日記3月
戻ります


3/14
家を空けます。
3月末まで日記はお休みにょ。
少々、アーレフの続き。
楽しげなものを発見しました。
心に残る真理の話の第三話。
「幻影のからくり」というアニメーションです。
えっと、ヴィシュヌ神の声を当てているのは麻原彰晃でした。
神様気取りで、いい気分だったのだろうなと推測がつきます。
彼のように嘘もきわまってくると、己自身をさえ欺くことに成功しているように感じます。
実際自身をヴィシュヌ神格と同定していたのだろうなあと。
そこまでできれば凄いもの、我には到底不可能です。
俗物も窮まってくれば、虚無主義と表層における識別が不可能になってくる。
閑話休題。
わが町の議会が、法定合併協議会からの離脱を決議しました。
「住民の利益を考えて」であるそうです。
議会の構成員たちは、上の麻原と同じく、自身の利益であることを隠蔽して町民のためと主張することにおいて、自身を欺くことはできているのでしょうか?

3/12
続いて、アーレフ検討。
まず昨日の続き。
「カルマおとし」の名目で、対外のみならず、教団内部においていじめが正当化されていたのは有名ですた。
また、カルマの現実化たる因果において、その媒介条件に個々人の内面的要素を導入しています。
事実上、何が起ころうとそれは行為者の内面が原因であるとして、カルマ法則を想いのままに捻じ曲げることが可能に。
何が起ころうと、教団と教義を守ることができるご都合主義ですな。
証明不可能な事項なのだから、口先達者な教団幹部に言いくるめられて終了です。
本日は以下を検討。
「アーレフの教義入門」>「3世界観」>「神秘の身体」、「ヨーガ・仏教的世界観」
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神秘の身体
わたしたちの体には神秘的なエネルギーの流れが存在する。
物質次元とは異なる霊的な身体についてご紹介しましょう。

クンダリニーの覚醒。
クンダリニーとは、すべての人間の尾てい骨に眠っている内なるエネルギーのこと。
人間の精神を高い次元へと押し上げる力を有している。
正しい修行によってクンダリニーを覚醒させることができれば、わたしたちは、人間の限界を超えた様々な神通力(超能力)を得るだけでなく、最終的には解脱・悟りに到達することができるのだ。
チァクラの開発は、クンダリニーと並んで、わたしたちの霊的修行を進める上で必要不可欠なものだ。
チァクラとは、人間の身体にある霊的なセンターのこと。
クンダリニーが覚醒すると、スシュムナー管に沿ってクンダリニーが上昇していく。
そのとき、各チァクラを開発していくことができる。
そして、ムーラダーラ・チァクラの超健康体に始まり、肉体から完全に離脱することを可能にするサハスラーラ・チァクラまで、各チァクラが有している様々な能力や神秘的な力を身に付けることができる。
七番目のサハスラーラ・チァクラの門が開き、肉体とは別の「歓びの身体」と呼ばれる身体を抜け出させることができる。
この第七の門を自由自在に使えるようになったとき、わたしたちは様々な苦悩から完全に解放された境地を体験することができるのだ。
わたしたちの体には、七万二千本のナーディーと呼ばれる管が通っており、その中を霊的エネルギーが駆け巡っている。
その中で、特に重要な三つの管がある。それが、スシュムナー管、イダー管、ピンガラー管だ。
左のイダー管には迷妄のエネルギーが、右のピンガラー管には邪悪心のエネルギーが、中央のスシュムナー管には愛著のエネルギーが通る。
わたしたちの身体を構成している要素を、地・水・火・風・空の五つに分類したものを「五大エレメント」という。
 五大エレメントとは別に、わたしたちの身体を構成する要素として「五種の気」がある。
人間の身体は、この五種類の気によって動いているのだ。
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すべての世界を解き明かすヨーガ・仏教的宇宙観

ヨーガ・仏教的宇宙観
宇宙創世以前には、真我と三つのグナ(三グナ)しか存在していなかった。
真我とは、わたしたち生命体(魂)の根本となるもの。
三グナとは、サットヴァ(光のエネルギー)、タマス(音のエネルギー)、ラジャス(熱のエネルギー)という三つのエネルギーだ。
真我は、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の三つの特性を備えており、それ自体で最高の境地に存在していた。
絶対自由とは、すべての世界に対して自在に身体をつくって現われることもでき、そこからまた自在に元の世界へ帰ることができるということである。
これは生・死の自由を意味している。
絶対幸福とは、一切のカルマの制約を受けないということである。
つまり、老いや病の制約を受けず、また、過去の経験から来る苦しみ・悲しみ・愁いなどを経験しない。
絶対歓喜とは、真我自体がもともと喜びのエネルギーを内在しており、何もしなくても歓喜の状態でいられることを表わしている。
三グナが真我に干渉したとき、真我は三グナの持つダイナミックな光・美しさ・動きに感応し、その中へと没入してしまった。
つまり真我は、三グナが、自分の持つ特性よりも素晴らしいものを与えてくれると、錯覚を起こしてしまったのである。
そのとき大爆発が起こった(現代物理学でいうビッグバン)。
次々と宇宙がつくられた。
大宇宙の創世は、そのまま真我の落下の始まりでもあった。

