日記4月
戻ります


4/29
年金の納付問題で、議会が素敵なことになっているようです。
私個人は菅さん好きですが、実に犬福並みに情けないことになってる。
個人の年金納付状況などという些事で自民党を攻撃するから、自分も批判されるんですよ。
あの20年間未納だった一件(中川氏?)は故意ありと認定せざるを得ないです。
でも他の福田さんの場合とか、殆どは未納期間が数年間。
通常に考えるなら、制度が複雑なことに由来する過失です。
菅さんは、このように主張すべきでした。
「制度が複雑であるからこそ未納が生じるのであって、一元化によってその欠点は解消される。」
民主党の主張にも沿っていて、実にとおりがよい。
それを行政側に責任転嫁するなど、実に見苦しい。
だから選挙で自民党に勝てないんです。
菅氏を初め、どうも政治家は有権者を馬鹿にしていると感じる節が多い。
閣僚個人の年金納入状況は些事であり、本質は年金制度そのもののあり方にある。
殆どの人はこの事実を認識しているはずです。
閣僚や菅氏の未納は過失でありそこに過大な責任を求めることは間違いである。
国民はこのように考えるほどには十分に賢明です。
それを枝葉末節で国政を混乱させた挙句に、年金未納の責任を取って菅氏に辞任を求める声まで上がる始末。
頭悪過ぎ。
閑話休題。
あの羽田空港侵入事件は素敵です。
彼は身をもって、空港のセキュリティホールを示した。
あれがテロリストでなかっただけで、多大な感謝は捧げられるべき。

4/28
それでも20分くらい、旅行記作成作業にかかれました。
今日はこれからがんばるにょ。
閑話休題。
最近面白かったもの。

  • バーチャル ぼくのいもうと…、シスプリ
  • アマゾンの腹裂き族(猟奇変態地獄)、映画
  • ウォーターパワー・アブノーマル・スペシャル、映画
  • ●4月20日、出陣前のネ申、唯一ネ申のインタビュー
    ---------------------------
    「高岡散策」桂書房、35ページより引用。
    「これに関連し、北陸で最初のクリスチャンとして洗礼を受けた長屋八内のことが思い出される。
    そしてこの八内が安政の頃の高岡町奉行であり、しかも口碑に刻まれるほどの名奉行だったという。
    (中略)
    キリスト者となった後の八内は、のちの”金沢のアブラハム”と尊称されるほどに多くの人たちから慕われた。」

    4/27
    やる気が起こらずモニターの前で悶々とした日々を送っておりました。
    あの、「北海道旅行記」です。
    かれこれ2週間あまりの中断・・・・
    自分のための旅行記なのに、何ゆえにそんなものに苦しんでいるのか。
    じっくり考えると訳がわからなくなります。
    それでもようやく「kita」フォルダを開けたので、作業が再開できそうです。
    初期抵抗値さえ越えてしまえば、問題ないんです。
    きっと記憶がよみがえって楽しい作業のはずなので、何とか仕上げたいところ。
    現実的な線として、5月中の完成を目指しますにょ。

    4/26
    酒席にて。
    自ずと高齢者(私程度)が寄り集まるので、話題がなぜかケコーンとか子どもとかいう話になります。
    どうして酒席とは、「雨の夜の品定め」と化するのか?
    「自分を愛せない人間は子どもや妻を愛せますかにょ?」、と犬福が問いかけます。
    返答はこれでした。
    「強がる必要はないんじゃないの」
    アメリカのホームドラマなどを例に上げてくれます。
    「向こうだとほら、父親が娘に「最近母さんとうまく行ってないんだよ」とかはなしてるじゃないですか。」
    そういう考え方もあるんだなと、感じました。
    「新しい、権威ある教えに驚いた」と、そんなところ。
    私とは暮らしてきた環境も学歴も全く異なる相手方ゆえに、そういう理解もあるのかと思っただけです。

