文化、もののけ姫

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昨日帰宅直後にテレビをつけると、「千と千尋の神隠し」の最後の場面が写りました。
私はこの映画は劇場で2回見たのですが、正直なところさほど面白いとは思いませんでした。
決して悪い作品だとは思わないのですが。
なんといっても、あまり考えることがなかった(解釈に頭を使うべき場面がなかった)からです。
ファンタジーなんですね。
ファンタジーは子供に夢を与えるという意味で、中学生くらいまでは楽しめると思います。
白日夢なんですから、純粋に意味のないことなんですよね。
そこにおける規則性なんて、突き詰めて行くとD&Dに至るだけですから。
私が宮崎はやお映画で一番傑作だと思うのは、「もののけ姫」です。
この作品は構造を考えて行くと、神話的であると評価できます。
最後に「ししがみ」はまさに偶然の出来事であるかのように殺されます。
しかしそれは単に演出上物語を盛り上げるだけ、実際はかの神は死ぬべき役割を負っているだけのことです。
現実の日本の歴史において、神は人に敗れて死んでいった、そのことを象徴的に表現しているに過ぎないのがあの場面の意味だと私は考えています。
ともかく、こういう解釈をじっくり考えて行くのが物語りの面白さではないかと私は考えます。
どうも宮崎はやお監督の映画は新しいものになるにしたがって、巨大市場を目指して内容の単純化がすすんでいるようです。
ともかくファンタジーが市場で高い評価を受けるこのご時世、ファンタジーの意味をじっくり考えてみてもよいのではないでしょうか。
歴史的には奇妙なことに、神話からファンタジーへと推移して行くようです。
歴史的には、ファンタジーの登場はルネサンス以降の合理主義の流れの反動として18,19世紀ごろのヨーロッパになるのではないでしょうか。
それ以前はずっと神話の時代であったはずです。
理性と合理主義の反動としてファンタジーが生まれたように、日常生活が合理性で規定される現在であるからこそその反動としてファンタジーが隆盛するのかもしれません。
それすら市場という合理性の塊によって利用されているのが皮肉なところです。


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