文化、翻訳

10/6
最近思うこと。
本来の著者の意図は、そのしるされた言語でないと正確には伝わらない。
「翻訳」という作業自体、極めて困難だと言い換えてもいい。
それは、原意を伝達するのが難しいという単純な問題ではない。
言語の相違は、概念そのものの相違を意味するからだ。
適切でないと感じた訳語は、「罪」。
勿論、高校英語を学んだ人ならば、罪には、「sin」・「crime」という二つの単語が相当することを知っているだろう。
前者の「sin」は辞書には道徳、宗教上の罪、という訳が当てられている。
この定義を知っていれば、「sin」の意味が解るかというと、それはありえない。
「罪」という単語を使うから、であろう。
日本文化において「罪」とは、「crime」そのもの。
そして「crime」とは、刑法的定義に従えば「構成要件に該当する違法で有責な行為」、およびそれに対して科される不利益。
自己の行為に対し、外部の権威に従って負荷される何らかの不利益が、「crime」。
対して、「sin」。
それは自らの行為に対し、自らの心が、それを犯したことに何らかの不和感を抱くこと。
行為評価の主体が、外部的権威ではなく、己の心である点が最大の相違点だ。
感覚的には、夏目漱石の「こころ」の「先生」が陥っていた状態が、「罪」の明白な例だろう。
己の心に由来するものであるが故に、決して贖われる事のない苦痛。
これをこそ、「人は罪びと」と言うのかもしれない。
故におそらく、「原罪」「罪の結果は死」というときの「罪」は、「自己由来心理的不和感」などと言い換えるのが適当なのだろう。
長ったらしいけど。
言語を学ぶことは異なる思考体系を学ぶことである。
この言明は、上のような作業を通して人が新たな概念を獲得して行くことをさしているのかもしれない。
概念そのものを抽象的に操作するという作業こそ、学問の一つの意味かも。


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