    4/25
    「郡内の合併をすすめる会、会長稲田豊光」氏名義のビラが舞い込んで着ました。
    私の居住自治体は、合併問題でもめた挙句に法定協議会から離脱した経緯があります。
    (詳しくは3/9参照)
    この問題に関するもので、以下少々引用してみます。
    ------------------------------------------
    合併協議会離脱は小杉町民と地域のための妥当な判断だと、私たちは考えます。
    ・「射水広域圏合併協議会離脱」の小杉町の判断について。
    いまの小杉町議会は、合併について最終判断をするものとして昨年四月の町議選において洗礼を受け、土井町長も11月に再選されています。
    (中略)
    ・自治会長などのあり方が問われています。
    住民は自治会長に合併問題の判断を頼んだことも、また相談されたこともありません。
    にもかかわらず一部の自治会長が、私的な見解を自治会の見解のように表明されてきたのは遺憾であります。
    (中略)
    ・一部の自治会長が。町長と町議会の判断を遺憾とし、住民投票を求める運動を、それぞれの自治会で提起されました。
    (中略)
    そもそも住民の間で大きく意見が分かれている合併問題で、自治会や町内会が一方的な立場で運動を進めるべきではありません。
    一部の町内会からは、「こんな文書、見たくもないし次の人に見せたくもない。それでもまわさないといけないのか」という苦悩の声が伝わってきています。
    ・住民の意見ではなく数の追求?住民投票を求める署名運動。
    少なくない地域で、自治会や町内会などが認めたかのようなやり方で署名運動が進められ、住民の自由な意見表明が困難となっています。
    「朝会議員が4人も来て、自治会の決定打と迫られた」
    (中略)
    「断ったら、ドアをばたんと閉められた」などなど
    --------------------------------------------
    以上引用でした。
    頭の悪い文書の場合には、それをかいた人間の知性が低いとみなされるだけである。
    この基本的な認識が、この文書製作者には欠落しています。
    欠落しているが故にこそ、このような愚行に出るというべきか。
    「洗礼」という後は、著しく適切でないです。
    新聞の「洗礼」という語自体が憲法的無理解の上に、何も知らない宗教用語を当てはめただけ。
    さらに今回は、その表現をとってきただけだろう。
    素直に、「町民の信任を受けた」と表記するのがよろしい。
    次に、「一部の自治会長」などという表現の連発。
    対象を不明確化すれば自身の主張が妥当な表現となるだろう思っているのでしょうか。
    信じがたい偽善と品位の低さの現れです。
    publicな問題に関し、その自治会長は表現の自由にしたがって彼の見解を表明したのです。
    ならば彼は当然にそれに伴う責任を了承しているのであって、当然に実名を挙げて反対意見に対峙させられるべきです。
    それをこのようにこそこそと、「一部の・・・」などと対象を特定することもなく、筋の立たない批判を繰り返しているだけ。
    こそこそと陰に回った陰険なふるまいです。
    そのようなことを為す人間は、対等に語り合う価値がある存在と認識されることがない。
    つぎの、署名集めの批判方法。
    その真偽の程は私は知りません。
    しかし一部特殊例を全体に当てはめる手法が、著しく不当なものであることだけは犬福でもわかります。
    それより何より、この文書の最大の欠点はここにあります。
    冒頭に「合併協議会離脱は妥当である」との価値判断があります。
    しかるに、その論拠が一切記されておりません。
    自身の主観を述べ立てて、反対者を陰湿にけなしているに過ぎないのです。
    こういうものは、世間一般では「自慰行為」と呼ばれます。
    何所に合併協議会離脱が妥当なのか。
    協議会を離脱せずに新湊市を含めた5市町村で合併した場合。
    新港をのぞいた4町村(大島町・大門町・小杉町・下村)のみで合併した場合。
    この両者を比較した上で、4町村合併がどう優れているのかを論じる。
    最低この程度の事はやらないと、説得力が皆無です。
    ビラのあまりの頭の悪さに、少々驚いた次第でした。
    ただ、問題はこのビラが本当に「郡内合併をすすめる会」の作成したものであるかが解らない点。
    もしかすると、会長の稲田氏は勝手に名義を使われただけという可能性があります。
    以前足立区にいたときには、選挙前に誹謗中傷ビラが入るのは日常茶飯事。
    その中に、共産党が他党を中傷しているように装って、共産党の品位を貶めることを狙ったのが明確なビラもありました。

