月、「ニュースステーション」が始まってから。政治や経済を分かりやすく解説するため、制作に外部の制作会社を活用。ワイドショーやバラエティーの手法を取り入れ、キャスターの軽妙な語り口で人気を集めた。」
    関係ないですが、あの番組の仕組みがわかってちょっと納得。
    私が思ったのは、これは自民党が抗議するほどの問題なのかなということ。
    そもそも、「Nステーション」に信頼を置いている人が存在するのだろうかという点が気になります。
    あの番組はいつ見ても、基礎知識、大局視野、報道の慎重さ、品性といった要素の欠落ばかりが見えてきます。
    視聴者は決して馬鹿ではない。
    冷静にあのニュースを見れば、誰でもそれが信頼を置くに値しないと感じるはずです。
    「Nステーション」で偏向報道をしたからといって、それに視聴者が影響を受けるというのはあまりに視聴者を馬鹿にしているように思えてなりません。
    以上は一定以上の年齢もしくは良識を備えた人の場合のはなし。
    まだ成長過程にある場合、Nステーションの「独善的口調」(ここの引用)に影響を受けることはあるでしょう。
    しかしこれって、人間の成長において必要なことだと思います。
    人は誰しも、左翼時代、もしくは共産党時代というものを経ているべきです。
    (もちろんその時代には、いわゆる左翼や共産主義の意味はわかっている必要が無い)
    いわゆる左翼は、それが普遍志向性に基いているからです。
    (現実味を欠いた、純然たる反権力であっても)
    その上で、いわゆる「左」の欠点を明確に認識し、かつその基本動機を保持し続けることで、良識ある有権者に人は成長できるのだと私は思いますが。
    そいう意味で、「Nステーション」は青少年の啓蒙の役割を果たしていると思います。
    あの番組は、当然にそんなことは意図して無いでしょうが。
    やはりこの観点でも、本件では視聴者を馬鹿にしているのではないかと感じられるところ。
    たかが偏向報道如きに、個人が一生の影響を受けるとでも思っているのでしょうか。
    人は成長によって考えを変えることができる存在です。
    自由民主党にしたところで、原理主義的な支持よりも、明確な価値判断に基き自民の欠点を認識した上での支持を得られるほうがよいでしょ。
    (もっとも現状の学会票を考えると、理想論も怪しくなってくる。)
    一報道番組にそこまで過敏に反応しなくても、と感じるところです。
    記者会見あたりでさらっとテレ朝に釘をさしておく程度が、大人のやり方。
    他の局でも同一時間帯にニュースはやってる訳で、視聴者はニュースステーションを見ない自由があります。
    もっとも、上の「TVタックル」のはあまりに悪質が過ぎるので、抗議もやむなしといったところでしょうか。
    (TVタックルって、あからさまなお笑い番組と視聴者は全員認識しているとおもいますが・・・・「タマ出版」者著さん元気かな?)
    最後に。
    一見事実歪曲のようなものが、実は新たな視点を提供してくれるという事実は無視できません。
    「ニュースステーション」の独善的口調が、実はより適切な評価である場合は決して少なくないはず。
    事実を適正に評価した上で「独善的口調」と同等の結論に到るべきなのですが、その過程が完全に欠落しているのがあの番組というところか。
    「TVタックル」の野次の編集は悪質ですが、そもそも国会議員が無意味な野次を飛ばすという事象自体は考慮に値する問題です。

    2/19
    以前の訂正です。
    1/14の日記スコプチに触れた件。
    (両リンク先を前提として以下書きます)
    「独身者」を「不能者」と解さないと意味が通じないとスコプチは主張しているそうで、それが如何にばかばかしいかという話でした。
    しかし、真相は異なっていたようです。
    上記該当部分は結婚倫理の厳しさに弟子が「ならば結婚しないほうがましです」と答えたことに対し、イエスが述べた言葉。
    「生まれつき結婚できないものが在り、
    また人から結婚できないようにされたものがあるが、
    天の国のために進んで結婚しないものもある。
    これを受け入れることができるものは受け入れなさい。」
    という「マタイ福音書19−11、12」の部分です。
    この「結婚できないもの」は注によると、ギリシア語を直訳すると「宦官」であるそうです。
    確かに「人から結婚できないようにされる」というのは、去勢されると解するのが非常にとおりがよい。
    となると、スコプチのこの部分の解釈自体は正しいようです。
    ただこの部分は、極端な禁欲を否定していない、という以上でも以下でも無いと読むのが素直と思われます。
    何でも、属州エジプトの長官にアレキサンドリアの司教が去勢を願い出たが許可されなかった、というローマの公文書がパピルスで残存しているそうで。
    この時代には、去勢手術をするほどの禁欲というのも、そこまで珍しいことではなかったらしいです。
    だから上のイエスの言葉は、それを否定していないだけらしい。
    (もっとも、上記部分引用元の「マタイ」氏の属する教団が、勝手に生み出した教説をイエスの言葉として権威付けしているだけの可能性が高いようですが)
    閑話休題。
    最近は「イエスキリスト」(講談社学術文庫、荒井献著)を読んでました。
    が、原典の知識が無いと読むのが苦しくなってきたので、中断して新約聖書の福音書を読んでる所です。
    無駄な知識が増えたおかげで、それぞれの著者の偏見・加筆修正・背後の教団組織といったものを示唆するところばかりが見えてくる・・・・・
    上記の引用は「フランシスコ会聖書研究所」のもので、この本はそこそこ(本文の1/4程度)注がついているのがありがたいです。
    (一番たくさん売られている「聖書協会」のものは注釈が一切無い)
    しかも、いわゆる信心深い読みに反することが結構素直に書いてあるなかなか学術的なもの。
    大使徒パウロさんは彼の生存中に世の終わりが来ると信じていた、という趣旨の注があります。
    当然にそんなことはなかったわけで、パウロ氏はその点間違ってたわけですが、注でそれを一切弁解して無い。
    これが犬養道子さんだと、きっと無理な理屈をつけて正当化しようとしちゃうんですよ。
    やはり、書いてあることは素直に受け止めてそのまま評価しないとね。
    フランシスコ会はカトリックなので、カトリック擁護的な注も多いですが、容易にそれも判別できますし。
    というよりも、カトリックの教義を擁護している箇所は極端に記述のレベルが下がって理屈が通じなくなっているので一見して分かります。
    自分の非を認める本を自ら発行しているというのは、やはりカトリック教会というものの素晴らしい部分なんでしょうか。
    いい本ですにょ。
    本当に、面白いんですが。

