文化、スポーツ

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ワールドカップか始まったからなのでしょうか、昨夜の渋谷は物々しい警備でした。
霞ヶ関(特に東京地裁)の前のように、多数の護送車と、警察の方が立っていらっしゃいます。
原因で暴動でも発生したら、それはそれで楽しいことと、無責任なことを考えてしまうものです。
私自身は正直なところ興味がないのですが、きっと盛り上がればそれはそれで楽しいことでしょう。
お祭り毎に興じることができるのは、できない自分にとっては少々うらやましいことではあります。
そういえば私Jリーグも含めてテレビでサッカーの試合を見たことがありません。
野球よりも面白そうと思いつつ(攻防の展開がはやいので)、一度もじっくりと見たことがありません。
(最近は野球も選手を知らないのであまり面白くないですが)
国際スポーツというものは、どうにも「ナショナリズム」(この用語は適切でしょうか)が目立って好感が持てないと思ったものです。
「日本」という名称がチームと国家で共通なために、チームに向けられた情熱がそのまま国家として結合してしまう点に、違和感を感じると申してよいでしょうか。
ただ、近代スポーツはその成立の当初から国家という要素と密接一体の関係をなしてきました。
ナポレオン戦争で敗戦後のドイツにて、ベルリン大学総長のフィヒテがドイツ民族の統合のためにサッカーの利用を試みたことが、国家とスポーツの結合の始まりと聞きます。
ところが一方で、アルゼンチンのペロン大統領(エヴァ・ペロン、エビータの夫)は独裁政治において国民の不磨をそらす手段としてサッカーを利用していました。
(自国チームの敗北が政治への不満と直結することを彼は理解していたので、自国チームの国際戦参加を禁じていたそうです。)
この点、ローマの剣闘試合とにていますね。
詰まるところ、スポーツはいかようにも利用でき、価値中立的なものであるということでしょうか。
やはりスポーツは実際にやって心身を鍛練し、楽しむもの。
行為自体に意味があるのであって、何らかの目的のために存在するわけではありません。
(このあたり、シューティングなんかとおなじとちょっと思いました。)


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