    4/24
    しばしばポップミュージックの歌詞で聴く言葉。
    「信じるものしか救わない神様に意味はない」
    この趣旨のものが結構多い。
    この認識は、実に現実の妥当な認識でありかつ適正な評価だと感じるこのごろ。
    まだ足も生えていなかったような昔は、私は非常に頭が悪かったので、このような言葉には無意味な反感を覚えたものです。
    その心情は、以下のようなものでした。
    「お前たちは宗教を勉強したことはあるのか?
    何らかの知識は持っているか?
    無知な人間が、断定的な言葉を吐くな!」
    これは著しく誤った傲慢な考え方だと、今日では考えられるようになってきました。
    恐らく詩を書いている人たちは、その分野に関しては、殆ど無知に近いでしょう。
    以前の私は、無知な人間が勉強もせずに述べ立てる態度そのものを嫌悪していたのです。
    より卑近な例を用いるなら、こんなところです。
    「考えることもなく、努力もせずに、パターンさえ作らず、シューティングをクソ扱いする連中は馬鹿だ。」
    このような言明は、確かにそこそこの合理性は有しているでしょう。
    でもやはり、根底において間違っている。
    まず確実にいえることは、前提知識を持たない場合の方が、より事物を適正に評価できるという事実です。
    最近一年くらい勉強してましたので、犬福程度には「新約聖書」というものが見えてくるようになりました。
    その結果思うこと。
    客観的に評価すれば、「新約聖書」もしくはキリスト教はこのように述べています。
    信じる人間しか救わない。
    信じない人間は地獄に落ちる。
    (あの犬養道子氏まさにこの視点、老害というべきか・・・)
    「新約聖書」を開くたびに、このような独善的キリスト教臭さが目に付きます。
    以下少々引用。
    -------------------------------------------
    イエスが言われた。
    「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
    シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
    すると、イエスはお答えになった。
    「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。
    あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
    わたしも言っておく。
    あなたはペトロ。
    わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。
    陰府の力もこれに対抗できない。
    わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。
    あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。
    あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
    (マタイによる福音書、16の16-19)
    ----------------------------------------------
    この部分はイエスが初代ローマ教皇を任命したと、ローマカトリックが主張する根拠となる部分です。
    文理上、明らかにローマ教皇に人間が天国に行くか地獄に入るかの決定権が与えられています。
    この箇所にとどまるものではありませんが、新約聖書にはこのような独善的な記述が多い。
    そもそも、「最後の審判」という概念自体が、信じるもののみ救われるという理解の最たるもの。
    こういうものを見ていくと、ポップミュージックなどの理解はまさにそのとおりと感じるところ。
    そのような独善的な「神」など死に絶えるがよいと、私も感じます。
    本箇所は、1世紀のシリア方面のマタイ教団で、教団指導者の正当性付与という政治的意図の下に挿入されたらしいです。
    だから、上述の独善的な言葉はイエスその人にはさかのぼらないことになります。
    それゆえに、上の言葉を以ってキリスト教の独善性と断定するのは無知無学であるという見解が成り立たないでもない。
    しかし客観的に考えて、聖書の各節の記述がいかなる伝承にさかのぼるかなど、通常の人間が知る必要のないことです。
    それにそもそも、「新約聖書」という体系自体が後に「キリスト教」と呼ばれるようになった団体がでっち上げたもの。
    自分たちで作り上げた文書を外部の人間が理解しないからといって、彼らを無知無学と言うのです。
    この場合を合理的に、すなわち訴訟法的に考えるなら、聖書の体系を立証する責任はキリスト教の側にある。
    つまり「キリスト教」の側は挙証責任の転嫁を行なっている。
    疑似科学者たちと全く同じです。
    しかもこの無知無学呼ばわりならまだしも、自分たちの体系を「信仰」しないなら地獄に落ちるといってるわけです。
    独善きわまれリ、ですよね。
    (さらに言えば、ご丁寧に「地獄」という不信仰者の行き場まででっちあげてます)
    これでいて善人普遍を装っているのだから、ポップミュージックに馬鹿にされて当たり前。
    宗教というものは、帝国主義と全く同じです。
    「キリスト教を信仰すれば救われる」
    この命題の裏にある、キリスト教を信仰しないものは地獄に落ちるという傲慢さを、ポップミュージックは見抜いているんですよね。
    (正確には、対偶を取るべきですが・・・)
    最近つくづく、このように感じます。
    新約聖書からは、キリスト教を取り除かなくてはならない。
    宗教からは、信仰を取り除かなくてはならない。
    いわゆる「キリスト教」のあり方は、イエスが最も否定した自己絶対化そのものだと感じるところです。
    (でも、このような理性的指摘を行なえる人物を多数生み出しうるほどに、キリスト教という世界には多様性がある)
    (シューティングの場合はそもそも「プレイしない自由」があるわけで、本件とは同列に論じられないですにょ)

