文化、ラブクラフト

2/24
少々忙しい日が続きました。
こういうときでも列車の中では本を読みます。
なぜか再び、ラブクラフトを読み返しておりました。
今回のモルモットは全集大巻。
あの「時間からの影」で大いなる種族の存在がほのめかされる巻です。
とりあえず今のところ、「大いなる種族」を読み終わり、最初の短編3つほどを読みました。
(通算4度目くらいの読み返し?)
最近気が付いた、ラブクラフトの文書の特徴です。
それは一言で言うと、「稲川淳二そっくり」ということでしょう。
つまり彼は、さまざまな形容詞、倒置方、などを用いて必死に恐怖を伝達しようとします。
そしてその結果はというと、これまた怪談よろしく、ちっとも怖くない。
しかしながら、われわれ読者は物語がまったく怖くないことを重々承知した上で、ラブクラフトの技を楽しんでいるのです。
過剰な文体装飾、美辞麗句、などなど行き過ぎの感はありますがやはりこの文章はすばらしい。
(形容過多な部分をも含めて)余人の及ぶところではない、このように思います。
彼の物語内容面で思ったことを少々。
彼の描く恐怖のイメージの核心は、時間や空間を超越したところには人知の及ばない大いなる力を持った存在する、という点に集約されるでしょう。
本巻「時間からの影」によれば、この地球上にも大いなる種族のように、何億年も前に人類よりもはるかに偉大な知力体力文明をもった存在があった、という点です。
これに対して彼の作品の主人公とも言うべき人物の取る対応は常に同じ。
最初は自らの目にするものを錯覚や記憶の影響として退け、自分の精神以上が驚異の原因であると理解しようと勤めます。
しかし物語が進んで実体的証拠を数多く目にするにつれ、自分の目撃したものを事実であると受け入れるようになります。
彼の中での地球上唯一の最高種族としての人類、という観念は音を立てて崩れます。
人間を超越する実態がこの世には存在し、その前には人類の存在は風の前のチリのようなものに過ぎない。
幾多の逡巡の末、主人公はこのように悟るのでした。
これがラブクラフトの用いる手法なのですが、彼の恐怖の前提には、人類至上主義ともいうべき価値観を共有していることがあります。
つまり、それがないならば宇宙の深遠にどんな驚異が生存しようとも、それはまったくの驚異ではない、ということになります。
そもそも地質年代で考えたところで、地球の誕生から46億年、人類はここ数万年、宇宙のスケールと地球のそれしかり。
ある程度の知識をもち、普通に考える人間にとっては、人間など至上の存在であるはずがありません。
むしろ人間が最上と考えるのは傲慢というものでしょう。
だから結局、ラブクラフトの話は前提条件の次元で、少なくとも私は怖くない、ということにあります。
私にとってのラブクラフトの魅力は、なんといってもその奔放な想像とイメージにあるといってよいでしょう。
だから彼は恐怖の物語を書く人ではなく、私にとっては「ファンタジー」の作家なのです。
少なくとも「指輪物語」よりははるかにイメージ豊かな作品なんですが。


戻ります
inserted by FC2 system