日記5月
戻ります


5/31
本日のこと。
性同一性障害の案件が舞い込んでくる。
被害妄想が濃厚に混入した、言葉の通じない対象である。
そこから雑談に移行。
「今度生まれるなら、男に生まれることと女に生まれること、どちらがよいか?」
と各人が問われている。
私が尋ねられたとき、思わず口に出てしまった。
「そうですね、難しいですね。
生まれなかったら、楽でよかったかも。」
心の中にあるものが、自然と口をついて出るものである。
やってしまった。
皆、私などに関わってくれるのももったいないほどいい人たちなのに。
自分の言葉に、ひどく当惑してしまった。
自身の言葉にさらに自己の無資格性を強く認識させられる。
しかし、たとえどんなことがあろうとも、あの人の前ではこの事を口に出してはいけない。
果たしてそれが可能なのか。
人を傷つけるのは、自身が傷つくことなど比較にならないほど耐え難いもの。
私は何を求めているのだろう。

5/30
週末水泳を久しぶりに実践。
新しい水着と新しいプール、新しい水中眼鏡に新しい耳栓。
新生。
平泳ぎは全く問題なく体が覚えてました。
ゆっくりと手足を動かし、一旦四肢を伸ばしきる。
最大限に水を捉えるので、非常に効率よし。
隣の人のクロールよりも、まだ早く泳ぐことができる。
しかし肝心のクロールは、結構な惨状です。
全く水を手のひらが捉えていない。
しかも上半身の筋力が落ちているためか、腕を回すことそのものがつらい。
100mくらいが限界でした。
ということで、1000mを泳いでさっさと退散。
今後の課題は上半身の筋力強化と、手のひらで水を捉える練習です。

5/29
http://amanoudume.s41.xrea.com/cgi-bin/mt/archives/000155.html
なんだか、上のほうしか読んでませんが面白かったです。
世界は、少なくともビジネスは合理性にのみ基いて運営されるべき。
そして大局においては、合理性のみが消費者と供給者双方の利益を実現するの。
アダムスミスみたいな言説ですが、私はそのように信じてます。
「法」という体系と、同じ発想ですよ。
昨日は酒席が設けられました。
やきとり、久しぶりに食べたな。
2次会にて、帝京大卒なる若者と話した。
酒が入れば言説に抑制ができなくなる型の人間だ。
私は、学歴と頭のよさは無関係であると、規範的次元において理解したい。
ただ、時折それは理想論に過ぎないと感じさせられることがある。
昨夜の彼は、それだった。
この場合の「頭のよしあし」は知的能力を包括しつつ、よりおおきな広がりを持った概念と理解ください。
彼はファイル交換ソフトの是非について問いかける。
私はそれを一方的に否定する気はない。
かつてスーパーファミコンやアーケードゲームのロムを違法に所持し、エミュレーターで使用した過去もある。
その悪性において、我は非難されるべき側と何らの差異もない。
私の彼への答えは一つ。
「自身が支持すべきと認定した対象には、経済的支出をおしまない。」
彼はファイル交換の利便性についてしか、語るべき言葉を持たなかった。
その現象の意味を把握する知識と理解力もなければ、その次元でものを考えるという習慣すらないのだろう。
彼は経済学部卒業らしい。
財・公共財・フリーライダー・市場の失敗
私は「ミクロ」「マクロ」の単位を所持しているに過ぎないが、経済学の概念を用いて考えようとする姿勢程度はもっている。
彼はいくらなんでも、知識としては上述の単語程度はもっているだろう。
ただ、その知識そのものの意味を考えたことがないのだ。
頭が悪いとは、悲しいものだ。
自身がそれを認識できない点が、最大の悲劇なのだろうか。
哀れみを感じた。
「憲法学をまなべば、物事の意味を考える習慣ができるだろう。」
彼の帰りぎはに、この一言を宣告した。