    4/22
    一着だけ、仕立ててもらったスーツを持ってます。
    何かの記念のもので、かなり高かったもののはず。
    そのスーツを仕立てた方が、死んだらしいということを聞きました。
    交通事故、川原に自ら突っ込んで落ちてなくなったとか。
    サイズを図ったときと、とりに行った時の2度しかお会いしてませんが、お顔は覚えてました。
    親しくはなかろうと、自分と何らかの接点を持った方がなくなったということを聞くと、不思議な気分になります。
    悲しみとは異なりますが、ある種無常観を覚えるというのが適切なのか。
    ・・・
    「・・・・・さん、僕があなたの年のころにはもう3歳の息子がいて、幼稚園に連れて行ってからきてたんだよ。」
    とかこういう会話を交わす機会もありました。
    生の意味とは何であるのか。
    そして恐らくそれに解答は存在しないのだろうということも、おおよそわかってます。
    大蔵省で飛び降りた大学の知人だったあの方。
    霊を呼び出し、是非とも語り合ってみたい。

    4/21
    未だに、講談社学術文庫の「イエスキリスト」荒井献著を読み続けています。
    結局現在4ヶ月ぐらい継続中。
    上巻は2度よみ、下巻の2度目にかかったところ。
    初読の時点では理解できない点が多かったです。
    原典をある程度まで読み(確か福音書と使徒行伝とコロサイ人への手紙あたりまで)、本文中に原典の参照がある場合には丁寧にそのつど調べてゆくことに。
    さらに読み返しの効果もあって、ようやく少しづつ内容が理解できるようになってきました。
    端的に評価して、本書は体感的に法律書のようです。
    本書はマルコ・マタイ・ルカの3福音書の比較対照から各所の著者の思想傾向を読み解くという構成です。
    その必要上、並行記事の詳細な比較対照が必須。
    そのために、以下のような記述が頻出。
    「勿論ルカ福音書においても、イエスは律法学者・パリサイ派を激しく批判している。(10・25、11.3、18.9)」
    このような感じなので、本文の論旨を自ら確認するためにどうしても()内の部分を実際に引いて見なければなりません。
    法律書なら必要な条文判例程度はすぐに覚えてしまうので、条文の名前だけ見れば殆ど十分です。
    対して聖書の方はあらすじ程度しかわからないので、実物に当たらなければどうにもこうにも。
    しかも書く福音書の著者の思想は、至極些細な追加や削除にあらわれるものですから・・・・
    これが時間のかかる主たる原因です。
    ということで、列車に乗ればこの荒井献の本とフランシスコ会訳新約聖書の2冊を携帯。
    本文を読んでは線を引き、聖書を引いて要点をメモ。
    周りの人から見ればどうなのか知りませんが、我に衆目を気にする恥じらいはありません。
    手間はかかりますが、非常に面白い本です。
    福音書著者は各人各様にそれぞれの理解するキリスト像を伝えようとしたのでしょう。
    その結果として、同じ「新約聖書」の中でありながら、そこには相互に矛盾する多様なイエス像が内包されています。
    それらを比較してゆけば、あのナザレの男の実際の姿が、わずかなりとも浮かび上がってくる。
    聖書というものは、明確な政治的人為・作為の元に編集編纂され、正典となった歴史内存在らしいです。
    ほぼ1800年の後に、東の果ての無知無学な私が読んですら、そこに多くの矛盾が見えてくる。
    これを「聖」と考えることは内容に即すれば、まず不可能です。
    しかし奇妙なのは、様々な政治的意図の混入の結果なのか、驚くほど多様な理解が含まれている。
    そしてその比較対照により、相当程度まであの男の姿が明らかになってくる。
    実相を隠蔽し都合のよいキリスト像を盛り込んだつもりで、それが逆に生のイエスの姿をほのめかしてくれます。
    歴史の皮肉というべきか。
    ここまでを意図して、「聖書」と呼ばれるのかもしれません。
    もうしばらく、あの男の考え方を勉強するつもりです。