この全宇宙は、愛欲界、形状界、非形状界、そして大完全煩悩破壊界に分類することができる。
愛欲界とは、今現在わたしたちが生きているこの世も含まれ、熱優位の粗雑な物質でできている世界である。
形状界とは、音優位の微細な物質でできた世界で、上位形状界と下位形状界に分かれている。
非形状界とは、光優位のデータの世界である。これは、上位・中位・下位と三つに分かれている。
上位非形状界となると、他のどの世界とも重なっていない。上へ行くほど、透明な光が強くなり、光が情報として存在している
真我が三グナに干渉されたことにより、大宇宙の創世が始まった。
最初に創造されたのが光優位の世界。次に音(波動)優位の世界、そして最後に熱優位の世界がつくられた。
これら三つの世界は、互いに連動している。
この愛欲界での出来事はすべて、非形状界にある光のデータが形状界に投影されてイメージが形作られ、それがこの世界に下りて現象化したものなのだ。

この流れは、わたしたちの表層・潜在・超潜在の意識とも対応している。
わたしたちの身体の動きは、
@ 超潜在意識に想念が生じる
A 潜在意識に投影されてイメージ化
B 表層意識に下りて熱を生じさせる
というプロセスによって生じているのである。
わたしたちの心身は、まさに大宇宙と連動した「小宇宙」といえよう。
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以上抜粋引用部分でした。
まあ一言で言うと、世迷いごと。
「チャクラ」「クンダリーニ」というと、「孔雀王」を思い出すのは私だけでは無いでしょう。
というよりも、オウムの年齢層から考えて、この教義を作った人たちも「孔雀王」を読んでいたはず。
それと、「カルマ」といえば「ポイズン」を飲むと5下がるんですよね。
何のネタか、分かりますか?
「チャクラ」「クンダリーニ」のを所与の事実として受け入れるとして、以下論じます。
チャクラが全部で七つ存在しており、それらは真理の覚醒の段階によって順次開発されてゆくものらしい。
逆にいうならば、チャクラ(の開発によって発言する超常能力)によって、各人の修行の到達具合が測定できるという発想。
これによってオウム真理教は、各修行者に明確な次の指針をあたえ、到達具合によって序列化することができたようです。
推測ですが、「正悟師」「正大師」などという称号は、いくつのチャクラを開発したかによって与えられるものなのでしょう。
「ゲーム的」という形容が非常に親和的です。
もちろん、予備校などの夏期講習などと同様、多額の布施によって「イニシエーション」を受ければ修行の到達ステージを一つ上げられる仕組みになっていたであろうことは想像に難くありません。
ちなみに、チャクラを開発すると、以下のような能力が得られるそうです。
超健康体の獲得、性欲のコントロール・多くの異性から好意を得る、名誉・高貴さの獲得
仕事・学問が好調に、地位・権力の獲得、一切の現世願望の達成、別の体を持って意識投影
以上、低級チャクラから順に並べてみました。
なんというか、非常に世俗的な願望ばかりが並んでいるように見えます。
非常に興味深いと思ったのが、一番の「ヨーガ・仏教的宇宙観」における宇宙創成の過程。
「真我」に「3グナ」が干渉することによって世界が創成された。
そして人の目的は、最終解脱によって「真我」に復帰することにある。
この物語がオウムによる世界創成なのですが、グノーシスの神話に類似性が強い。
強いというよりも、グノーシス神話累計そのものといってよいほど。
参考に、グノーシス神話の規範モデルを以下に提示しておきます。
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まず初めに、天上界に「父」あるいは「霊」と呼ばれる至高者なる神がいた。
そしてそのものは「知恵」とか「魂」などと呼ばれる女性的属性 -知恵(ソフィア)や魂(プシュケー)はギリシャ語で女性形- と対を成している。
そしてその両者との間に生まれた「子」が存在する。
この三者はいわば三位一体を形成していた。
ところが、この女性的属性は堕落して至高者を離れて天上界から中間界に落ちた。
そこで「諸権威」あるいは「支配者たち」と呼ばれる存在を女性的属性は産んだ。
彼らの中では「造物主」たる「デーミウールゴス」がその長として存在している。
彼らは至高者の存在を知らず、自らを産んだ女性的属性である「母」を陵辱し、下界すなわち地界と人間を生じさせた。
そのようにしてデーミウールゴスは万物の創造主であることを誇示し、下界をその支配下に置いた。
しかし至高者は、その女性的属性を通じて、人間のうちにその本質すなわち「霊」がわずかながらも残っている状態にした。
しかし人間はその自己の本質を知らずに、あるいはそれを忘却して、無知のとりこになってしまった。
そして人間は自力ではこの本質を認識することができない。
そこで至高者は、下界にその「子」を遣わして、人間にその本質を啓示する。
それによって人間は自らの「本来的自己」に目覚め、自己を認識して「子」と共に天上界に帰昇する。
中間界と地界、すなわちこの宇宙全体は解体され、万物は天上界の本質、すなわち「霊」に帰一する。
こうして「万物の更新」は成就する。
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以上、「どう読むか、聖書」(青野太潮著)242ページから引用。
端的に、節操が無いと言うべきなのでしょうか?
オウム真理教の場合、どうしてもどこか別の形而上学的思索概念が流用されている場合が極めて多いように感じます。
「(超)潜在意識」「投影」「チャクラ」「クンダリーニ」「カルマ」などなど。
もっともこれに関しては、以下の反論が確実に成立します。
実相は一つにであって、それを解釈する側の人間によって呼び名が異なるだけのことである。
ゆえに諸概念が他と共通性を持つのはむしろ当然である。
難しいものですね。
すくなくとも、オリジナリティに溢れすぎた「幸福の科学」の世界創成史に比べれば、アーレフの世界観のほうがまだ筋が通っています。
「太陽の法」などを参照してみられるよろし、目がくるくるしてきます。
(もっとも、「幸福の科学」発想自体が他の宗教家の者を受け入れているだけの可能性も有る)
信徒の方にいささかの他宗教思想の知識があれば、安易な入信はなかったのではないかと思うところです。
そこそこ首尾一貫した世界把握に、システマチックに整備された修行体系を持ったことが、オウムの隆盛の一因足りえたのでしょうか?
「不可視の真の幸福」を追求した人々が、可見の人為的な修行ステージに汲々としていたと言うのは、何とも虚しいことです。
目に見える具体的なものをもっとも強く求めていたのは、彼らが排斥した外界ではなく、彼ら自身であったと。

