文化、古事記、神話

10/5
古事記日記の続きです。
この手の神話伝承ですが、私のようにある程度の物好きになってしまうと、読み方が少々奇妙な者となってくるようです。
まず外国の伝承との比較、これは常に意識していますね。
これでもっとも有名というか不思議なのは、イザナギが妻を追って黄泉の国に下った話と、ギリシアのオルフェウスが妻を追ってハーデスに下った話の関係でしょう。
1,死者の国は地下にある。
(別次元ではなく、同じ世界内にある)
2,死者の国のものを食べた人間は、再び現世に戻ることができない。
(これはオルフェウスではなく、ペルセポネーの逸話)
3,死者をのぞき見てはいけない
(この世の手前で妻の死相を見る点が共通)
国があれほど離れているのに、どうしてここまで似通った話が生まれるのかは不思議なものです。
でも、1番は素直な発想ですよね。
この我々の世界とは別の世界がある、という発想の方が高度な抽象化を経た後の概念です、
2番は何なのでしょうねえ?
「食べる」という行為に宗教的な意味付けがある、これ以上のことが私には解りません。
3番は純粋に、「死者は蘇らない」という事実を文学的に表現したのみの事でしょう。
このように分析的に考えるならば、説話の内容が共通するのも当然、との感もあります。
そして神話伝承を読む際に意識していること乃一つに、「起源神話」というものがあります。
何のことはなし、物事の由来を説明しようとする物語です。
「神話」の中心的機能は恐らく、この側面にあると断言してよいでしょう。
科学的ではないが、当時の人間理性において納得のゆく形で物事を説明したもの、これが「起源神話」です。
言語による世界の再構成、この意味においてこそ「神話とは合理主義的試みである」という逆説的な言明が生まれるわけですね。
例えばヘブライ伝承の7日7晩での世界の創造、これは世界の創世を説明するための神話です。
そしてイブに知恵の実を食することを進めた蛇が神に呪われ、「今後お前の子孫は地をはい、埃を食するであろう」といわれたのは、ヘビに足がなく、地をはうことを説明するための神話です。
(ちなみに創世記には、「これ以後ヘビは足をなくし、地をはうことになった」との記述があるのですが、反対解釈をするばらばこれ以前のヘビには足がはえていたのでしょうか。私的聖書最大のミステリーです)
実のところ神話は様々な文学的脚色が施されていることが多いですが、その主体はごく一部の由来説明にしかない、という場合は往々にして見られます。
古事記の場合も、実にこの起源神話がおおいです。
そして神話といえばもっとも目立つのが、政治的意図でしょう。
そもそも政治的意図がない限りは神話が体系だって編纂されることはありません。
神話において神々のヒエラルヒーが存在することは、明白な政治的意図の産物です。
最上位の神が征服民族のそれ、下位のものは被征服民のそれです。
被征服民の神を自己の神話体系に取り込む(例えば主神の「子」としての地位を与える)ことは、統治戦略上有効なことでしょう。
古事記の場合も、うまいことに当時の豪族の氏神などが盛り込まれていますねえ。
神々に序列がある、このようなランキング敵発想こそがおかしいわけです。
長くなってしまったのでこのあたりで続きです。
ウィズ7もまた今度。


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