5/28
数日前に講談社学術文庫のイエスキリスト上下の2読目を終了。
マタイ・マルコ・ルカ、それぞれの福音書の著者の思想傾向もおおよそ把握できるようにはなりました。
・律法の遵守の主張と、その成就者としてイエスを理解したマタイ。
・不可触民と同じ地平にたったイエスの実際の言葉と行いに目を向けたマルコ。
・悔い改めの契機を強調し、神の器としてイエスを理解したルカ。
三者三様、著しく矛盾しています。
著者の主張の受け売りではなく、自身で実際に根拠箇所を上げつつ、その論旨に同意を与えることができるようになりました。
少しづつしか読まなかったせいもありますが、この2冊でこれまでほぼ半年費やしたかな。
新約聖書中の個々の伝承は、それを担った人々の社会階層に応じ、その願望と価値観に見合ったものとなっているようです。
そしてそれらの大部分は、普遍から遥かに遠い独善の顕現そのものであることが殆ど。
しかしそういったものがあればこそ、当初のイエスの意図は何であったのかという方向に関心は向かいます。
よくまあ、これほど程度の低い思想の集まりを、「聖書」の名のもとに今日までたもってくれたもの。
その程度の低さは、人に思考を促すための装置である。
この逆説は、意図的にもうけられたのではないかという気すらしてきます。
3回目を読み終わったら、別の本に進もう。
閑話休題。
友人が今度おにゃのことあってくるらしい。
それ自体は何でもないですが、驚くべきはその事件の端緒。
メールを間違えて送ったことから仲良くなって、実際に顔を合わせることになったそうな。
(しかもふたりの居住地の中心を取って、2県先まで・・・・)
「何年か前に、You got a mailっていう恥ずかしい似たような映画があったよね」。
このように私は彼に言っときました。
人生万事塞翁が馬。

5/27
存在しようと思いました。
自身の存在に然りを宣告することは可能なのか?
実に難しい問題です。
外部の如何なる権威によってもそれは不可能なもの。
肯定の主体は自身のみです。
肯定に値しない人間であることをわきまえた上で、然りと宣告するための営為を積み重ねるしかないのか。
しかしこれは、営為を条件とした自身に対する然りの宣告であって、無条件での自身の肯定ではない。
難しい。
他人はその問題をどう考えているのだろう。
学べば学ぶほど、この問題は強大化して立ちふさがります。
もはや我に、思考の中断と放棄という甘美なる選択肢は残されていないようです。
マルティン・ルターとかパウロといった先人たちも、全く同じこの問題に囚われていたのだろうな。
とりあえず、泳ぐ。
体を動かす。
勉強する。

5/26
どうしても午前五時前には目が覚めてしまうのはどうしたものでしょう。
もはや起床時間をいじくるのはあきらめて、早く床に入る事にしようと決めました。
高校生のころに戻ったような生活リズムです。
昨日・一昨日と自転車通学を実行。
所要時間自体JRよりも早いのですが、それ以上に体を動かすことそのものが目的。
あと週一回ぐらい友人誘ってプールまで送ってもらって、週末は自分の車で行きましょう。
1年ぶりくらいで勉強しようかという気分もでてきたし、何とか生きて生けるかな。
鬱病って、回復期に一番自殺が多いそうですね。
なんとなく、解るような気がします。
昨日は素敵な昼食でした。
突然に友人を介して私に興味があるという面識のない人に呼び出され、ご馳走していただくことに。
素敵な冒険譚をいろいろと聞かせてもらいました。
「昨日遊んだ女!」とかいって、いきなり携帯の画像見せてもらったり。
何でも彼の職場のパソコンはその手の画像と動画でいっぱいらしい。
「あそこの女の生乳触った」とかそういう話の連続。
一番素敵だったのは、女にパンツ(ズボンの方)を買ってあげたという話。
「俺が買ったんだから、パンツは俺のものだろう」といって、パンツ(下着の方)に手を突っ込んだそうでした。
発想が短絡的で論理の破綻振りが素晴らしいです。
彼(多分40代後半から50代前半)を見ていると、生きるとか働くということの意味が実にわからなくなってきます。
相対化の視座として、非常に意味のある存在でした。
彼を最も評価しうるのは、次の一言。
「俺女と遊ぶの好きだけど、よく考えると俺が遊ばれてるんだよね。」
現実の認識たるやよし。

5/24
肉体の疲労ではなく、精神の渇きのようなものを感じます。
それは遍在するものなのかもしれません。
たまたま、意識に上っているだけのことなのでしょう。
昨日は、一人の人と話すことができました。
どことなく近寄りがたい雰囲気の人。
彼は東京理科大卒と聞いていたので、飯田橋のあたりを思い浮かべつつ、話しかけます。
何とか共通の話題はないものかなという、計算づくではありながらも、交流を求めての行為。
並びが偶然隣だったという機会を逃すまいという、痛ましいような行い。
それでも話が盛り上がることもできたし、次に合えば挨拶はできるでしょう。
私は変化したのか否か。
「社交的」と私は評されましたが、その実は如何に。
表層の変容は加齢に伴うものに過ぎず、内面は昔から孤独なままかもしれません。
ただ、外面(仮面・ペルソナ)と、自身が内面と思っているものに本質的な相違がないということも、理解するとしにはなりました。
本当の私というものは、出生の時点から未来永劫に到るまで、存在したこともなければ、今後とも生ずることはないでしょう。
飯田橋のあたりの外堀の桜はきれいだったな。
あそこで酒飲んでたな。
遠い日の花火のようです。

