自然科学、体細胞クローン

5/28
しばらく前にニュースで見ましたが、クローン技術で誕生した牛は胎児段階もしくは出生直後に死亡することが多く、その死因は遺伝子の働きによるものだそうです。
(生体現象の全ては遺伝子の発現ですから、この記述は無内容でした。)
しかるべき段階に適正な遺伝子が機能していないのだそうです。
不要なものが発言していたり、必要なものが休眠状態だったり。
現状のクローン技術は、受精卵などの殻を除去したものに、生体の遺伝子に何らかの活性化措置を施したものを注入しているはずです。
ということは、クローンといっても核酸が一致しているのは核内のDNAのみ。
ミトコンドリアなどの、その他の細胞小器官の遺伝情報は別個体(元々の卵細胞)のもの。
自分は詳しいことは知りませんが、通常細胞にはミトコンドリアだけでも2000個以上が存在するとNHKの番組で昔聞いた記憶があります。
細胞内の核酸の総量の内、核以外の部位に存在するものはかなりの割合に達しているのではないでしょうか。
クローン技術は、人間でいえば体はそのままで脳味噌だけ取り替えたようなものだと思います。
このようなものが全体との調和がとれるはずがありません。
クローンがうまくいかないのも当然だよ、と思います。
これは現行技術の問題なので、いずれ完全なクローンの作成も可能となることでしょう。
ただ、自分的にはこれは許容すべきでないと考えます。
数年前に、ブタに人間の遺伝子を注入し、パーツを作成させ(臓器などです)、医療用に利用するという技術が実用化されていると聞き、ずいぶんと衝撃を植えた記憶があります。
人間は互換パーツによって構成される存在ではない、全ての器官が全体として一つの存在を構成し、それそのものとして尊いものであると思います。
現状のクローン技術の目的の一つに、医療用というものもあったはず。
私がクローン技術に対して抱いている危惧感は、この人間の尊厳という観念を危うくするところにあるのでしょう。
ただ、クローン技術といっても様々。
コピー人間を作るというSFまがいの馬鹿らしい事ばかりではないはずです。
幹細胞からの、生体器官の再形成。
純粋に科学的にも興味があることですし、大変に有用な技術です。
ではこれが先に自分の書いた、人間のパーツ化という現象と何が異なるかというと、その限界を画することは困難でしょう。
少々話題が変わりますが、私が同じく好まないものが臓器移植(脳死体からの摘出によるもの)です。
これなどは、他人を活かすために他者を擬製するという考えが見受けられ、しかも死体はパーツに過ぎないという考えが明白だからです。
自分はそこまでして生きたいとは思いませんし、臓器を摘出されるのもいやです。
(臓器移植拒否カードというものを自分は常に携帯しております。)
人には一個の生命として、死ぬべき時というものがぞんざいすると思います。
(この考えは自分の深い関係者が移植を必要とするときにも同じ態度の貫徹を要求しますが、それが自分にできるかというと自信はないです。)
臓器移植、クローンを含めて、人間の尊厳に対する侵害なので自分は嫌うのです。
ただ、先ほども言及しましたが、「人間の尊厳」とは何かを定義することは不可能でしょう。
もともと内容のない、観念に過ぎないはかないものです。
それを信奉し、絶対視すること、これは一つの価値判断に過ぎないわけで、人間のパーツ視と優越を客観的に判断することはできません。
生命の自然のあり方に即することが人間の尊厳だとは思いますが、今の人間が自然に即しているといえるのか、そして自然のあり方に何らかの意味はあるのか、という疑問は当然に存在します。
無内容であるが故にこそ、人間の尊厳は保たれるべきと思います。


戻ります
inserted by FC2 system