    4/20
    先の日曜のこと。
    ・ カプコンの「1941、カウンターアタック」
    ・ 「ロジックプロアドベンチャー」
    以上二つのワンコインクリア達成。
    まず前者。
    最近一番燃えていたゲームで、ゲーセン行くと1日5〜10回くらい。
    こちらあたりの紹介を参照ください。
    設置店には週一回しか行かないので、プレイ頻度も週5くらい。
    エスプガルダはここ2週間くらいやった記憶がない。
    やっぱり、「弾幕」でないシューティングは面白いです。
    特定のボスの倒し方、敵の出現位置など具体的情報を習得してゆくことがクリアの条件。
    誰でも回数をこなして覚えればよいという素敵な仕組みです。
    弾避けは不要。
    唯一の欠点は、体当たり狙いの敵(しかも画面下から出る)の頻出など、不条理感が募ることか。
    これにしても結局は程度問題。
    斑鳩のチェーンパターンや大往生の誘導パターンに比べれば、1941の記憶量は遥かに少ない。
    クリアまでの所用プレイ回数20くらい。
    エスプガルダと代わらない程度です。
    難度はどうだったのか。
    3ボスが一番強かったのは多分確実。
    意味がまるで理解できず、倒すのに10回以上。
    それからのボスはずっと弱く、ラスボス一歩手前の中ボスが次の難関。
    逆にラスボスは、初挑戦で倒してしまいました。
    何じゃそれは、という感じでパターンも何もあったものでない拍子抜けのラスボスでした。
    1941が素敵だったのは、「溜め撃ち」が非常に強力だったこと。
    貫通攻撃の上に溜め時間が短い。
    最大の欠点はインストカードに書いてないことで、ネットで「1941 カプコン」で検索かけて初めて知りました。
    「19XX」とは異なる設計思想で、連射が殆ど入らないという仕様です。
    絶対的難度はガルダより低いのは間違いないのだろうけど、自身のスキルが全く活用できない点が難しく感じられます。
    逆に言えば、現在のシューティングはプレーヤー自身にスキルがなければパターン作成実践ともに困難な仕様になっているということか。
    スキルがあれば初めてでもかなり進むし、なければ2面あたりからもう不可能という感じですね。
    ラスボスに到達するだけなら、ガルダの方が所用プレイ回数は1941よりもずっと少なかったし。
    もう一つのロジックプロアドベンチャー
    こちらは恐ろしくコストパフォーマンスのよいゲームで、1コイン1時間半は堅い。
    より適切に言えば、長すぎてかったるくなってくる類。
    今回は終盤が近づくにつれ、目はかすむ、のどは渇く、肩はこる。
    ゼビウス9、999、990がどれほど大変かよく分かりました。
    まさかクリアできるとは、夢にも思っていなかったゲーム。
    そこそこ有意義な日曜でした。

    4/19
    「イスラエルには自衛の権利がある」
    合衆国の声明らしいです。
    この調子だと、日本が忍者を送って偉大なる首領様を暗殺しても自衛権の行使と認定してくれるのでは?
    大統領選挙って、本当にパンドラの箱のようです。
    この比喩は阿刀田高氏が日本国の総選挙を評したものですが、合衆国のそれにはより適切に当てはまる。
    ここ数日の新聞の論調(私読売しか読んでないので、一般化はできません)。
    急変しました。
    あの三人の解放があってから、「自己責任」や「家族が国策変更を要求する異常事態」と論じてます。
    彼らは被害者から一転して、無自覚な無責任者扱いされるようになりました。
    それ自体は妥当な主張だと私は思います。
    ただ、新聞の側の、急激な論調の変化に不信感を覚える。
    勿論解放前から彼らを肯定していなかったであろうことはほぼ確実と思います。
    紙面の各所からも、行間にその意図を認定することは可能でした。
    そして、それを口に出しにくい事情があるということも理解できます。
    その事情が消滅したとたん、急激に立場を変させることは、彼らの首尾一貫性を非常に疑わせます。
    首尾一貫性は、言論の中でもかなり重要な位置を占める規範であると我は認識しています。
    勿論、首尾一貫性は言論のためにあるのであって、首尾一貫性が言論のためにあるわけではない。
    一貫性の維持のために自身の考えと異なることを述べるとすれば、それは好ましくない事態です。
    それでもやはり、主張が日々代わる場合にその主体を信頼することは、非常に困難というもの。
    新聞社は個人と異なる意思決定機構を持ちますが、それでもやはり言論主体であることに代わりはない。
    国民の知る権利は彼らの報道あって初めて充足されるものなのだから、もう少し責任感を持って欲しい。
    首尾一貫性の維持は、決して多大な経費や手間を要求するものではないだろう。
    閑話休題。
    でも、本日の読売の社説は珍しく非常に説得的な素晴らしい内容でした。
    (危険地帯)への渡航禁止法案を巡るものです。
    憲法22条2項を引用。
    「何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。」
    この外国移住の自由から海外旅行の自由を導き出します。
    そして仮に危険地帯であっても、海外渡航は憲法の要請する基本的人権であると認定。
    故に規制は絶対に許容できないと論じていました。
    (記憶違いで、もしかしたら渡航の自由を22条1項から導いていたかも)
    当たり前のことを普通に論じているだけ。
    それでいて常に根本に立ち返って考えるという、思考の最も重要な役割を提示しています。
    月に一回でもこのような記事を書いてくれるなら、購読料を払う意味もあるというもの。