3/11
宗教団体アーレフ の教義を眺めた感想です。
まず、「教義」について指摘されるべき重要事項。
こちらで以前に触れたことです。
・「明確な「教義」を持たない宗教は胡散臭い。」
この命題は、否定されなくてはならないということ。
これすなわち、「教義」とは宗教史的にみて、各宗教の確立後に徐々に定められていったという事実がまずあります。
本来の宗教の創始時には全くなかった概念が、後の思索(政治的意図が極めて大きい)によって付加されてゆく。
そしてこの人為の集積が、「教義」として成立するのが通例です。
そしてさらに、全く体系内に矛盾の無い教義が存在する場合、それは後世の人為的調整に過ぎないということ。
そもそも「真理」が、人間の言葉で(しかも数式も用いず)に、整然と記述できると考えるのが間違いであることです。
要するに、「教義」が存在することは宗教の要件ではない、ということです。
ですので、「アーレフ」(オウム真理教)の教義が矛盾だらけであろうと、それ自体として否定される要素では無いということです。
そうはいっても、あれほどの社会的害悪をもたらした宗教団体です。
その内容は何であるかという知的好奇心もあります。
また、あの反社会的行為をもたらした原因はその教説内容にあるのではないかという疑念もあります。
ゆえに、「アーレフ」の教説を少々眺めてみた次第です。
本日は以下にアーレフサイト内の列挙箇所を取り上げてみました。
「アーレフの教義入門」>「1どのような修行をしていますか」、「2根本となる教義は」
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1、宗教団体アーレフの教義と修行

物質を手に入れることや、煩悩を満足させることではない。
煩悩を満足させるための外的な条件は、常に変化し、移り変わる。
この諸現象の儚(はかな)い性質を“無常”と呼ぶ。
煩悩は飽くことがなく、完全に満たされるということはない。
アーレフが追求する“本当の自由と幸福”――解脱・悟り.
解脱・悟りとは、内側の幸福であり、煩悩の支配から解放された精神の自由であり、迷妄を越えて至高の叡智を得た状態である
それは何も特別な状態ではなく、本来の純粋なわたしたち(真我)に帰ることなのだ。
そこから一歩進んで“利他心”の達成によって得られる、無限に広がる意識状態への魂の進化の道でもある。

宗教団体アーレフの修行者は、大きく二つに分かれる。
一つは通常の社会生活を送りながら教学と修行を続ける在家修行者であり、もう一つは出家修行者、すなわち教団施設等で共同生活を行ない、僧侶として修行を続ける修行者である。
最高の解脱の喜びは、死んでも消え去らない永遠のものだ。
それを得るために出家修行者は、死とともに消え去る喜びを、生きているうちにすべて放棄するのである。
在家の修行の目的は、よりよい転生をすること、そして現世的な幸福を得ることにある。
(布施で功徳を積み、在家の五戒を遵守することで徳の消耗を防ぎ、天界への転生が可能となる。)
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2、根本教義はすべての基本、カルマの法則

