文化、京極夏彦

10/27
現在、「オンモラキの瑕」は300ページ半ば程度まで。
主人公の名前が「中禅寺秋彦」であることを初め、人物関係はほとんど失念しておりました。
久しぶりに読んで思うこと。
筆者の京極夏彦氏は、文の長さそのものを、一種の表現手段として扱われるようですね。
村上春樹流にいうならば、「宇宙の観念がある」というところ。
登場人物の一人、榎木津礼次郎の人物紹介のみで60から70までの10ページ。
ほかのキャラクターもみな同様。
これはこれで、一種優れた表現方法なのかもと、感じるようになりました。
読者が期待しているのは、芝居における役者の場合と同様、好きな人物が活躍してくれること。
ならば解りきった、しかもこれまでに何度も読んだような人物の紹介を繰り返すことも、立派な読者サービスなのかも。
読者に、「うん、そう、そう。」と思わせることは大切なんですよね。
今時のギャルゲーがプレーヤーに媚びている(この表現は適切でない、サービスというべきか)のと同じ事。
今回の「オンモラキ」は、面白いですね。
今のところ、林羅山の功績をめぐる主人公たちの会話が強く私の好奇心を刺激しました。
朱子学ひいては儒学からの完全な宗教性の排除による、朱子学の世俗化と一般化の下地作り。
林羅山の真意は其処にあったということでした。
(とりあえず、この時点で本作の再読は決定)
我々の偏狭な常識に対し、新たな視点を提供してくれるというのはこの上なく心地よいものです。
京極夏彦氏の偉大さは、この点にあるのではないかと。
勿論、表現方法そのものは稚拙な点も多いとは思います。
ハイデガーの存在論を登場人物が語り合う部分など、学説の論証の一つ一つのフレーズを、各登場人物に分担して話させていることが明らかに伺われました。
しかし、それが作品の評価を下げるということは、決してないでしょう。
私のような犬福にでも解るように、様々な概念を解りやすく説明してくれているんですよ。
おそらく京極氏が著作中で扱った諸学説は、その極めて表層を紹介した、浅薄にして不十分なものに過ぎないでしょう。
しかし読者はそれにより、その概念の存在と、それを自ら学ぶ機会を提供されたわけです。
それ以上に貴重なものは、この世に存在するものか。
キャラクター性と知的好奇心の刺激という両者(往々にして相反する)を充足させる手法を開発した京極氏は、やはり偉大です。
----------------------------
私信。
木馬の恩恵で、しばらくメールは控えます。
http://www.famitsu.com/game/news/2003/10/22/103,1066792138,17557,0,0.html
MSXのエミュの奴です。


戻ります
inserted by FC2 system