    4/18
    イスラエルはひどいことしますな。
    直前のブッシュのあの発言がなければ、今回の蛮行はなかったのではないか?
    いや、決してそんなことないでしょうね。
    最近ずっと気にかかっていたのが、「イスラム聖職者協会」なる団体の名称。
    イスラームに聖職者は存在しないことになっているので、この名称は著しく違和感を感じていたのです。
    先ごろニュースを聞いていれば、「イスラム法学者連盟(?)」だかなんとかと、より適切な呼称を使っていましたね。
    勿論、通称として「聖職者協会」の方が日本でとおりがよいのはわかります。
    それにある程度一般的に広まってしまった名称だし。
    ただ、あからさまに間違った言葉が流布するという状況は、日本国全体の精神の健全という次元で非常に好ましくない。
    それに、ムスリムの方々に対して失礼だし。
    さらには日本国の無知を世界にさらしているようなもの。
    ここで肝に銘ずるべきは、誤っているからといって、正しさを理由にそれを排斥否定してしまってはいけないということ。
    少々の無理解に比べれば、この自己絶対化の害悪は比較にならないほど大きい。
    閑話休題。
    ところで、客観的に見ればやっぱりイスラムの法学者って聖職者ですよね。
    前提知識がない状態での日本国内での「聖職者協会」という呼称はやはり実態を妥当に表現しているんだろうと思います。
    内部的にその手の人々がいくら「萌え」を語ろうと、外的にはその現象が「発情」に過ぎないのと同じ理屈です。
    完全なる外的視点ってやっぱり大切です。
    ただ、自身の無知に安住しないこと・・・・・

    4/17
    胃から来るそうですが、腹が冷える(or痛む)と背中に強度の倦怠感を覚えます。
    どうしたことか。
    日本人3人解放と聞いて、「ちっ」と思いますた。
    このような些事は置いておくとして、非常に驚かされたこと。
    プレジデントブッシュがヨルダン川西岸の現状を公式に肯定。
    しかも何でも、民主党のケリー氏もこの発言を歓迎したそうですね。
    合衆国の2重の基準論もここにきわまれり。
    私がパレスティナかイラクの住人だったら、自爆テロに何のためらいも感じないだろうな。
    非常に暗い気分になった。
    普遍主義を標榜する人間が、どうして自身の不正に何の疑問も感じないのか。
    理解に苦しみます。
    つまるところ、ブッシュは普遍主義者でもなんでもないといただそれだけの事実か。

    4/14
    言論の自由とは、実に恐ろしい。
    件の日本人誘拐事件、終に親族が謝罪会見を開くに及びましたか。
    頭の悪い発言をすれば、相応の結果が帰ってくるということですか。
    ただ、虚偽の通報でタクシーを呼びつけるが如きは、あからさまな違法行為で許容の余地はないですにょ。
    言論の責任は言論でのみ負担すべき。
    それ以上の行為は、過剰反応を為す側の犯罪行為です。
    それに、今回のようにお母様が謝罪されるというのは実に痛ましい。
    悔いるべきは、自身の愚かをさらした若い連中のみ。
    言論の責任は、あくまで発言主体のみに限定されなくてはならないのに。
    結局のところ、残念ですが言論には言論以上の不利益を覚悟しなくてはならない模様。
    端的に、それも含めて責任と把握して自戒とすべきなのかもしれません。
    拉致された家族を思えばこそ、より彼らに厳しくその責任を肯定してしまうこと。
    これこそが結果として最も有効なのでしょう。
    肉親が生命の危機にあるなど、他人は考慮してくれないというもの。
    感情的になったら全てはお仕舞ですね。
    難しい。
    それほど思慮のある人間に、我はなることができるでしょうか。