カルマの法則を知ることで、何をなせば幸福になり、何をなせば不幸になるかがわかります
「自分がなしたこと(原因)は、未来において必ず自分に返ってくる(結果)」という教えのこと。
未来に自分に返ってくるものが「報い」であり、すべてが必然である。
カルマの法則によれば、自分が対象を喜ばせたら、未来において自分も喜びを味わうことができるし、対象に苦しみを与えたら、自分も苦しまなければならない。
これは、対象に喜びや苦しみを与えた場合、その対象の心の状態がそのまま自分自身の中にデータとしてプリントされるからだ。
カルマの返り方は、条件によって違いが出る
カルマの法則をもう少し正確に説明するならば「原因(因)が、ある条件(縁)を満たした段階で結果(果)を招く」ことだと言える。
とすれば、自分がなした行為(原因)は、必ずしもダイレクトに結果を招くとは限らない。
その途中の条件によって結果も変わってしまう。
カルマの法則を考える上でもう一つ忘れてはならないのは、「ある行為をなすときの心の働きによって、結果が違ってくる」ということだ。
カルマの返り方には、時間差もある。
今日なしたことの結果が今日返る人もいれば、何年経っても返らない人もいる。
この違いは、カルマを現わすスピードを速める善性(サットヴァ)の特質をその人が持っているかどうかで決まる。

善業を積み、悪業を落とすのが仏教の修行
わたしたちは日々、善業、悪業、あるいは善業でも悪業でもないという三種類のカルマを積んでいる。
そこで仏教では、わたしたちが真の幸福に至るためには、善業を積むだけでなく、積んでしまった悪業を清算することが必要だと説く。
では、積んでしまった悪業については、どう対処したらいいのだろうか。
そこで出てくるのが、カルマ(悪業)落としに耐えることだ。
つまり、苦しみを受け入れ、耐えることによって、過去になした悪業を清算してしまうのだ。

> 願望をかなえるには二つの条件が必要となる。
第一の条件は恁徳揩セ。
功徳とは、車を走らせる燃料にたとえることができる。
多くの功徳を積めば、自分が望んだ方向に現象を動かすことができる。
第二の条件として大切になってくるのは、欲求の方向性を定めること。
どんなにたくさんの功徳を積んだと思っていても実際には功徳はすぐに消耗してしまうということ。
何しろ、心に喜びを感じることが、功徳の消耗につながるのだから、わたしたちが普段から喜びを捨断しようとしなかったら、いつまで経っても修行を進めることはできない。
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以上、抜粋引用です。
まず、もっとも私が知りたかったのは、「アーレフの目的」である一番目。
これ自体に、得意な点は見出せない様に感じます。
「無常」「煩悩」「内面の真理」という概念は珍しいものではないし、その主張自体を否定論証するのは不可能でしょう。
「幸福」という主観要素が基準である以上、「悟り」「解脱」といった内面要素を否定肯定するのは無意味です。
禁欲主義が極端であるように感じますが、それは必ずしもオウムのみのことではないし。
このオウムの主張が、「仏教」のそれと同じなのか、私は無学にして判別不可能です。
(詳しい方がいらっしゃれば、それを理解する契機となる本など紹介頂けると幸いです)
非常に違和感を感じるのが、2番の「カルマ」の教説。
本日引用分以外の「アーレフ」の教説箇所を読んだ限りでは、アーレフの目的は輪廻転生からの解放にあるようです。
そしてこの「輪廻」なる概念を既定する最重要要素が「カルマ」である以上、この概念が「アーレフ」の根幹であることは間違いありません。
(この場合も、「カルマ」が仏教の概念にさかのぼるのか?、そして相違は?ということが無知にして分かりません)
私自身は、「輪廻転生」はインドに由来する極めてローカルな普遍性を持たない発想に過ぎないと思います。
(キリスト教の「贖い」とおなじ)
そしてその輪廻を理論化する上での説明概念として導入されたのが、「カルマ」だろうと推測してます。
つまり、完全なファンタジーに過ぎないということです。
ただここでは、アーレフにしたがって、カルマを所与のものとしてその主張を眺めてみました。
確実にいえるのは、「カルマ」が数量的に蓄積して計測できるものと、彼らは考えているということです。
「カルマ(悪業)落とし」、「功徳はすぐに消耗してしまう」という部分に明らかでしょう。
もともとが神話的概念に過ぎないものを、文字通りに受け取るので、この様な不可解な発想が生じるのです。
「対象に喜びや苦しみを与えた場合、その対象の心の状態がそのまま自分自身の中にデータとしてプリントされる」。
しかもこの記述で無理に無理を重ねてカルマを理論化しようとしています。。
発想が硬直的というか、原理主義的というべきか。
我々一般人が報道に接し、オウムの主張で非常に違和感を覚えたものが「カルマおとし」という単語だと思います。
自身の教団の行為を被害者の「カルマおとし」に該当するのだとして、正当化しようとする態度です。
被害者は前世の悪業の報いとして命を落としたのである。
それによって彼らは(悪行の)カルマが減少するので、かえって彼らのためにもよかったのだ。
この様に教壇の人々は発言していました。
私は思うのですが、オウムの人々は決定的に思い違いをしている。
「カルマ」はあくまで自己相対化の視点であると私はおもいます。
自分が苦しい場合にそれを自身の行為の帰結として謙虚に受け入れる、そのための概念装置が「カルマ」なのだろう。
つまり、カルマは決して自身以外に適用されるべき概念ではないし、それは完全に人間の認識可能領域には無いだろうということです。
そうであるのにオウム真理教の人々は、勝手に他者のカルマを計測し、その軽減処置(殺害)まで自身で行なってしまいました。
自己相対化の基準であるはずの概念が、自己絶対化をもたらしてしまったという皮肉です。
この点イエス氏は、次のように述べています。
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」
(マタイ5−43)
この言葉自体の意味はわからないし、イエス自身にさかのぼるかどうかも不明です。
ただ、「善悪の究極的判断は人間には不可能である」という趣旨はそこから汲み取ってもよいでしょう。
「父」が何であるかも不明ですが、少なくともそれが自己相対化の基準としての機能を有していることは確実です。
オウムは(麻原は?)自身にカルマの決定測定権があると自己を絶対化してしまったこと。
これがあの教団の反社会性の一因を為したことは間違いないだろうなあと。
続くにょ。