    2/18
    インフォシークでふと見つけた「萌え単」の書評
    絶妙に面白かったですが、最も感銘を受けたのは「萌える」という単語の定義。
    「美少女キャラなどに心をときめかせ、発情してしまっている様子」
    確かに客観的に見るなら、あれは「発情」と評価するのが最も適切です。
    内部的には異論反論ありましょうが、概してその分野にかかわりを持たない人が最も事実を素直に見つめることができるというものです。
    昔「エヴァンゲリオン」がテレ東で本放送をやってたころ。
    友人が主人公の碇シンジを「自閉症」と評したことに、無意味に反感を覚えた記憶があります。
    彼はエヴァを馬鹿にしており、当時の私はそれに狂ってました。
    今の視点で冷静に振り返るなら、やはりあの碇シンジは自閉症であり、相当程度に異常に偏倚した存在です。
    物事に(ある意味)詳しくなればなるほど、対象をそのままに受け止めることができない。
    実に真理です。
    閑話休題。
    女神転生に「ペトラ」(もしくはペトラディ)という呪文が在りますよね。
    その意味が通じました。
    初代ローマ教皇とされる人物はシモンという名ですが、彼は通常ペトロと呼ばれます。
    それはイエスが彼に、「岩であるお前の上に、教会を立てよう」と述べたから。
    そして「岩」はギリシア語で「ペトロ」です。
    (上のイエスの言葉は、ローマ教会の権威付けの目的で意図的に挿入されたもの)
    それで、女神転生の「ペトラ」と上の人物「ペトロ」はギリシア語の語幹を同じくしており、その意味は「石」であるらしい。
    だから「ペトラディ」は石化治癒呪文だったのかと、納得した次第。
    じゃあ、ウィズにも共通する「ディア」(DIOS)もきっとギリシア語なのかな?

    2/17
    「予言」という行為があります。
    有名どころでは、ノストラダムスの大予言。
    幼いころの私は学研「いるいないの秘密」でノストラダムスの滅びの予言を読んで、怖くて泣きました。
    当然、純真だった私は「本に書いてあることは全て真実に違いない」と信じていたわけです。
    ちょっとばかり知恵がついてくると、「予言」なるものに対する理解が変わってくるようになります。
    その契機として、もっともお手軽なもの。
    それはすなわち、「新約聖書」を読んでみることです。
    (内容を理解する必要もなければ、事前の知識も必要ない)
    イエスは様々な行動を起こします。
    福音記者はそのまとめとして、「こうして・・・・・・の予言は成就した。」と意味を与えてくれます。
    (・・・・・の部分には旧約聖書の預言者の名前が入る)
    すなわち、予言とは、それを成就させようと後世の人間が予言内容に従った行動をとるものだ、ということです。
    かつてのオウム真理教の地下鉄サリン事件の際に、多くの報道が書き立てました。
    オウムは世紀末を予言し、それを自ら実現しようとした自作自演なのであると。
    この指摘は、些か執筆者に予言というものの理解が欠けているのではないかとの疑念を招かざるを得ません。
    ただどうも、そうも一筋縄ではいかないらしいことが最近分かってきました。
    上で挙げた「新約聖書」を読めば予言という行為の意味が分かるというのは事実です。
    ただそれは、新約聖書でもその中の一番最初の「マタイ福音書」に端的に当てはまるだけに過ぎないようです。
    イエスという人物はユダヤ教の流れの中に活躍しました。
    彼自身は何も書き残していないので、今日のキリスト教とは彼の言葉と行為をその弟子たちがまとめたものです。
    その際に弟子たちは、イエスという人物をそのまま理解するのではなく、旧約聖書を通して理解しました。
    当時の彼らにとっての「本」とは(旧約)聖書しかなかったので、その権威性たるや我々からは想像もつかないほどでしょう・・・・・・・
    (当時「本」といえばそれは聖書を指していた)
    学校で習うテキストも、当然に旧約聖書とその解説だけだし。
    ともかく、「ああ、お師匠さんのこの言葉は聖書のこの部分を意味していたのか!」といった感じです。
    そしてイエスの全ての行いは(イエス本人の意思とは無関係に)旧約聖書に当てはめられていくようになりました。
    仕舞には、旧約聖書の預言にあわせてイエスの行為が修正創設されてゆく始末。
    ともかく、この場合において「予言」(旧約聖書)は単に権威付けに用いられているにすぎません。
    当時のキリスト教徒は、こんな感じで布教活動を実践していた模様です。
    「ほら、イエスキリストという人物は旧約聖書に予言されているほどえらい人物なんですよ、だから信じなさい。」
    (地中海世界全体に、旧約聖書はその歴史の古さで知れ渡って大変な権威であったらしい)
    いや、頭悪いというか、今も昔も変わらずというべきか。
    正論としては、その言行が優れているから偉人なのであって、外部から権威付けされて偉人になるわけではない。
    結局のところ、「予言」とは都合がいいように利用されるに過ぎないということでしょうか。
    となると、上の「オウム真理教」をめぐる報道も真実をついていたことになる。
    もっとも、一段の中間理解がかけているのは間違いないでしょうが。
    先に新約聖書の「一番最初の」マタイを読めば予言の意味が分かると書いたのは、些かの意図があります。
    「二番目」のマルコによる福音書では、(旧約聖書の)予言によるイエスの権威付けは一切為されていません。
    古代世界において既に、「オウム」のごとき予言の利用法をよからずとする理性的な方は多数存在したということですね。
    「予言」を都合よく利用できるのは、おそらくその呪術的な性格にあるのでしょう。
    すなわち、予言によって思考を規定されてしまう人間が存在することです。
    オウムでサリンを撒いた信徒しかり、予言を通してしかイエスを理解しようとしなかった人しかり。
    知識と理解による精神の独立こそが、予言への最大の対抗策か。