    4/13
    自身の存在を肯定できるか否か、それが問題である。
    本日酒席がありまして、人と話してました。
    我より若いですが、結婚して子持ちの方です。
    自身を肯定できないならば、子もそのことを直感する。
    そしてそれは、子の成長にとって決して、決して行なってはならない行為なのだ。
    彼の言葉がこれでした。
    重みがある。
    責任ということの意味はそれか。
    彼自身、直接的な結婚の原因は避妊の失敗に過ぎない。
    しかし、それに何の咎められるべき点があるかと考えられるほどには、我も年をとってしまった。
    子を持つことによって成長するとは、こういうことなのだろうか。
    自身の肯定に古典に当たるのが我なら、子を作ったのが彼。
    そして両者に優劣はないのである。

    4/11
    ようやく旅行記録入力終了。
    字数にして63534字、原稿用紙160枚弱。
    文字数計測ソフト使ったのですが。ほんとでしょうか。
    あとはこれに写真を入れてHTML化。
    下手をすると、旅行に費やしたのと同じくらいの時間がかかるのでは・・・

    4/10
    今朝のNHK見てますと、こういうコメントが。
    「どうして自衛隊撤退が真っ先に選択肢からはずされたのか理解できない。」
    あの誘拐された方々の兄の発言ですにょ。
    日本は言論の自由が十分に保障されているので、何を発言なさるも御意のまま。
    そしてその内容によって、発言者の人品が図られるのもまた当然に自由の意味するところ。
    ドキュソ、馬鹿・・・・・
    これ以外の評価を下すのは著しく困難です。
    米軍侵攻とイスラエルの不当性を論じる。
    かりに米国主体の復興が為されてそれによって困窮から脱するイラク人が大多数であろうと、それは好ましくないのだ。
    このことを説得性のある言葉で述べるなら、我は自衛隊撤退も有効と同意しましょう。
    この作業を行なうことなく、最初の言葉を語るのみなら、そこに価値を見出す余地はない。
    親ならば、このくらいのことばはあってよいのではないだろうか。
    「あんな馬鹿は見殺しにしてください。」
    言論の自由というものは厳しいですね。
    スターリン体制化のような社会は、考えるということさえ放棄すれば、実は快適なのかもしれない。

    4/9
    旅行記はようやく2/3ほど入力終了。
    むしろ大変なのは、写真の配置を含めたHTML化と思われる。
    まだ作業は1/3終わったかどうか怪しい。
    日本人が3人イラクでつかまったそうで。
    なにやら犯行組織は、そこらのチンピラが勝手にアラーの名をかたっているだけの連中と思われる。
    つかまった方々、特に18の方は、思慮がふそくしていると感じるのは我だけではないだろう。
    その行動力は素晴らしい。
    我を100倍しても彼には及ばんと思う。
    でも彼はまだ18だろう。
    謙虚に政治や憲法やイスラームを学ぼうという意図はなかったのだろうか。
    それも分からないほど若かったということか。
    次の女性の方。
    銃で傷ついた人の前に銃を持ってたったのでは支援にならない。
    この言葉に自己絶対化の傲慢を感じるのは我だけではあるまい。
    草の根は大切であるが、国家レベルの政治が動かない限りは根本的解決は為されない。
    視野の狭隘を感じる。
    もっともそれも、役割分担ということか。

    4/8
    夕刊に、「地獄の扉を開けたのは?」という表題のパレスティナ問題の記事がありました。
    執筆された方がこの様に仰っていたのが印象的です。
    イスラエルの手法には反対だが、我はヤシンに同情しない。
    彼は説教によって、多数の若者が命を棄てることを賞賛し、そのように仕向けていたからである。
    ということです。
    論述によるならば、イスラームの指導者の多くが自身は安全な背後にとどまって幼いものたちを多数自爆テロにかりたてている事は許容の余地がないとの事。
    指摘を受けるまで気がつきませんでした。
    現状では被抑圧者はイスラム側という図式が完成していますが、そのイスラム内部にも階級構造があるわけですか。
    我々は原理主義勢力といえば、地元では病院・学校経営という慈善事業を行なっているものと思い込んでおります。
    ただ、おそらくその全く同じ主体が、テロリズムへと無知な若者を駆り立てているわけですね。
    (大学は愚か義務教育程度すら怪しいわけですから、ここは「無知」と評価してよいと思います)
    人に捨て身の闘争を呼びかけるからには、まず第一に己が死ぬべきというのが同義的なあり方と感じます。
    少なくとも、日本軍で「回天」を開発された方は自身が最初に搭乗されたんですよね。
    この文書を書いていて気がついたのですが、イスラエルやアメリカに圧迫される側を形容する適切な概念が存在しない。
    我は「イスラム原理主義」という用語は著しく不適切と感じています。
    テロリストや原理主義者で十分なのに、それをイスラームと形容することで無理に宗教と結合させているからです。
    無思慮の概念がイスラームへの偏見を発生させる、言葉の暴力ですな。
    でも今回のヤシンの場合、やはり彼は法学者であってイスラムの指導的立場なんですよね。
    政教一致の原則及び社会制度が未発達である故に、どうしても政治とイスラムが近い位置にある現実は否定できない。
    ここでどなたか優秀な方が、「イスラム原理主義」などに変わる新たな概念を提唱して欲しいもの。