3/10
花粉が飛び始めました。
昨晩から、くしゃみ、のどの痛み、鼻水、腰の痛み、疲労感著し。
嫌な時期になってきたものです。
ここ数日、宗教団体アーレフ のサイトをみてました。
関心の焦点はその教説内容にありまして、「アーレフの教義」というところをずっと読んでます。
かなり面白いです。
数日かけて、その概要をアップロードする予定。
彼らのいうところの「教義」をコピー&ペイストでまとめたもの、及びその批評を予定してます。
閑話休題。
以前に発見した誤植ネタ。
「母親は彼が7歳の時地主二号館されて首吊り自殺したといわれている」
これは、かの有名な「雷峰に学べ」の雷峰の母の伝承。
最初は意味が分かりませんが、次第に笑いがこみ上げてきます。
この伝承、貞操は命よりも重いという価値をもつ集団によって形成された、恐ろしく女性差別的な価値判断を包含しております。
強姦された女は死ねと、命令しているようなもの。
ようやくガルダ、タテハでクリアできました。

3/9
私の居住自治体が、合併問題で迷走しております。
周辺5自治体での合併が合理的と思われる状況。
そこにおいて、自町の影響力が低下することを恐れて、5自治体から1市を除いた4自治体での合併を強硬に主張。
合併協議会は設立されているものの、その中で私の自治体の主張が急変したらしい。
その原因は、どうやら町議会が合併に反対しているらしいこと。
合併手続きを少々調べてみたところ、合併効果発生には各合併市町村の議会による合併決議が要件とされているようです。
となると、悪いのは議会ですにょ。
そうはいっても、町長は全く意思の表示を行なわない日和見主義者で、自身の任期切れを待っているようです。
こういうときこそ、議会の解散請求が望まれる場面です。
「じゃあお前が解散請求の署名を集めろよ!」、といわれれば全くそのとおり。
何を為すかが明白であるときに、自身の責務を果たさない漏れに民主主義を語る資格は無いです。
仮に解散請求が成立したとして、その後に候補者となる人がいるかといえばこれも疑問。
市町村議会の被選挙権は25歳以上なので、私もその資格は持っているものの・・・・・
いや、本当に町長と同じレベルの日和見主義者です。
いずれにせよ、今回の合併特例法の期限内に片がつく問題ではないだろうな。
当然に全国にたようなものと予想されるので、第二次・三次と合併特例処置が施行されることでしょう。
私は、町が孤立して痛い目にあえばそのうち合併せざるを得なくなるだろうなと、比較的楽観視しております。
ただ、町全体の不利益は町議会の構成員の不利益とはならず、むしろ利益にさえなりうる・・・・・
ちなみに、わが町のわがままぶりに痺れを切らした県庁が、合併問題に勧告を始めますた。
ここで活躍すべき県知事は脳梗塞で入院中。
それはまあいいとして、最大の問題は入院先が地元ではなく、東京の病院であるということ。
さっさとくたばってくれるのが、わが県の将来にとって望ましいというものです。
(確か6期連続当選)
あの愚かな県知事にして、わが町の愚昧な当局あり。
あの親にしてあの子ありです。
わが町との合併予定先である、隣町の町長さんがこう仰っていました。
「町の意思は必ずしも住民の意思と同一ではないので、我々は常に友好的に協議にあたってゆきたい。」
まさに、政治家の鏡のような方です。

3/8
日記の整理が完了。
なんと、人様を罵る記述の多かったことか。
自らが普遍を装うものが、その対極を実相としている。
恐ろしくも真実なる命題です。
自己の相対化の基準として存在するものこそが、普遍である。
常にそれを思い続けることこそが、正義要求である。
鶏インフルエンザの会長さんが自害なさったと聞きました。
人の生涯は、まさに塞翁が馬といったところか。
ウイルスの進入さえなければ、恙無く生涯を終えられたでしょうに。
その極限状況で、最悪の場合を常に想定して行動することは可能なのか?
ご冥福をお祈りするばかりです。
ところで、「冥福」って何でしょうね?
先ごろ、トランク中に監禁していた男性が、追突を受けて死亡するという事件があったそうです。
刑法でいうところの、「相当因果関係」の例題がまさにそのまま発生したような、と形容するのが最適です。
車に乗って追突されることは確かに発生しうる事故です。
しかしその確率は、著しく低いものだろう。
となると、「監禁行為」と「致死の結果」の間に因果関係は肯定されるのでしょうか?
やっぱり、因果関係は否定だよなと思うところ。
となると、罪責は監禁だけかな?