    2/16
    車庫いれって難しいですね。
    車庫の前で10分くらいうろうろしてました。
    実話です。
    当方ゴールド免許所持です。
    ガルダも気が抜けがちなので、ここは一つ新しいジャンルに手をつけることに。
    目標、ACで大型筐体のOUTRUN2を一番上のルートでクリアすること。
    でも凝り性なので、気がつけば全ルートクリアに変わってるかも。
    閑話休題。
    どういう経緯でか、先ごろhttp://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Palette/1058/sispri/sispri_repure1.htmを読んでました。
    素直に感動を覚えます。
    「ああ、シスプリってこういう見方もなりたつのか。」
    衝撃を覚えたものです。
    想像力って大切ですね。
    私のようにPC88で遊んでました、という人はおそらくかなりファンタジーRPGジャンキーです。
    モンスター・呪文・アイテム、それらの伝統的形態なら数十種類は軽くいえるでしょう。
    ドラゴン一つとっても、レッド・ブルー・ホワイト・グリーン・ブラック・カッパー・シルバー・ゴールド・ティアマットなどなど。
    姿とブレスの種類に善悪知能なんてものは余裕で判別できます。
    やっぱゲームは想像力だよねと、昔は信じてました。
    (知識量は相当程度に想像の豊かさに影響ありますので・・・)
    でも、上の方のシスプリの想像の豊かさに比べれば、微小なものですな。
    M字開脚とか、赤飯はもうすんでるとか、兄様につっこまれたいとか。
    私同じものを見ていながら、何一つ頭に浮かんでませんでした。
    亞里亞はデムパでいいなーとか、この程度のものです我は。
    「眼は開かれていても、その実何も見ていない。」
    私も想像力豊かな人間になりたいものです。
    それにしても、シスプリはエロアニメでもあったのか。
    私の目にはナンセンスの価値しか捉えられなかったし・・・・
    対象の理解の仕方は、人によって大きくぶれるものですね。
    そろそろプライズで犬福が出てるそうなんですが、こっちには入るのでしょうか。
    ああいうのはやったことが無いので、一個1000円ぐらいで売ってくれるといいんですが。

    2/15
    今回、別の文書の転載です。
    先に読んでた書物としての新約聖書のまとめの一部です。
    非常に興味深く、これは万人が認識を共有するべきではないかと感じた箇所。
    いわゆる「さまよえるユダヤ人」、「流浪の民」、「国持たぬ民」という俗説が如何に真相を反映しない認識であるか。
    その歴史的誤謬を指摘したくだりです。
    --------------------------------------

  • ディアスポラ、(237)
    70年のユダヤ戦争(対ローマ独立戦争でユダヤが敗北している)によってディアスポラが発生したわけではない。
    ディアスポラはヘレニズム時代の初めから存在している。
    ディアスポラが増えようと、パレスティナからユダヤ人がいなくなったわけではない。
    パレスティナのユダヤ人はパレスティナに住み続け、ディアスポラのユダヤ人人口が増えたのである。
    実際ディアスポラのユダヤ人人口は本土からの直接移民では考えられないほど巨大だったのである。
    ディアスポラの巨大なユダヤ人人口は、ヘレニズム諸都市におけるユダヤ教への改宗者によって説明されるものである。
    祖先はユダヤ人ではないが、ユダヤ教に改宗し、ユダヤ人ディアスポラでユダヤ人として生活するようになったのだ。
    紀元前後の数世紀には、ユダヤ教の熱心かつ成功を収めたプロパガンダ活動により、ユダヤ教への多くの改宗者が発生していたのである。
    なお、改宗者によるディアスポラの人口増加をイスラエルの国家主義者は強度に嫌がる。
    それは20世紀になってからの「自分たちの祖国に帰る」というイデオロギーが嘘であることが判明するからだ。
    そもそも戦争に負けたからといって敗戦民族がその国土に住めなくなるということはありえない。
    (世界各地の日本企業の出先機関を、太平洋戦争に敗れた大和民族のディアスポラと考える人などいない。)
    支配者がせっかくの支配地域から住民に逃げられては侵略の意味そのものが失われるからである。
    住民(農民)の搾取こそが支配の目的だからだ。
    「国を失った流浪のユダヤ人」という発想は、古代帝国の侵略支配について全く常識を欠いているといってよい。
    そして今日のイスラエルのユダヤ人の殆どは、ディアスポラのユダヤ人の子孫である。
    パレスティナに住むユダヤ人はそのまま今に到るまですみ続けた。
    ただ、アラブの侵略によってイスラム化し、アラブパレスティナ人として今日呼ばれているだけである。
    南アフリカのオランダ人やイギリス人の子孫の白人が、強大な軍事力を持ってイギリスやオランダに帰り、現地人を殺し追い出し、祖先の土地を返せと主張すること。
    この仮定は誰が見ても著しく不条理であろう。
    実はイスラエルという国家は、この仮定と全く同程度に虚構なのである。
    --------------------------------
    蛇足ですが、俗説ではユダヤ人はローマ帝国との敗戦の結果「国土居住禁止令」によって祖国を失い、流浪の民となったということにされてます。
    その結果各地にディアスポラができたと。
    (食物の宗教的禁忌などを実践するには、一定規模以上の人口による密集生活がどうしても必要となる)
    (そのユダヤ人の集合体を「ディアスポラ」といいます)
    当然私も犬福程度の知能しかないのでこれを信じてました。
    冷静に考えると、上記命令は著しく合理性を欠いてますね。
    帝国内から追放するか皆殺しにするならともかく、厄介な連中を自国内の大都市に(結果として)追いやるなど狂気の沙汰です。
    もちろん、一民族(民族という定義自体が政治的ですが)の皆殺しなど、あのナチスの科学力を持ってすらできなかったことが古代ローマにできるはずがない。
    一国内から追放するなどというのも、物理的に不可能ですね。
    そもそも追放すべき対象の確定ができるなどというのは、現代行政国家の戸籍制度を古代に投影した幻想に過ぎないし。
    驚かされるのは、ユダヤ教が布教活動を行なっていたということでしょうか。
    今現代のユダヤ教よりはよほど普遍的性格を有していたようですね。
    あのころの宗教状況は、実によく分からんものがありますね。
    「ミトラ教」がキリスト教と対等の巨大勢力だったとか、都市部では「デュオニソス祭儀」が隆盛を誇ったとか。
    また、ユダヤ人は旧約聖書ゆえに自民族の同一性を保ちえた、という命題も幻想であったようですね。
    正確には、アイデンティティーにしがみついた一部が独自の正典を掲げていたということに過ぎないようで。
    一応、こう書いたからといって私がユダヤ人を憎んでるとかそういうわけではないです。
    ナチの歴史もあれば、現代の殺戮不法占拠国家でもある。
    その事実を正確に認識することが重要であると考えるだけ。