5/22
明日は「トロイ」の公開日ですが、仕事ですにょ。
来週にでも行こう。
インフォシークのニュースによれば、
「アキレウス率いる」ギリシャ軍がトロイアと戦うそうでした。
わかる人にはわかりますよねー。
新聞の報道によれば、こんな感じです。
本来「イリアス」には多数の神々が登場するが、「トロイ」では荒唐無稽となることを回避すべく一切神々の登場がない。
実に賢明な素晴らしい判断です。
これで書店店頭に、「イリアス」が並んだりするのでしょうか。
でも岩波文庫だし、指輪物語以上に苦しそうです。
個人的には、この映画を契機に阿刀田高氏の「ホメロスを知っていますか」が店頭平積みのベストセラー化を希望しています。
「実はブラピ演ずるアキレウスはマザコンだった!」
こんなショッキングな見出しが女性週刊誌に躍るもまたよし。
アキレウスはホモセクシャルの恋人をヘクトルに殺されて、お母さんの女神ティティスにこのように慰められるのです。
「アキちゃん、たまには女を抱くのもよいのですよ。」
以上阿刀田高氏談。

5/21
疲れているからといって早く寝ると、朝早く起きてしまうのが困ります。
10時ごろに寝ようものなら、午前3時起床確定。
しかも一回おきたら眠れません。
当日の疲労決定。
何とかたまに8時間くらい寝たいなあと願うところ。
インフォシ−クにメールを見に行くと、隣にO-netの広告が。
「あなたの結婚力相談します」なるものらしいです。
「君は一生結婚できないにょ。」とか診断されようと思って、試みに行ってみました。
結果楽しみにいろいろアンケートに答えていたんです。
ところが最後に、名前と住所が必須記入。
結局それかよ、という感じで退散でした。
ちっともサービスじゃない。

5/20
最近人の親切に頼って生きてます。
男女などどうでもよし。
人の心ってありがたいね。
そういえば二日続けて運転手付の自宅前まで送迎で帰りました。
みんなありがと。

5/19
昨日夕方、休みとって病院行きました。
ここ一月ぐらい、腹が痛いことが多かった。
しかも、たいして食べてもいなければ飲んでもいないのに、胸焼け状の症状が。
幸いにして、病院は内科なのにすいてます。
医師によれば、胃が荒れているのだとか。
ストレスたまってたのかな。
一番ひどい時期からは半年一年とずれているような気がします。
その時期のダメージが、間隔をあけて今になって具現化したのか。
はたまた最近は心は楽なつもりでも、相応のストレスを感じていたということか。
15度以上の酒がよくないということは、蒸留酒をストレートで飲んじゃだめってことでしょか?
薬局では、「薬の手帳」と称する、投薬記録手帳をもらった。
この手帳を見せれば、複数の病院による調剤を原因とする副作用を防止できるということなのか。
最近の医療サービスの向上も見事なものだ。

5/18
旅行記7日目まで完成。
意地でやってるようなきがしてきました。
昨夜は11時前に就寝してしまった。
東京にいたころだと、多分まだうちに帰ってない時間。
早く寝れば早く目が覚めるもの。
本日は3時過ぎに起きてしまった。
昨日は久しぶりに歩いた。
帰りに自転車ではなく徒歩、計5キロ程度か。
これも東京にいたころは毎日歩いてた距離。
とりあえず、歩くのはいいことです。
適度な運動に軽い肉体疲労、そして景色がきれいならなおよし。
沈んだ気分も明るくなります。
今日は帰りにプールに寄ってきてみよう。
できれば大学時代のように、週2くらいでまた泳ぎたい。