3/6
日記の整理中。
過去のもの、特に古ければ古いほど、自分の頭の悪さが露骨に表出されています。
首を吊りたくなるくらい恥ずかしいものばかり。
謙虚に、事実の隠蔽は行なわず、素直に載せておきましょう。
ガルダハイスコア。
4648万1710、枠6、ライフ1。
最終形態で1機完全に無駄死にですが、それはまだ慣れていないからこそのミス。
今回は、5ボスの第2形態の覚醒石10程度での変換に成功。
これで5ボス前の兵隊で覚醒、続けてボスでビットで覚醒、本体通常破壊、第二形態の覚醒破壊の道筋が見えました。
ビット2回破壊は果たして可能か、全てはあの第一形態形態ループ最後の高速弾の見切りにかかってます。
及び5面序盤での、4・5機目の中型機と続く砲台の連続覚醒破壊が成功。
序盤だけは少しパターンが見えました。
カタツムリのごとき歩み。

3/5
現在過去日記を話題ごとに整理作業中。
量が多すぎる・・・・・・・・
よくこれだけ続いたものです。
整理過程で否応なく読み返すわけですが、今となっては間違っていると確定できることが多い。
自らの恥をさらして戒めとするためにも、削除せず残しましょう。
2003/9/19の「罪」に関する記述が、なんか痛かった。
現行のキリスト教の説明によれば、「罪」とは自己閉鎖によって造物主から遠ざかることらしい。
「造物主」という概念を除けば、上記説明は極めて高い普遍性を持っているといっていい。
もっとも、造物主なるものが何であるかは全くわからないところ。
ここに「白髪の老人」などというファンタジーを持ち込むという無理解が、宗教を迷信に思わせる。
「造物主」は何らかの普遍法則性であると理解すれば、そこに迷信不条理要素は皆無であろう。
私個人は今現在、宗教から信仰という要素を取り去ることが必要だとおもってます。
この場合の信仰とは、以下のような(大方不条理な)客観的命題を了承する、という意味です。
 ・イエスは神であると同時に人間である
 ・死者はからだを伴って蘇る
 ・などなどその他多数。
話題を、もとの「罪」に戻します。
この「罪」というのは原初的意味においては、全く別物だった模様。
キリスト教以前から存在したユダヤ教において、「罪」とは純粋に宗教法規に対する違反を意味していました。
宗教法規とは、有名どころでいえば「モーゼの十戒」。
そしてそれに付加されていった、食事や衛生規定など。
具体的には、食事の前に手を洗わなかったら、「1罪」。
金曜にエロゲー買いにいって、それでハァハァしてしまったら、合計「2罪」。
本来的には、罪というのは複数形で数えられる名詞だったんだそうです。
それがパウロ氏ら偉大な思想家によって、人の自己閉鎖という抽象概念という地位を「罪」は獲得しました。
パウロ氏は、「罪」を人の持つ根源的転落要素と考えていたために、必ず単数形でしか「罪」という語を用いなかったらしい。
ともかく、普遍化された「罪」の定義に従うのが賢明でしょう。
だから、悪いことをしたら地獄に落ちるとか、万引きは罪であるというのは、かなりアレな言明です。
我々がクリスマスの街頭にしばしば見かけるキリスト教の街宣。
「人は罪人です」とかいうアレですが、あの方たちはおそらく罪を「複数形」のものと理解してますな。
いわゆる「sin」と「crime」の相違もおそらく、「罪」を単数形で理解するか複数形とするかですね。
一部の極端な例をもって全体に普遍する意図は無いです。
ただあの、街頭宣教の人たちは「大きな思い違いをしている」。
話題をユダヤ教の複数形の罪に戻します。
当時の規定によれば、各人は犯した罪(つまり律法を何回破ったか)の数に応じて、神殿に生贄を捧げることになってました。
(想像ですが、手を洗わずに食事すればはと一羽、エロゲーでハァハァしたら雄牛一頭など)
しかしこの生贄規定は、まだヘブライ人が遊牧生活を送っていた時代のもの。
既に定住していたヘブライ人にとって、生贄の納付は非常に重荷になってました。
そこで画期的発想の転換。
「イエスは各人の「罪」の代償として生贄になったので、今後一切生贄納付の必要はありません。」
これがキリスト教で著しく不可解な、「キリストは人の罪を贖った」という命題の本来の意味らしい。
宗教法規違反の罰金(生贄)という、極限までローカルなユダヤ教の発想がそのままキリスト教に取り入れられたようです。
だからキリスト教の言ってることは、世迷いごとに聞こえわけですね。
罪に贖いが必要なんて、そんなことは決して普遍ではない。
しかもイエス氏自身に「贖いの生贄」などという意図は全くなかったのだから、馬鹿らしい。
犬養道子氏のようにこの理屈の弁解はいくらでもできますが、それは護教論というものです。
複数形の罪であるからこそ、それを罰金で帳消しにするという発想が生じる。
法条違反から人の根源的転落と、罪の意味が複数形から単数形に変化している。
それなのに、「イエスキリストが贖った」という理屈を持ってきた。
そもそも根源的転落を「贖う」という時点で間違っているのです。
そこでその点を無理して、「キリストの復活を受け入れた人は再創造されて根源的にあたらしくなる」と説明する。
まさに嘘に嘘を重ねて、どんどん理屈がおかしくなってきている。
そして挙句の果てに、(上記再創造のような不条理な命題が)正しいという確信は、「神から与えられる恩寵である」と。
相手にするのがばかばかしくなってくる。
古代の局所的な発想を現代に引きずるのはやめたほうがいいですね。
イエスさんは草葉の陰で悲しんでいらっしゃる。