    2/13
    言語学上の固有名詞に、セム族・ハム族というのが在ります。
    前者はアラブ人とかユダヤ人とか、後者はエジプト人とベルベル人でしたっけ?
    このセム・ハムというのは、あの旧約聖書の「箱舟」のノアの息子の名前からとられています。
    人類史上初めてぶどう酒を作ったといわれているのは、箱舟のノアさんです。
    そこでそのノアさんがぶどう酒を飲んで酔っ払って天幕の中で素っ裸で寝てました。
    それを見たハム君は、「とおちゃんいい体しとんのぉ。」とい思ってレイープしてしまいました。
    という逸話が旧約聖書に書いてあります。
    (旧約的表現では、性行為のことを「裸形をあらわにする」と婉曲表現)
    こういう恥ずかしい人(差別的表現ですな)を、特定語族の名称として採用するのは些か思慮に欠けると思わざるを得ないところ。
    以上の話は阿刀田高氏の「旧約聖書を知っていますか」などにも書いてあるので、相当広く知られた事情でしょう。
    今回の眼目はその続きにあります。
    なんとセムハムと命名した人は、今日の印欧語族を「ヤペテ族」と命名していたそうで。
    ヤペテ君は、ノアさんの三男です。
    なぜにセムハムだけが残って、ヤペテ語族は名称として廃れてしまったのでしょう。
    もしもオナン族なんかがいたら愉快だなと思うところ。
    オナン君はヘブライ12族の中のユダ族の祖のユダの次男。
    当時の法規では、長男が子なくして死んだ場合には、弟が兄の嫁と交わり長男の家系を存続させるという規定がありました。
    ユダ君はお兄さんが氏んだのでその奥さんとお勤めでした。
    でも生まれた子どもが自分の子にならないことを知っていたので、「種を床に流し、亡兄の名の継がれることの可能性を未然に防いだ」のです。
    今となっては不可解な行動ですが、古代人の思考様式を反映した神話なので理屈が通らなくて当然。
    こうしてオナン君は、見事「オナニー」に自らの名を残したのでした。
    人類史上もっとも有名な男です。
    これも超有名な話ですね。
    この後偉大なるオナン君は、神の怒りに触れて殺されてしまいます。
    オナンは死して、オナニーを残す。
    まさに人は死して名を残すですね。
    (神話的にはオナニーは膣外射精という意味になる)
    ともかく、日本人がオナン族でなくてよかった。

    2/12
    近所に「コミックレンタル」なる商売ができました。
    レンタルビデオ店がマンガ貸してるわけで、漫画喫茶の持ち帰りバージョンです。
    限りなく法のグレーゾーンと思われる存在。
    賃料は一冊20円と爆安です。
    初めて借りてみたのが、荻野真氏の「拳銃神」なる漫画(存在を始めて知った)。
    同氏のマンガは孔雀王が好きでした。
    彼の特徴は、へたくそな絵に消化されない伏線と、全く劣情のかけらもないハダカの頻出。
    こういうとひたすらだめなだけに聞こえますが、孔雀王は限りなく頭が悪く壮大なストーリーが好きだったのです。
    この拳銃神、荻野真氏はマカロニウエスタンが好きで、西部劇をやりたかったそうです。
    なかなかニューナンブの事や陸軍技官の南部氏のこと、ピースメーカーや銃弾の種類などがちょっと理解できました。
    えっと、作品はなるべくよいところを探して好意的に評価することにしてます。
    ストーリーは言わずもがな。
    ああ本当にこの人、昔から絵が変わらない。
    実は本当に借りたかったのは「一騎当千」なのですが、存在のかけらすらなし。
    マイナーなマンガは扱ってくれないのかな。
    ミスタードーナッツで面白いものを発見しました。
    各商品のカロリー表で、主要商品を少々転載(数字はキロカロリー)。

  • フレンチクルーラー、191
  • ショコラフレンチ、162
  • ココナッツ、274
  • バタークランチ、268
  • オールドファッション、273
  • ココナッツチョコレート、256
  • ゴールデンチョコレート、249
  • ポンデリング、220
  • ポンデ黒糖、203
  • ハニーチェロ、228
    以上。
    やっぱ油で揚げてあるとカロリー高いですね。
    我「ココナッツ」が結構好きですが、普段はショコラフレンチか。
    最近は「ポンデリング」「ポンデ醤油」がうまいです。
    それと今まで浴びるほどのんでますが、あそこのコーヒーは決してうまくない。
    番茶出してくれたほうがいいなあ。

