宗教、隠れキリシタン

9/14
先ごろ、「隠れキリシタン展」なるものを観覧しました。
場所は四谷のイグナチオ教会、近くを通って展覧会の看板を見かけたまでのことです。
隠れキリシタンといえば、九州の島嶼部で幕府の弾圧下、少数の信徒たちの間で連綿と受け継がれた信仰。
遠藤周作氏の著作が詳しいです。
祈りを「オラショ」(ポルトガル語のオラシオ?)、神を「デウス」などというのが有名なところでしょうか。
その信仰の文物(宗教画、祈りのビデオなど)が陳列された、会議室一室に収まりきる程度の小さなもの。
「キリシタン」といいますが、その実を見れば祖先崇拝や檀家仏教と混合した大きく異なるもの。
「受胎告知」などの聖書の逸話を描いたものですが、幼子は「ちょんまげ」つき、(決して描かれるはずのない)神は「ひげ親父」などなど。
敦煌バッコウ窟に描かれた「飛天」の絵などがイメージとして最も近いでしょうか。
幕府の弾圧があるので一見仏教画のように描かれたという事情はあるのですが、もはや本質を留めていない程度の変容とも評価可能です。
遠藤氏の著作に拠れば、幕府の側では「隠れキリシタン」の残存を把握していたそうです。
もはやそれがキリスト教徒は「似ても似つかぬもの」(原文ママ)に成り果てている。
よって、封建秩序に影響を与えるものでないと判断して、放任していたそうでした。
(幕府のキリスト教担当官僚は基本的に学識者であり、かつて洗礼を受けたものも多かったらしい)
このように、客観的には「異質で異端な」むなしい信仰、とも評価される習俗が「隠れキリシタン」。
しかしそこで、信徒の方へのインタビューの模様がビデオテープで流されておりました。
「世界に向かって訴えたいことは?」との質問に対し、次の答え。
「このような信仰があることを、世界の人にわかって欲しい。」
おそらくは幕府から弾圧を受け、明治維新後にはキリスト教会から異端として非難されてきたであろう信仰を持つ人の言葉。
誤った信仰、などと断言することが高慢この上ないと考えさせられる言葉でした。
対象は何であれ、彼らは信仰を持った尊い方々である。
私は信仰を持たない人間ですが、イエスならばこの様に評価されたのではないでしょうか。
いずれにせよ、1300円払った東京国立博物館の「アレキサンドロス大王と東西文明の交流展」よりはよほど有益な体験でした。


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