3/4
松任谷由美さんのCDを引っ張り出して聞いてました。
その中の、「恋人がサンタクロース」という曲。
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あれからいくつ冬が巡り来たでしょう
今も彼女を思い出すけど
ある日遠い町へとサンタが連れて行ったきり
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サンタは北の工作員で、平壌にでも拉致していったのかと思いますた。
ガルダのラスボス、初めてノーミス通過。
まあ、問題は最終形態だけですが。
2面クリアで940万は今のところのベスト。
4面5面のパターンが、試行錯誤の途中経過で完全破綻。
相変わらず、アウトラン2が面白い。
タイムアタックでゴールがBの下、上、上、上、上と進むルートを始めての完走。
いまだに、東方紅魔郷やってます。
ノーマルの稼ぎパターン構築中。
プラクティスでステージごとでなく、全面通しての練習中。
5,6面はかなり安定させることができるようになったので、課題は序盤。
および、スコアのための道中決め撃ちボム地点も確定させてゆくこと。
目標2億。

3/3
日記の日付は、どこかで一日ずれるとその修正が効かなくなります。
今回も、3/2、3/3と連続してますが一日休み。
鶏インフルエンザは素敵なことになってますね。
ニュースで「浅田農園社長の処分」という単語を聞き、一瞬あの社長さんが「炭酸ガスで窒息して埋められた」のかと期待しちゃいました。
従業員とその家族に責任を負わざるを得ない立場で、しかも自身の財産が多大な危機に瀕しているとき。
そこで冷静な判断を下すことができるかというと、極めて難しいようにおもいます。
私があの社長さんの立場にいても、同じことをやってるだろうなあと。
「危機管理」と言うは易く行なうは難し。
あのウイルスは、致死率の高さが非常に興味を誘います。
基本的に、致死率が高いということは、ウイルス自身にとっても不幸なこと。
自らの宿主を殺すということは、自身の生活領域そのものの破壊を意味しているからです。
あのウイルスは、短期的に狭い地域で大流行して大量の宿主と共に自身を滅ぼしつくして絶滅消滅してしまうタイプですね。
ただそれも、まだ地球が広かった昔の話。
今日ほど地域交流が盛んな時代なら、ウイルスが絶滅に要する時間よりも全地球に拡散する時間のほうが短くなってる。
これが人間だったら、実に怖い話ですにょ。
致死率の高さはウイルス自身にとっても不幸な結果です。
しかし、残念ながらウイルス自身はちょっとのーみそが足りないのでそのことが分からない。
今回の鳥インフルエンザウイルスは、設計思想において既に間違っている存在。
だから本当は上記の過程をたどって自然淘汰され、地球全体にとっては穏便にことが終わるはずなんですが。
本来生存できないものが生き残ってしまうのが、今日の交通技術の発達の結果という逆説。
「人間も鳥ウイルスと同じ」というと、道義問題を生物学的問題に挿げ替えた詭弁ですな。