    4/7
    母親が息子の睾丸を切除するという痛ましい事件があったそうで。
    新聞だと下腹部になってましたが、テレ朝のブロードバンドニュースは睾丸と明示してました。
    重要なのは、母親が幼少時から性的虐待を受けていたということ。
    遠因はそういうところにあるわけですか。
    深刻な問題ですね。

    4/4
    友人に素敵なものを教わりました。
    The Star of David Shurikenの通販サイトです。
    名前と写真が素敵なのですが、読み進めるにつれてその文書の価値が光ります。
    是非リンク先をご一読ください。
    以下、私訳を少々。
    ----------------------------------------------------------
    Individually Hand Made 私の手製です。
    from pre-stressed 100% recycled cardboard 伸ばしてしわをとった100%リサイクルのダンボール
    and high-tensile kitchen foil ,そして伸縮性のあるアルミホイルで。

    these ancient weapons are deadly accurate over a range of inches!
    この古代の兵器は恐るべき精密さを誇り、その誤差は1インチを超えることはありません。

    Harnessing 補強されています。
    the twin, balancing concepts of Yid and Yang 対極的相補概念である陰・陽
    The ancient Jewish Martial Art of Torah Torah Torah! 古代ユダヤの武術であるトラ・トラ・トラ
    (おそらくこの「torah」はユダヤの「トーラー」にかけてあるのだと思います)

    can turn you into a deadly Ninja warrior in Minutes!
    そして前述の補強は、あなたを瞬時にして恐るべき忍者闘志へと変化させます。
    No Pills! No elaborate exercises! No unpleasant bending!
    もちろん、薬も、面倒な運動も必要ありません。

    The Star of David Ninja Shurikenc R & O will, therefore, not be sold
    ダビデの星の手裏剣は、それ故に決して市販されるべきものではないのです。
    to anyone who overtly expresses the wish to maim, kill, or start any wars
    特に殺傷や武装闘争の意図を持つ人物には。
    in full compliance with International Arms Trading Law
    国際取引法を遵守するならばそれは当然なのです。
    (as interpreted by the British and US governments)
    (なお、ここでの国際取引法とは連合王国と合衆国政府の解釈するものです)

    For an infinitely limited time period
    私どもがこの恐るべき武器をお譲りできる期間は、無限に限定されています。
    the The Star of David Ninja Shurikenc R & O will be dispatched to your door
    ダビデの星をかたどった手裏剣は、あなたの家のドアに貼り付けられることでしょう。
    (勿論、ナチスのアレのつもりでしょう。)
    -----------------------------------------------------------------------
    全てがジョークですね。
    分かった上でのネタというのは実に楽しい。
    ちなみに、翻訳サイトで上記のサイトの訳を試みてみました。

  • excite翻訳
    なかなか面白い。
  • infoseek翻訳
    比較的正解に近いかも。
  • altavista翻訳
    気の毒になってきます。
  • nifty翻訳
    英文と翻訳文の双方が並べて表示されるので、もっとも実用的かもしれません。
    無料翻訳であるせいか、いまいち信頼性がひくです。
    どれも犬福以下ですにょ。
    やっぱり自分で読んでこそ面白いのかも。

    4/4
    旅行帰還後も、自宅工事によりしばらくネット接続が不可能でした。
    そのため20日間あまり、日記もお休みでした。
    北海道旅行の記録がA6サイズのノートにして3冊弱、写真が300枚教です。
    しばらくはこちらの記録をまとめる作業に取り掛かる予定です。
    日記は書ければ少しずつということで。

    千歳に降りたときの写真です。

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