5/17
北海道旅行記は六日目まで完成。
朝早く起きたら朝食まで2時間など、かなり勤勉に作業してます。
今のところ12メガくらいになりました。
この計算で行くと、完成すれば20メガ超えることになります。
現在は一日を一つのファイルとし、そこに写真を挿入してゆく方式です。
この方法では、一つのページの容量が大きくなりすぎるという欠点が発生しました。
適度に一日行程を分割しなくては。
それに、ADSLの通信速度を無意識のうちに前提にしてしまってます。
閑話休題。
先ごろネットで見て初めて知ったことです。
世の中には、「死恐怖症」(タナトフィビア?)という精神疾患が存在するそうです。
ひどい場合には、精神安定剤の服用がないと眠れないほどになるとか。
こういった症例の人は、自身を肯定することができるのでしょうか。
全く問題意識の所在が異なると思いますが、この問いかけも許されてよいのでは?
私は死ぬのが怖くないな。
「私は死にたいの、欲しいものは絶望、虚無に帰りたい。」
この綾波の台詞に共感を覚えた人って、どのくらいいたのだろう。
とりあえず、マイナスの人間同士が惹かれあってはならないらしいことは直感としてわかる。
自身に然りを宣告すること。
そしてそれができなくとも、外部にそれを表出させないこと。
「自分を愛せない人間は、誰も愛せない」
この事実は否応なく学ばざるを得なかった。

5/16
祭りでした。
祭りといっても、ここは歴史のない住宅団地。
何を「祭る」(wait forの意)訳でもなければ、伝統があるわけでもない。
社会は多様化し、やることはたくさんある。
子どもは極めて少ない。
「祭り」など、根源において、持続させることがここでは不可能なのです。
なんだか、物悲しいものを感じます。
自身の加齢とは無関係な、社会そのものの老衰というべきか。
ここで祭りを作った人々。
彼らは何も地域の共通項がないことを承知の上で、それでも何とか人のつながりをと考えて祭りを始めたのでしょう。
そしてそれは30年あまりが経過して、社会の加齢とともに、夢が終わった。
せめて晴天なら写真でも撮ってこようかと思ったけど、ひどい雨です。
晴れならば、せめて出店くらいは出ているのではないだろうか。
そういえば、祭りの核となって各町内の神輿を集めた場所。
そこは地域のショッピングセンターの駐車場でした。
今では周辺に超大規模店舗の出店があい続いて、昔日の面影はありません。
友人にけんか山誘われてたけど、こっちも祭りだったし。
所詮伝統のないところに祭りを作るなんて、不可能。
人を集わせるという祭りの機能面に着目するならば、むしろ「祭り」という形態は放棄されるべきだろう。
その機能のみを特化させたものが、秋葉とか有明のあのサバトなんだろうな。
特定領域に関心を持つ人のみが集合する場。
個人的であり、反地域的・反共同体的であるところ。
共同体である必要はないけれど、何らかの地域の結節点を設けることは可能なのでしょうか。
そういえば上の友人が火曜に合コンもってきました。
「合コンって、合同コンサートですか?」って感じ。
そんなの何年ぶりだろうな。

5/15
公開処刑されたらしいアメリカ人。
通信事業の経営者らしいです。
客観的に考えれば、彼は帝国主義の一翼を担う侵略者そのもの。
脆弱な上に米軍によって社会資本の破壊されたイラクに乗り込み、一儲けしてやろうと。
この際に彼個人の動機はしらないし、それはどうでもよい。
大局的にみなせば、彼は侵略者であるというその事実のみが意味を持つ。
彼にはこのことが理解できなかったのだろうか。
私は正直なところ、あれは殺されても仕方が無いと感じました。
勿論殺害に正当化の余地はない。
ただ、自身の行為の客観的評価をなすことが彼はできなかった。
それがイラクの人々に、どれほどの不快感を与えるかも考慮できなかったといわれても仕方がない。
自らが普遍を標榜するものは、往々にして最も自我を絶対化する独善者である
あの国の現政権の政治姿勢をまさに体現するような人物だ。