3/2
ここ数日、以前に中断していた「イエス・キリスト」(講談社学術文庫、荒井献著)を再開してます。
この書が面白いのは、その叙述の形式。
一ページを複数の段にわけ、格段に一つづつ資料を並べてゆくこと。
それにより、一つの事象伝承が、各書物ごとにどのように異なっているかが一目瞭然となります。
(例えばページを4段に分割し、上から順に、マタイ・マルコ・ルカ・トマス福音書と並べてあるわけです)
ある記述が、どのように変更されているか、省略されているか、加筆されているかなどなど。
これによって否応なく、各資料の著者の思想傾向や周辺状況が明らかになってくるという形式。
高校生は世界史で「共観福音書」という単語と共に、マタイ・マルコ・ルカの書名を覚えることが要求されます。
この「共観」福音書という名称の由来は、上記のようにそれぞれの記述を並行して眺めることができるからしいですね。
(正確には、「対観表」という厳密な対照表を作った学者がいるかららしいですが)
我らが世界史の教官は、この事実を認識していたか?
一度でも自身で比較対照作業を行なったことはあるのか?
答えはおそらく否でしょうし、岩波書店の犬福向けの解説書で済ましてた程度でしょう。
教師も理解していなさそうなことを高校生に教える必要があるのか、些か疑問のもたれるところです。
神聖ローマ帝国の7選帝侯の全名称を覚えるより、「共観福音書」は意味を理解するのが困難な気がします。
教師も理解して無いからこそ、単に従順さと暗記能力を問うだけになっている。
日本の義務教育はいい面も多いですが、このあたりは不毛だにょ。
どうも、昔私世界史を教えてお金をずいぶん稼いだ記憶があるもので。
あのころの無知さで人様からお金を頂いたかと思うと、実に申し訳なくなってくる。
話題を戻しまして、非常に面白かったのが以下の引用部分の相違です。
再び、日本聖書協会のサイトから引用です。
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「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
屋上にいる者は下に降りてはならない。
家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。
畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
このことが冬に起こらないように、祈りなさい。
(マルコ福音書13章14−18節)
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「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。
畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。
(マタイ福音書24章15−20節)
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以上はイエス自身が、「世の終わり」に関して述べたということになっている部分。
実際に本人の発言であるかは不明。
おそらくは彼の信奉者がその考えをイエスの口に押し込んで権威付けしたもの。
時代的には「マルコ」が先行し、「マタイ」はそれを独自資料を加えて書き換えたもの。
「マルコ」は比較的イエスの姿を素直に伝えているのに対し、「マタイ」にはそれを修正する傾向が強い。
「マタイ」はイエスを、ユダヤ教の継続・完成者として理解しております。
その形跡は、上記引用部分に明確。
「憎むべき破壊者」そのものは、実際に「ダニエル書」に記述があるそうなのでここはまあよし。
一番面白いのが、マタイが6行目に「安息日」という単語を加えていること。
本文である「マルコ」になかった単語をあえて加えるのですから、それは明白な意図があるというもの。
「安息日」はユダヤ教の律法(宗教規則)によれば、何もしてはならない日。
(初期にはそうではなかったが、後世になって人為的規則が雪達磨式に付け加えられて厳しさが増した)
イエス自身は「律法」に極めて否定的でしたが、「マタイ」氏は自身の理解が大切なのでそんなことはどうでもよい。
イエスがユダヤ教の完成者である以上、律法は守らなくてはならないのです。
それ故に、「世の終わり」が安息日でない様に、と付加したわけです。
なぜなら、「安息日」には歩いてよい距離の上限が定められているので、逃げることができないから。
なんとご丁寧に、「マルコ」では世の終わりを「このこと」(7行目)とまとめているのを
「マタイ」では、「このこと」を削除して、「逃げるのが」(6行目)に改めています。
いや、「小賢しい」という表現が適切です。
意識は完全に、どうやって安息日を守らせるかという些事に集中してますね。
なんでも、ユダイズムにはかなり狂信的な人々が多かった模様。
セレウコス朝にユダヤが独立戦争を起した際に、たまたま戦闘が安息日に重なって抵抗皆無で一部隊が全員殺されたことがあったらしい。
当然何もしてはいけないのだから、自分の命を守るための抵抗すら禁じられるという解釈ですか。
今のイスラエルでは、電気のスイッチをつけることも労働として安息日には禁じられていると聞きますが、果たして真相は如何に?

3/1
麻原彰晃氏の判決が下ったそうで。
なにやら、新聞・テレビ見てると暗澹たる気分になります。
遅延は「司法の責任」だとか。
司法の制度問題は、直接的に立法府の問題だということをメディアは積極的に主張するべきではないのか。
裁判の遅延はあからさまな欠点ですが、制度的な遅延をもたらす構造そのものに問題があるのに。
「この国の正義は・・・」とかいうのをみると、不快感すらこみ上げてくる。
個人レベルの正義感という内省皆無の低俗な感情が、日本国全体の正義をゆがめるという意識は無いのか。
そもそも司法は非民主的機関であって、法の規定を遵守することのみに正義は存在するのに。
裁判官が一個人の怒りに任せて判決を下すなどの愚かしい行動をとればどうなるのか。
国民に殆ど統制権の無い司法が暴走したら、それは恐ろしいことです。
麻原ほどの重責を追うべき人物であれ、弁明の機会等の手続き的正義が貫徹されることに本質が存在するのに。
司法手続き皆無の特別高等警察などの歴史をいったいどう解釈しているのでしょう。
報道機関というのは不思議なものです。
個々の構成員は、良識と学識を十分にお持ちの素晴らしい方々なのに、全体となると恐ろしく頭が悪くなる。
三権分立や憲法中の刑事訴訟条項など、それらをこそ報道機関は取り上げるべきではないかと感じられるところです。
十分な説明さえあれば、誰でも分かる簡単なことであるはず。
「民主制における選択と責任の主体は国民である。」
この命題の(特に後者)の意味は、本件の事例に明らかなのかもしれません。
本件裁判のこれほどの遅延というかたちで、国民は十分な不利益を負担してますな。
「司法の責任」と責任転嫁で己を喜ばし続けるなら、ますますその不利益は大きくなっていくのでしょう。
もっとも、「国民の総意」という架空の実体の選択が、直接的には一個人の不利益するわけですか。
選択と不利益負担の主体が異なるわけで、やはり民主制とは擬制ですなあ。
麻原判決よりも、京都の鳥インフルエンザのほうが大事件だと思った人は決して少なくないと犬福は思いますにょ。

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