宗教、性の浄不浄

10/16
吉川英冶の親鸞読み中。
親鸞さんって、義経のまたいとこで母方源氏の藤原氏の生まれだったのですか?
小説の場合は、史実と虚構を見極めるのがちょっと困難。
しかしそれでも、主要人物の出生や年代は史実に従っていると推測します。
何らかのイベント(戦争や政変などの大事件以外)があった場合、それはおそらく虚構だろうと。
ただ、虚構は虚構として、筆者はその事件に仮託して何を訴えたいのかを理解するように。
神話的解釈になりますが、筆者は主張を伝達するためにこそ、筆を進めるわけですから。
それにしても吉川英冶さんって多作の人ですね。
巻末の一覧を見ると、新平家物語・平将門の二つは読みたいなあと。
本日のつり広告「フラウ、体のある純愛をしたい」(たぶん)を見て思ったこと。
現実の恋愛がどうとかいうのではなく、事象の認識レベルの議論です。
「性は(性交は)不純である」。
この価値観が何処から生じるのか?
何故に性が不純なのか、本来的に生産力持った「性」は「聖」であったはず。
少なくとも生物学的には間違ってない。
「有性生殖」とそれが生み出した「死」って、ほとんどの生命の本質じゃないのかと。
人類史を振り返っても、「性」「性交」は長らく「聖」そのものだった。
西洋世界だと、厳正ユダイズムと基督教意向が「性=不浄」の成立だと思いますが、それにしても最近2000年ほどのこと。
(ケルトは知りません)
日本だって、明治維新以降の武家秩序が一般にひろまって以降。
(江戸の浮世絵の9割以上が春画であることを考えると、おおらかさが伺える)
性が不浄って、新しい価値観なんですよね。
私がこの価値観に問題を感じるのは、終局的にその観念が女性の人権抑圧につながるから。
「性=不浄」という価値観は一般的に女性にのみ適用され、男性はその価値の枠外にあるという二重の基準論が問題なんです。
生物学的に女性は出血出産と、より生物学的で性に結び付けられるし。
理念として、「性=不浄」という価値観は破棄されるべき、というのが私の信条です。
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「性=不浄」の価値の根底の一つにあるのが、処女性の価値らしい。
この「処女性」の尊重は、どうやら父権の確信という機能的をはたしたからのよう。
語源的に「ハネムーン」とは、女性を一月経周期の間独占することを意味したらしい。
1、期間中最初の月経と、初夜による出血(うさんくさい)を確認し。
2、その間女性を隔離し、性交を続け、次の月経がないことを確認。
3、身篭った子は自分の子であると確認。
そしてこの父権の確実性が要求されるようになったのは、人間が定住生活を営み都市が成立するようになったあたりから。
(集団生活(部族)の場合は、一般的に財産は母系相続。父は不明でも母だけは確実)
やっぱり、せいぜいここ最近1万年程度。


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