5/14
気持ちのいいあめ。
そういう気分だったので、濡れて帰りました。
ちょっと精神状況改善。
2年ぶりぐらいで、すがすがしい気分。
本日帰りに、図書館にいってみました。
最後に行った図書館は、3,4年前の国会図書館か。
本を見ようと自分の意図でいったのなんて10年以上久しいかも。
最近の図書館って凄いんですね。
DVDやCDを初め、雑誌に、高校生少女が喜びそうな小説にマンガまで。
個人的にはフジコフジオA氏の「毛沢東伝」が大ヒット。
あの絵で毛沢東ですよ。
存在は確認できませんでしたが、シルクロードのDVDなどがあれば是非借りたいと思ったところ。
ところで、本来の目的は別の本。
(さらに本来の目的は、ゲーセンが休みだったので時間つぶし)
ブルトマン著作全集、1・2巻の「共観福音書伝承史」。
これは現在読んでる荒井献の「イエスキリスト」の方法論を確立したような、人類史上に残る偉大な著作らしい。
かなり興味を持ってましたので、連休に東京行った目的の一つはこの本の捕獲購入でした。
ところが、神保町の専門書店「友愛書房」店主に尋ねれば、絶版にして古書にも殆ど出ないとのこと。
やっぱ、地方の図書館で蔵書もたいしたことない。
東大の図書館がこういうときになって懐かしくなってきます。
国会図書館でも行けば確実にあろうに。
そういえば、どうも私本を借りるという発想が希薄です。
買っちゃいますね。
書き込みするし、読み返すし・・・・・・
それにやっぱり、読んだ本は手元に置きたいという原始的欲求があります。
でも、最近の図書館はすごいね。

5/13
微妙にちょっとづつ、北海道旅行記つくってます。
継続的に作業に当たるようになり、なかなか面白くなってきました。
メモ帳の文書をタグ貼り付けてHTML化し、写真もサイズを調整してそれにはりつけ。
いろいろと記憶がよみがえってきます。
いまのところ3日目がそろそろ完成しそうなところで、容量5メガ弱。
全体だと15メガは優に超えそう。
当初の5メガだと全くたりませんが、今は300メガ使えるし。

5/12
学歴と頭のよしあしは無関係である。
こう信じてました。
やはりそれは、希望であって理想論だったのかもしれないと否応なく感じるこのごろ。
一定の相関関係は否定できないような気がしてきました。

5/11
酒席にて。
女性と話しているとき。
「思わず惚れてしまいそうだよ。」
かかる言葉が自然と出てくる己を発見。
歳をとったなと、感じる瞬間。
確かに素敵な人だったんですけど。
そこに見出したものは、自身と同じものの発見。
恋愛感情ではなく、この女なら分かり合えるだろうという直感。
「欝」の傾向は、それを持たない人には理解が困難なものです。
・自身に価値を見出せないこと。
・何故に親は自分を生んだのかと、怒りに似た感情を覚えること。
・「俺なら生まれない方を選ぶよ」と、河童の選択。
・死ぬことだけを考え続けること。
そんな感じ。
欝には不思議なことに、「躁」というものがついてまわります。
いわゆる「躁鬱病」といわれるもの。
私は自分がダウンだけでアップが無いと認識していますが、外面的にはそうでないらしい。
・言葉には自信がある。
・物怖じしない。
・快活で話が面白い。
不思議なものです。
これは活発などというものではなく、虚無的なだけなんですよね。
刹那であることを痛いほど認識しつつ、刹那の享楽をあえて選択してるだけなのに。
口で笑いを取ろうと、心の中は地獄に囚われている。
「これが演技であることぐらい認識できないのか」と、感じてる。
そしてそれが理解できない人には、関わりあう価値は無いと心の底で感じている。
これが欝の傾向ではないかと、自分の症例を見て思います。
虚無の表出が、端からは躁にみえるだけなのかな。
今日は午後から久しぶりにひどいうつ状態だったので、この事を思い出しただけです。
私が話した女性は表面的には奇人だった。
躁状態なだけとのこと。
彼女の来歴を聞けばその確信も取れる。
欝の人間同士が結婚すると大変なことになりそうです。
同時に欝が悪化したら・・・・・
性的欲求に身を委ねた後に、ともに死にそうだ。

5/10
会話にて。
自分の発言が通用しないこと。
より適切には、中心となるべき単語を相手が知らないことによる会話の中断。
絶妙に物悲しいです。
皇室の話をしてて、紀宮さんはどうかという展開。
彼女は「斎宮」になればいいよ。
私がこのように言うと、誰も理解してくれなかった。
源氏物語・斎宮・六条の御息所これって高校で習ったような。
誰でも知ってると思ってたのに。
ラテンカップルを発見して、ラテンのリズムだねーという話題。
でも、ローマ帝国を築いた人々も、ロドリゲスも、おんなじラテン人なんだよね。
このように私が言うと、やはりまた理解されなかった。
「ローマ帝国」って誰でも知ってるわけじゃないんですね。
ちょっと悲しいにょ。
調査してみたところ、その場の3人は誰一人歴史を履修していないことが判明しました。
にょ、にょ、にょ