    2/11
    数日前の夕刊に、グノーシス思想の専門家の大貫氏のインタビューが掲載されていました。
    その中の一説に、「マトリックス」に触れた箇所があります。
    「グノーシス」は犬福レベルに簡略化して説明するとこの様な思想です。
    「グノーシス」とは智・認識という意味であり、神の正確な認識をうる事によって自己の救済を獲得するというもの。
    大貫氏はこれを自力による救済と位置づけ、キリスト教思想の「許し」と対比的に論じておられました。
    そして氏は「マトリックス」をグノーシス的、即ち自力救済と位置づけていらっしゃいます。
    (その後に、許しという思想の重要性に話は進みましたがここでは割愛)
    なかなか興味深いなと、読んでいて感じたところ。
    私がマトリックスを劇場見たときの感想は、大笑いしたというのを除けば次のようなものでした。
    「あ、仏陀だ。」
    ネオはマトリックス世界の意味の正確な認識で力を得たわけなので、仏教的意味の「悟り」を開いたのだと感じた次第です。
    その仏陀が、「キリスト」と呼ばれるあたりがマトリックスの面白さでありばかばかしさでもあったと感じたのですが。
    大貫氏の指摘で初めて気がついたことです。
    仏教の在り方(勿論私は殆ど何も仏教は知りません、それに親鸞法然の思想は多分違う)と、グノーシス思想は共通性が高いんですね。
    人類思想の2大傾向はやはりこの、自力救済と他力をめぐるものなのでしょうか。
    関係ないですが、マトリックスの3作目は結局見に行かなかったです。
    もう関心がなくなってしまったというところ。
    ストーリー上の多数のギミックの存在は認識していますが、その形式はもはやエヴァンゲリオンのときに飽きました。
    一見難解なストーリーがあるように見えるが、実際は些細で表層的な理解が全てであり何らの思想を含まない。
    この事実を認識した上で、虚無であることを承知しつつストーリーを考えるという作業はもう私は無理です。
    そういえば、あれほど楽しみにしていた「真女神転生3」も序盤で放置しています。
    何でも終盤になると「黙示録」の騎士に天使が現れ、最後の敵は聖なる四文字であるとか。
    昔なら楽しめたでしょうが、今となってはむなしさを感じるようにさめてしまいました。
    「ヨハネによる黙示録」で非難されている「異なった福音」は、正統派のパウロ信仰である可能性が高いそうです。
    小アジアの黙示録派の流れと、正統派復活信仰の間で相互非難を繰り返しているということらしい。
    こちらの学問的認識のほうが、遥かに面白いです。

    2/10
    ガルダ45903150、ライフ4/6。
    以前にブラウザの「お気に入り」の整理してました。
    無意味に膨張を続けるので、定期的に整理削除しないといけないというのは皆様同じでしょうか。
    削除しようにも登録名称だけでは何か分からない場合が多く、結局一つ一つ順に見てゆくこととなります。
    で、隅田川連続殺人事件なるものを開いたとき。
    (どうも今現在は何らかの事情でサイトが閲覧できないようです)
    そういえば、「希望と光」(内容は後述)の置いてあるサイトだったなということを思い出します。
    何とも言いがたいサイト。
    一言で表現すれば、「権威」主義的とでも言うのでしょうか。
    「隅田川連続殺人事件」「希望と光」というオリジナルの作品を二つ置いてあるサイトなのですが。
    その形容がまた。
    「・・・・・ダウンロード数月間一位」
    「・・・・・何とか掲載」
    「・・・・・何万人に感動を与えた。」
    これは冗談ではなく、この様な形容が何十行もひたすらに並んでいます。
    その中に「推奨フリーソフト」というのがあったのでどんなものが推奨されてるのか少々興味を惹かれました。
    でリンク先をたどるとなんと、当サイトのLinksに行き当たってビクーリ。
    勝手に私が「希望と光」を紹介してたので、それを紹介頂けた事自体はうれしいし、不快に思う理由もないです。
    ただ、こういう形でのある種「権威」付けに利用されるとは思いもしなかったというだけのこと。
    現実的な問題として、こういう手法が有効性を持つのだろうかという疑問がわきあがります。
    端的な事例としては、ちょっと前の映画の宣伝などによく見られたやり方です。
    「パールハーバー」の宣伝に、若い女性を劇場で捕まえて「アルマゲドンより感動しました」と言わせてるアレ。
    (本の広告で、いささかアレな読者の感想を集めてのせるのも同じ)
    価値の低い見解賞賛を星の数ほど集めても、それは全く宣伝の対象に権威を与えないという一般論が問題なのです。
    やはり一般人としては、「ベストセラー」などといわれると、出版の現状から考えてこう思ってしまうでしょう。
    「うさんくせえ」
    市場で支持を受けるものは優れた価値を持つことの証明であることは理解してます。
    でもこの生理的な反応ばかりはどうなるものでは在りません。
    そもそも、権威なるものは、その対象事態がそれ自体の信憑性や価値ゆえにおのずと帯びるものです。
    それがないところに権威を与えても、早晩化けの皮がはがれるだけ。
    宣伝対象に権威を与えたいならば、その対象事態の意味を冷静学問的な言葉で論ずればよいのです。
    権威というものは、相手に受け入れられなければ実体すらない存在なのだから。
    ということで、こういう宣伝方法が商業的にも有効性を持つのか疑問を感じるところでした。
    この手法はその受け手によっては、嘲笑と嫌悪感を招く場合と、購買意欲を掻き立てられる場合に大きく分かれてしまうでしょう。
    商品の対象客層において、需要喚起効果が否定効果を上回ればいよいという冷静な計算に基いてのものなのでしょうか。
    商売としてはまっとうですが、退廃的で精神衛生上好ましくないやり方だと感じざるを得ないところ。
    話題を、「希望と光」に戻します。
    これは全くゲームではないですが、非常に先鋭な主張を含んだ作品でした。
    ここでダウンロードできますので・・・)
    非常な衝撃を受けたですよ。
    で、これほどの物を作る人物と、上記宣伝手法という俗物ぶりが混在するところが非常に興味深い。
    「Sound of silenc」の「預言者の言葉は地下鉄のラクガキに書かれている」という詩。
    それは本件のような現象を示しているのだろうという気がしてきます。
    一応誤解がないように追加します。
    私は最後の部分で、汚濁の中に価値が宿るという価値の逆転によって、上記作品を製作された方に敬意を払っているのです。

