政治、司法、宅間守

9/27
本日の美の巨人たちは、アルブレヒト・デューラー。
彼の銅版画を見ました。
あれは狂気に近い創造行為。
圧倒的な美に接するとき、人は畏怖を覚える。
閑話休題。
宅間守氏の死刑が確定したそうで。
彼を見ていると、地獄というものがよくわかるような気がする。
自己閉鎖による隔絶こそが、地獄の真の意味なのだろう。
彼は死によりそれを終わらせることを望んだ。
どことなく、わかるような気がする。
この様な事件があるたびに、それを弁護する行為に非難が寄せられる。
「あのような犯罪者は死すべきであり、弁護するヤツは頭がおかしい。」と。
一般の方がそのように考えられるのは、十分に理解できる。
問題は、大多数の報道機関の側にある。
彼らは、意味を理解しているにかかわらず、真相を語らない。
宅間守でさえ弁明の機会が与えられるということは、法体系そのものを守ることが目的になっている。
そして体系を守ることは、究極的に人権保障を目的としたものであるはずなのに。
この刑事手続きが守られなかった戦前において、特別高等警察等のどれほどの人権蹂躙があったことか。
それ故に、刑事訴訟法にとどまらず、日本国憲法そのものが31から40条に刑事手続きの規定をおいている。
何故報道機関は、この最重要事項を語らないのか。
視聴者は理解できないからと、馬鹿にしているのだろうか。
確かに簡単ではないと思うが、難しいならば何時間も、何年もそのことを語り続ければいい。
専門に学んだものでなければその視点を持つことは無いかもしれない。
しかし、そのような原則があることさえ知れば、人は誰でも自分の力で考えることができるようになるもの。
忙しい人に、新たな視点を提供する。
その役割を果たすことが、報道機関の責任ではないかと思う。
ちょっと方向は変わりますが、刑事裁判における被害者の尊重って、それは司法の役割ではないと思う。
立法府の仕事でしょう。
司法が被害者をどうこうしようということは越権行為であって、立法府ひいては国民への侵害行為だ。
立法府が、犯罪被害者を手厚く保護する立法を行うことのみが、解決手段であるはず。
それが三権分立というもの。


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