5/9
連休の消費の帰結その弐。
「パカパカパッション2」「パカパカパッションスペシャル」のサウンドトラック。
計6000円、秋葉で見つけて即レジ。
この曲聴いて車に乗るのは、非常に危険なような気がしてきました。
気がつけば30キロオーバー、指はハンドルたたいてる。
閑話休題。
昨日3年ぶりぐらいで登山。
山はよい。
同行の友人と、「B’z」のヴァンパイアウーマン・タクシードライバーの歌(このベレーは制服じゃない)の話で盛り上がりました。
いつの歌だか。
B’zが好きな人にしてみても、やはり最高評価は「in the life」らしい。
いまのファンはそのような曲がもう一度聴けることだけを願っているのだとか。
彼は力説していた。
そこまでしても支持される曲を一度でも生み出せたB’zの彼らは讃えられるべし。
彼と「いつかのメリークリスマス」について話してました。
いろいろな解釈はあると思います。
特に優れた作品ほど、多様な解釈の余地を残しているもの。
彼とあの曲については見解が一致しました。
「いつかの」メリークリスマス。
いつまでも手をつないで「いられるような気がしていた」。
「人を愛するということに、気がついたいつかのメリークリスマス」。
過去形で語られてる。
全てが終わったあとで、「彼」はその意味を悟った。

5/7
連休の消費の帰結の一つに、「式神の城U」攻略DVD。
ニーギ2式、ロジャー2式、ちびふみこ2式。
この三つは凄い。
ゲーム本編持ってないのに、それより高い(6000円)もの迷わず購入しちゃいました。
初めは要らないと思っていたけど、思いのほか素敵なおまけがありました。
本DVDは各キャラのストーリーデモが収録されてます。
これが面白く、デムパなストーリーが堪能できます。
作業中の背景に流しておくに最適。
意味のわからない単語を連発すれば、それで妄想を高めて楽しんでくれる方もいる。
そしてその浅はかな頭の悪さを楽しむこともできる。
それにしてもあの4−2ボスのイタさはたまりませんな。
閑話休題。
次に公開される「トロイ」は猛烈に楽しみです。
トロイそのものは、紀元前1200年ごろのトロイア戦争が主題。
ホメロスとされる人がその戦いを叙事詩にまとめたもの。
戦い、情熱、倫理規範など全ての総体です。
ところがこの話、かなりけったいな逸話を多数含んでいます。
それは勿論、オリンポスの神々がこの物語に干渉するから。
ギリシア古来の神はギリシャ方に、小アジア方面の神格はトロイア方について神々の争いを繰り広げてくれます。
そもそも戦争が始まったのは、「人口が増えすぎたにょ」とゼウス様が思ったから。
そして開戦のために、トロイの第二王子パリスに「ヘラ・アテネ・アフロディテ」の中から最も美しい女神を選ばせました。
どの女神を選んでも、他のふたりが怒って戦争になるという筋書き。
「世界で最も美しい女を妻にさせる」という提案をしたアフロディテをパリスは最も美しいと選びました。
そしてその「世界で最も美しい女」はギリシアの盟主の弟「メラネオス」(名前が違ったような気がする)の妻である「ヘレネ」。
トロイからの使節として訪れたパリスは、この「ヘレネ」を拉致してトロイに帰りました。
このヘレネ、どう考えても積極的にパリスについていってます。
ヘレネは絶世の美女(ゼウスの娘)なので、ギリシア中の有力者が彼女に結婚を申し込んでいました。
誰をヘレネの夫に選んでも将来の禍根となることを恐れた父(多分育ての親)は以下の条件を、ヘレネの夫に名乗り出た人々に課しました。
1、ヘレネ自身が夫を選び、その選択に従うこと。
2、将来ヘレネを奪うものがあった場合、全員が団結して略奪者を倒しヘレネを夫に戻すこと。
この2番の条項が生きていて、ヘレネを奪ったパリスの祖国トロイアに、全ギリシアの勇者が攻め込んで行くのでした。
以上が開戦のあらまし。
ゼウス様の意図が深遠すぎて、回りくどい。
しかもヘレネ夫志願者の第二条件は、どう考えても開戦のためにあとからとってつけたと思われます。
そもそもこの開戦譚自体が、複数の逸話を結合させたとしか思えません。
「パリスが棄てられる逸話」
「パリスが世界一の美女を妻にすると川の神に約束される逸話」
「エリニュスがアキレウスの父の婚姻に呼ばれなかった逸話」
「ヘレネの誕生の逸話」
「ヘレネの結婚の逸話」
「パリスが3女神から一人を選ぶ逸話」
「パリスによるヘレネ略奪の逸話」
直接の原因を考えても、この程度が思い浮かびます。
(さらにギリシャ方の各武将の逸話をくわえると・・・・)
一つの話からもう一つに向き一に拡張してゆく古代の物語形式って素敵だな。
ということで、「トロイ」は下手に映画化すると神々でいっぱいのお笑いファンタジーになってしまいます。
こういう人間のニーズは一切無視しないといけません。
ブラッドピットがかっこよく、人間の戦いを演じるのがベスト。
間違ってもオリンポスの神を登場させてはいけない。