    2/9
    昨日2時間あまり除雪作業。
    翌朝既に筋肉痛が生じていることを確認してまだ若いと思っていること自体が精神の老化の兆しかも。
    軒下の雪を除去する作業です。(屋根から新たに落下する雪もある)
    雪の重みで家屋の破損の可能性を軽減することが目的。
    渡り廊下そばの雪を苦労して全て掻き出し終えて廊下端に到達した瞬間。
    新たに雪が落下して振り出しに戻る。
    ふう。
    私しばしば、フリーソフトで面白いゲーム まとめページなるものを見てます。
    なんだか興味を引くものがあがってないかなーと思いまして。
    本日久しぶりに見てみると、以下の告知が。
    「2/8-削除予定ゲーム一覧 ついて専用スレで話し合っています。ご意見などお寄せ下さい。」
    なんとなく興味引くので、専用スレッド眺めてました。
    なにやらいろいろな経緯があったらしいです。
    自分でゲームを作って公開するというのは、大変な負担を伴う行為なのですね。
    勿論この場合の負担とは、ゲームそのものの製作以外の、公開に伴う不利益のことです。
    フリーRPGとかいうのをめぐって、様々な問題があったらしい。
    このサイトの「雑学&雑文」によると諸事情が推測されます。
    世の中には「責任」という概念が存在します。
    私はこれは、端的に「自身の行為の結果として生じる不利益」と定義するほうが分かりやすいと思いますが。
    私の場合、このサイトでもっとも世に貢献できたことは大往生の攻略文書の作成です。
    シューティングの経験のない人から、「考え方が分かったおかげで1周クリアできた」という意見は実に多数頂けました。
    検索をかけても、それを参考にしている、という日記記事などは多数見つかります。
    世に貢献できたという点では、実にこれはやってよかったと本心からうれしく思っています。
    ただ、決してよかっただけではないということ。
    さまざまなものが、正にDQNの体現ともいうべきものも集ってくるという事実がありました。
    BBSなる媒体は決して便利なだけのものではないということが実によく分かる。
    私自身はこの上なく平易な記述を心がけたつもりですが、そもそも論理の問題ではない。
    ロゴス以前の問題で絡み付いてくるからこそ、DQNであるわけなのですが。
    この事象は実に、責任という概念の意味を明らかにしてくれます。
    何かをすれば(大往生の攻略文書作成)、それには必ず不利益がついてまわるということ。
    完全に論理的結合を欠く帰結が訪れるわけですが、合理性を欠くことそのものが「不利益」である所以です。
    だから、私は「サイト閲覧に当たって」などの注意書きは設けないことにしております。
    論理が通じる大多数の人は当然に理解されていらっしゃるし、そうでない場合は言葉が通じないので告知の意味がない。
    ですので、こういった不快感も自分の行為の責任なのだと、納得している日々です。
    「言論の自由」は当然に不利益を甘受することを意味しているわけで、それが不快なら退出すればよいだけだし。
    (憲法的には、完全な(他の人権すなわち公共の福祉以外の制限を受けない)無制限ですが・・・)
    話題が少々ずれましたが、これが「責任」という言葉の現実的な意味。
    フリーソフトを公開される方というのは、それ以上の不利益を負担されることになるのでしょう。
    より「広い」年齢層がダウンロードするでしょうし、当然にそれは・・・・・。
    (文字のみで、ACシューティングしか扱わないというのは閲覧年齢を嫌でも高くするという恩恵がある)
    「責任」というものの意味は重大ですね。
    法の制限を越えれば国家権力に訴えることになるのでしょうが、それに至らないものこそが真に重大なわけだし。
    ということで、文庫本エッセイなどを読むと、プロの(収入を得ているという意味)作家さんがこの問題を結構扱ってらっしゃるのが面白いです。
    まあそういう視点で読んでしまうせいでもあるでしょうが。
    そういえば、「北へ、ダイアモンドダスト」で「エキセントリックなファンが」という表現は面白かったなあ。
    それにジョン・レノンはエキセントリックなファンに殺されちゃったし。
    関係ないですが、こちらで「北へ」の第一話が無料ダウンロードだそうです。

    2/7
    ロシアで地下鉄が爆発したそうで。
    私がこの報道に接した最初の感想はこれでした。
    「ロシアなら、地下鉄くらい整備不良で爆発するよな。」
    ひどいものです、整備不良で発火ならともかく爆発なんてするものか。
    偏見ってこういうことでしょうか。
    なんでも本日の朝刊に拠れば、女性の自爆が増えているとの事。
    そしてその原因はこういう因果だそうです。
    封建的社会であるチェチェンでは、夫や恋人が(ロシア軍により殺害)死亡した場合、残された女性は生活の道を立たれる。
    そこで彼女たちは自暴自棄に陥ることが多い。
    これをチェチェンのテロリストが自爆テロ要員として利用しているのだ。
    ということらしいです。
    ならばプーチン政権の目指すべきは、チェチェンに工場か何かを作って寡婦を雇用して生活を保障することですね。
    新聞を読む限りではこれが合理的対策と思えます。
    それにしても、経済産業文化が発展途上の地域こそが政治的独立を目指すというのは不思議な現象ですね。
    もっとも、半植民地的搾取下にあったからこそ政治的独立を志向するのだろうけど。
    先進国民国家では、国家という権威が次第に求心力を失いつつあることとの対比が面白いです。
    資本主義の最終形態である帝国主義の次に社会主義に移行するというマルクスの理論。
    それが実際のところ共産主義国が農業国家(後進資本主義国)にのみ誕生したのとちょっと共通性を感じます。
    「東方紅魔郷」、プラクティス6面ノーマル、魔女の上タイプでノーミスノーボム、4800万点弱でますた。