5/6
「PASSION」を観覧した。
その私個人の印象をここに。
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そちらによると、こういったストーリーです。
イエス・キリスト最後の12時間。
「パッション」は新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書の記述を基に構成された物語。
以上。
西暦30年ごろの4月頭のエルサレムにて、イエス氏がタイーホされて鞭打たれて処刑されるお話でした。
休日の初回の上演、しかも大ショッピングセンター内のシネマコンプレックス。
それであって人影はまばら。
20人くらい?
まず総論として。
「知識を持たない状態の方が、この映画の内容を正等に評価できるのではないだろうか。」
このように感じました。
本作は12歳以上対象と年齢制限が為されております。
それは端的に、イエスの鞭打ちのシーンが余りに痛々しいから。
「古代ローマの鞭は、先端部に金属片がついていた。
それでぶたれると、皮は引き裂かれ肉片が飛び散り、骨がのぞいたそうである。」
このような説明を読んだことがありますが、まさにそのような鞭が再現されておりました。
目を背けたくなった。
衝撃の度合いで言えば、「量産型のエヴァに捕食されるアスカの2号機」といい勝負。
ともかく、知識がない状態ならば、この映画の場面をそのままに評価することができます。
イエスを鞭打ち続けるローマ下級兵卒をみて、人間の残酷さをストレートに受け止めるでしょう。
そしてゴルゴダに向かうイエスをあざけるエルサレムの住人を見て、弱者をあざける己の姿を見出すはずです。
あの場面は人間の残酷さを理念的に描いた神話的描写である。
このように感じるはずです。
いえ、本当にあまりの痛々しさに、私涙がでました。
周囲からも泣き声が聞こえてきた。
(尤もこの解釈は、神話学の考え方が濃厚に現れているので、自然かと言われると疑問が伴います・・・・)
ところがやっぱり、この映画はそこまで素直に行きません。
キリスト教に基くイエスを提示している、これに尽きます。
イエスという男が、2000年前にエルサレムで処刑されたことだけは、確実な事実でしょう。
キリスト教は、このイエスを「キリスト」と同定し、彼の言説を復活信仰と贖罪信仰で置き換えて行きました。
この「パッション」で濃厚に表れるのは、贖罪信仰です。
すなわち、キリストは万人の罪を贖った、というもの。
劇中にイエスは自らの死が人類の罪の贖いであることを、その生前に何度も口に上らせます。
確かに福音書中のイエスが受難予告を何度も繰り返しており、それを映画化したのだから当然といえば当然のこと。
しかし受難や贖罪の預言発言は、全て後世の教団によってイエスの口に押し込まれたもの。
どうも贖罪信仰の知識があると、あのイエスの鞭打ちの場面を素直に評価できなくなるような気がするのです、
「キリスト様は、私の罪のために鞭打たれているのだ」
「キリスト様は、ああやって私たちの罪を贖って許してくれるのだ」
こんな感じです。
ドグマ(この場合はまさに「教義」という意味)が頭の中にあれば、その方向でしか現象を把握できなくなる。
監督のメルギブソン氏はカトリックだそうですし、本作の目的は「信仰のキリスト」を提示することにあるのでしょう。
それはそれで、尊重されるべき目的なんですよね。
とりあえず私個人の感想としては、「前提知識はない方がよい」で以上。
次はディテールを。
メモ帳を持っていってメモとりながら見てましたので、結構記憶に残ってます。
・まず一番驚いたのは、映画が全てアラム語とラテン語で進行していること。
それに英語の(日本語も)字幕がつくんです。
何でも英語にしないと気が進まない国民性かと思いきや、彼らにとって聖なるものには敬意を払っているようです。
自分たちに聖があるなら、他民族にも同様に聖があるのだと考えないのが一大欠点か?
とりあえずアラム語でイエッシュホァ(イエス)・メシアハ(メシア)という単語が聞けたのはうれしい。
ピラトもしっかりラテン語で「エッケ ホモ」(この人を見よ)と有名な一言を言ってくれます。
・誘惑者としての悪魔が登場。
キャストに「SATAN」があったので間違いないです。
途中で悪魔が抱いていた気持ちの悪い赤子は何だろう?
・マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4福音書をベースにした、と公式サイトにはあります。
しかし殆どマタイ・ルカという都合のいい部分ばかりが目立ち、マルコなどは意図的に無視されていたのではないかな。
最後は「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」とマタイから、「霊を御手に委ねます」のルカへ。
ローマの百人隊長の「まことにこの人は神の子であった」の宣言ない。
・聖書の表現が妥当でない場合は改めていました。
敵を愛しなさい、自分を愛してくれるものを愛したところでどのような報いがあるでしょう。
この部分は原典では、「収税人(異邦人、罪びと)すらそうするではないか。」が敵を愛しなさいニ続いていました。
イエスの処刑を要求するユダヤ人の「その血は我等とその子孫の上に」という発言部分が採用されていませんでした。
・ユダの描写が好意的で、決して彼が一方的悪人にはされていない。
以上は原作を知っていれば気がつきそうな部分。
ただ、原作を知らなくともストーリーの理解には関係ないと思います。
人間関係だけは、原作知識が必要かもしれません。
かなり細部まで再現してありました。
時々拷問中の場面に回想シーンが出てくるのですが、ここは原典の知識が無い解らないでしょう。
エルサレム入場の棕櫚の葉の上をイエスがロバで、「ホザンナ」と讃えられながら進む場面とか、字幕解説あったほうがいいのではないかな。
もう一度感想に戻ります。
やはりあの映画だと、どうして十字架で死ぬことが万人の罪の贖いになるのかさっぱり解りませんでした。
イエスの言説と贖罪信仰は本当に結びつかんです。
それに「罪」とは何であるかの説明が全くなかったし。
あいまいに考えるからこそ、イエスが自分の罪を背負ったことになるんですよね。

5/5
夢の終わり。
私はここにいてはならないのではないだろうか。
10年余りをすごした地であるはずが、このような感情を抱いたのは何故だろう。
閑話休題。
渋谷の駅前で広告を見て、初めて5/23に「トロイ」の公開があることを知った。
昨年から製作中であることは知っていたものの、これほど公開が早かったとは。
実に楽しみにしている。
主演はブラッドピットさんらしい。
私は彼に好感を抱いているが、一体彼はどちらの役なのだろう。
アキレウスか、もしくはヘクトルか。
この「トロイ」はホメロスの叙事詩を初めとした、いわゆるトロイア戦役を題材とした映画らしい。
原作付の映画の場合、原作を知らない人が楽しめる作品とすること。
最近はこれが至上命題であるように感じるようになってきました。
まだ足も生えていなかったころの私は、このように考えていたものです。
「知らないやつが悪い。自身の無学を責任転嫁するな。」
ひどいですよね。
知識教養そのものは価値中立的。
それによって自身を立てて他者を差別するなら、むしろ害悪です。
今回の場合なら休日の貴重な時間を、2000円近くも払って映画を見に来てくださる方に、あまりに失礼というもの。
・・・・
そう理想論を述べても、実際のところ対象の拡大は内容の低下を招く傾向もあるのが否定できないものです。
素直に映画の宣伝の際に、このような告知を入れるべきでしょうか。
「原作のある程度の知識がない方は本編を理解できない可能性が高いです。」
一番実現可能性がなさそうな解決策でした。
しかしトロイア戦争なら、作りようによっては万人が楽しめるものとすることができるはず。
古代人の一大娯楽だった叙事詩ですからねー。
ということで、「トロイ」は大変に期待してます。
本日は「パッション」を見てくる予定。
否応なく対象を限定せざるを得ない作品ですが、それをどこまで普遍化して描いているかが一つの見所。
何でも「マタイ福音書」をベースとしている点で非常にユダヤ人からの反発が大きかったとか。
明日は感想を詳細に。

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