    2/6
    それにしても、ラムズフェルドってひどい。
    イラクの生物化学兵器問題につき、もともとイラクには存在しなかったのではないかという質問。
    それに対し、「確かに未発見であるが、不在の証明は為されていない。」との回答。
    にょー。
    立証責任の転換、と形容するのがもっとも適切なのでしょう。
    分かりやすい例では、こんな感じ。
    のび太の自身の所有物の返還請求がジャイアンに為されます。
    ジャイアンが殴ってこう叫びました。
    うるせえ、お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの。
    それ(請求対象物)がのび太のものであることが証明できたらかえしてやるよ。
    むちゃくちゃな理屈ですが、ジャイアンはいつもこんなの。
    この場合では、ジャイアンがのび太から取り上げたのだから、ジャイアン自身が自己の所有の権限を証明することが必要です。
    それを逆に、のび太が自身の所有権を証明できなければ返還請求ができないとすれば、あまりに不条理でしょう。
    しかも所有権の存在を証明するのは困難を極めます。
    (所有権がないことの証明は、他者の所有権なり反例を挙げればよいので極めて容易)
    一般に、「なになにでない」という否定の証明は困難です。
    だって、たった1グラムでもサリンがあればもう不在証明は否定されちゃうし。
    (そのうち米軍、自分で持ち込んでイラクに化学兵器の存在を捏造するような気がする)
    上のラムズフェルドの事例は、このジャイアンの場合と同じです。
    勝手に他国を侵略したことの非難を受けて、この様に回答しているからです。
    「相手国が悪くないことを証明できないなら、この侵略は正しいのだ。」
    最低です。
    化学兵器の存在の挙証責任を負うのは米国です。
    それが見つからない以上は存在しなかったとみなすしかない。
    実情がどうであれ、万人が了承できるのは証明されたこと事情のみなのに。
    これが手続き的な正義というものです。
    挙証責任は、その証明対象事象によって有利な立場に立つものが負担するのが原則である。
    当然ラムズフェルドはこの言明を知識としては知っているはず。
    あの役職に就く学歴経歴から考えれば、この原則を知らないということはまず考えられません。
    知った上でやってるのだから、どうにもなりません。
    挙句の果てに、フセインの隠れた穴だけで何千人も殺せる兵器を隠せると話題の挿げ替え。
    政治家になるには、話題挿げ替えスキルは必須ですな。
    まあ、ラムズフェルド氏だけの問題ではないけど。
    新聞読んでると、ブッシュ氏は40歳のときにテレビ伝導士の説教によってアル中を離脱できたとか。
    そのときに、「生まれ変わり」を体験しているのだそうです。
    (この「生まれ変わり」の翻訳前の英語の単語は何か興味がある)
    まあ、原理主義者(福音派)を支持層に取り込むために後から作った逸話の可能性も高いですが。
    米国では聖書の文句は「一字一句文字通りに真実である」と信じている人が31%だそうです。
    (この数値の出所信憑性は不明)
    この一軒聖書を尊重するかに見える原理主義が、実はもっとも聖書を都合のいいように改竄しているそうですね。
    (この言明は、昨日の田川健三氏の指摘です。)
    矛盾だらけの古代の文書であるが故に、文字通りに信じるといいつつ結局都合のいいところを抜き出しているだけで。
    タリバーンと何らかわるところがない。
    ともかく、米国って病んでると感じるところが多いにょ。

    2/5
    統治形態としての「帝国」(国民国家の対立概念)と、「帝国主義」なる概念があります。
    従来、後者は「帝国」の意味の誤認に基くものと思っていました。
    でも最近、その実は共通項に基いているのではないかという可能性に思い当たった次第です。
    「帝国」といえば、もっとも明らかな例はお隣の「中華」でしょう。
    この場合の帝国の中心理念は、文化すなわち漢字と礼の体系にありました。
    (実際はともかく理念上は)文化を共有することができればそれはもはや文明人。
    日本の阿倍仲麻呂などが唐代に地方長官に任命されたなどの事例に明白です。
    この例を素直に眺めれば、「帝国」の普遍性と開放性という極めて優れた特質が浮かび上がります。
    ところがこれを裏から見ると、こうなります。
    独自の言語と文化を持った地域に、中華世界からいきなり軍隊などが侵入占領。
    そして現地人に対して、「お前たちは漢字を使えないから野蛮人だ。」
    以上。
    こうして中華は自分たちの言語文字を知らないという理由で、他地域を西戎東夷北荻南蛮と呼び習わしてきたわけですか。
    現代のアメリカ合衆国にそっくりですね。
    漢字に相当するものがアメリカ英語であり、礼に相当するのが向こうの会計基準であると考えれば分かりやすい。
    中華も合衆国も、自文化を「普遍」と考えているのが共通ですな。
    この理解に到ったのは、先の「書物としての新約聖書」の田川健三氏の指摘のおかげです。
    現在の主流派キリスト教(必ずしもイエスに直結しない)をある意味作ったといってもよい人物が、パウロなる人。
    かれはヘレニズムのギリシア語を話すユダヤ人でした。
    そのかれが宣教の途上、小アジアの都市に立ち寄ります。
    当然そこでは独自の言語を用いているわけです。
    パウロはそこで、さも当然といった風に、ギリシア語で演説をまくし立てます。
    そうしてその地の入信者に対して、お前たちのキリスト教理解は異なっていると激しく非難します。
    勿論、パウロのギリシア語が十分に理解できなかったという事情を考慮せずに。
    現地の言葉を習得してから宣教しようという、当然の努力には思い至りません。
    上の中華やUSAと同じく、自分の文化を理解しないほうが悪いと当然のごとくに信じ込んでいます。
    いや、まさに帝国主義とはこのことですな。
    歴史の意味が分かることは、現代の妥当な認識を抱くことと同義なんですね。
    「書物としての新約聖書」はこのように、非常に面白いのでお勧めするです。
    剄草書房、田川健三著、定価8000円。
    こういった、本当に面白い本がベストセラーになってくれるとよいなと、ちょっと思うです。

    2/4
    受精卵着床前診断なる報道が為されているようです。
    診断の結果により、受精卵を着床させるか否かを決断するそうで。
    人工流産施術の要否のみであって、羊水診断などと本質は同じなのですか?
    確かに非常に恐ろしいことではあると思います。
    適用が限定されるべきとされる筋ジストロフィーの患者からすればこんな感じ。
    自分と同等の症例を持つ胎児(含む受精卵)は堕胎されてしまうわけですか。
    つまりお前は死んだほうがいいと。
    でもこれが一般論として成立するのかどうか、疑念も在ります。
    先天障害により、生まれないほうがよかった、死にたいと思ってらっしゃる方だってたくさんいるでしょう。
    倫理問題の焦点となるのは、人間そのものの価値なるもの。
    その立証は、何らかの形而上学的命題を持ち出さない限りは不可能ではないかと思われます。
    むしろ、男女産み分け程度の理由で抹消される価値のないものであることを前提とすべきかと。
    その上で、無価値であるが故に、人の価値の遵守をだと同意想定したことを明確にする。
    そしてその保護基準を煮詰めて行くのが、分かりやすい方法だと私は感じます。
    憲法の人権論と同じ議論なんですが・・・・
    見方を変えて生物学的視点に立てば、こんな感じですか?
    先天障害として排除された因子は、実は特定疾病に対する唯一の抵抗因子であったりとか。
    遺伝子プールの多様性のために、人の選別はされるべきではない。
    この命題は真実だと思うのですが、そのために価値があるかどうかもわからない障害を一生負わされる人にとっては不公平。
    (この一文はひどく差別的)
    もともの種全体としての議論が人権論と両立するはずがないわけで。
    ところで、それ以上に重大な事項は、「経済的理由」に基く人工流産の多さではないかと感じられるところです。
    今回の着床前診断は氷山の一角でしょうが、総量としては中絶の1/1000あるかないかでしょ。
    望まれない妊娠を減らすことと、その必要のない社会を目指すこと。
    着床前診断の是非よりも、これがより本質的な問題ではないかと思いますにょ。
    どうも、この議論は偽善のにほいがします。
    閑話休題。
    未来社会予測。
    着床前診断にて。
    医者、「このお子さんの場合、将来ホーケイになる確立が8割です。堕胎をお勧めします。」
    (ちょっと南国ふう)
    こう書くと「そらみみ」風ですが、実際ナチスってこれに近いことやってたんですよね。

    2/3
    ウェブ上の表示形式なる外面的要素は、文書の書き方に影響を与えるようです。
    私のかき方は以下。
    1、一文ずつ改行。
    2、一文が長くななり、画面右に達して自動改行されることをできるだけ避ける。
    3、以上の制約下でも一文にそこそこの情報を入れるために、フォントサイズは2を採用。
    原則はこれだけなのですが、それだけでもいろいろなテクニックが派生してしまいます。
    端的なものが、既に現れている、「以下」もしくは「以上」なる記述の多様。
    通常の日本語なら、上述の三要素を主題的に文頭におき、末尾に述語として「私は採用している」と続くこともありうるでしょう。
    もちろんこの場合は長いので、通常の日本語のように続けるならばこの様になるでしょう。
    上記の三要素はそれぞれ、一文づつ改行、文は短く、フォントサイズは2と短縮してしまいます。
    こうすれば、主題として文頭に置く支障ない長さになります。
    この問題は、日本語の一つの文法上の難しいところかもしれません。
    自然な日本語は文頭の主題の提示がそこそこの長さを持つものです。
    が、それは同時に主述の対応の不鮮明化をもたらすことになります。
    かといって、上述の私の書き方は、無意味に英語文法の影響を受けているだけとも感じます。
    どうしても、ある程度使用できる外国語は英語しかないし、実際学校で学ぶのは英語だけだから影響は受けます。
    (第二外国語は中国語でしたが、「私は労働者です」程度しかいえません・・・・)
    日本語文法って、習わないですよね。
    もう一つテクニックとして生じるのは、(文の長さによって)一文に主述を一組のみに限定すること。
    私は意図的にこれをやってますが、やはり日本語として少々不自然な文になるように感じます。
    いってみれば、英語なら関係代名詞で続いている文書を、無理やり切断しているようなもの。
    「上述のことが」とか「それが」として前文内容を指示代名詞として次の文の主語に採用。
    そして「which」等に相当するべく、むりに次の文にこれを挿入しています。
    従って、唐突に体言止に近い文書が頻出することとなります。
    話の筋自体は分かりやすくつながるのですが、日本語として違和感が強いです。
    普段何処となく思っていることを、明文化してみたのが今回の内容でした。
    一定の形式に従って文書を書いていると、自らの思考過程も自ずとその形式に規定されてくることを感じる日々です。

    2/2
    先の病院にもう一度いきまして終了。
    風邪で病院に行った記憶は長らくないですが、皮膚科歯科なんてものはすぐにでも病院行くべきものですね。
    副腎皮質ホルモンの合成法の確立は、青色ダイオートを遥かに上回る発明と思うのですが。
    またしても待ち時間に怪しい「親と子で心触れ合う仏教マンガ」を読みます。
    「仏教の中心原理は因果応報である」という言明が引っかかるところ。
    それは本当に釈尊の語った内容であるのか、疑問の持たれるところです。
    後の世に、釈尊の言葉として、理解不足の弟子たちが挿入したものなのではないだろうか?
    本当にこれは仏教の教説なのでしょうか?
    キリスト教における十字架という概念が、その中心として教会にドグマとされたものの、実際のところイエス本人にさかのぼらないということと同じなのではないかなあと。
    「親の大恩」とかいう題名のマンガも、些か疑念の残る内容。
    趣旨として、故にあなたは生きなくてはならないのだ、といいたいらしいと推測できます。
    「あなたを育てるにあたり、親はこれほどの苦労をしているのだ」という主張は理解できる。
    だからといって、親の苦労という事実と、人生は価値があるのだという命題は結びつかない。
    論理性を感情論に挿げ替えるのはいけない。
    「親は勝手に自分を生んだのだ」という問題にどう答えるというのか。
    勝手に産んで、勝手に苦労しているのであって、それ以上に論は進展しない。
    命の価値といった重要な問題を論じるにあたり、感情論に訴えるのは間違っている。
    命の価値それ自体を、論理として成り立たせるのでない限りは議論に信憑性がない。
    感情論に訴えることは、議論を提起するものの頭の悪さを示すにとどまらない。
    その論証しようとする「命の価値」という命題そのものを、周囲の人間が胡散臭いと感じる効果をもたらすだけだ。
    どうしてこうも、感動させたり泣かせたりして、自説を立証しようとするのだろうか。
    もっとも信憑性のある命題とは、何らの感動もともなわない、自明なものとして存立するものであるはず。
    それが真の救世主の姿だろう。
    預言者の言葉は地下鉄のラクガキの中にある、という「Sound of silence」の言葉は真実だ。
    現代においては、にちゃんねるの殴り書きや画像掲示板の中にこそ、預言者の言葉が現れるだろう。

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