宗教、遠藤周作

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ゲームブックですよ。
6面体ダイスを2個振って、自分の技術点が相手のそれを上回れば、敵の体力から2マイナス。
懐かしさに感動を覚えました。
荒寺の大蛇
短編ですので、是非古きよき時代を。
ふと思いました。
私は遠藤周作さんの本が好きで、高校生の頃に愛読した記憶があります。
氏はキリスト教関係で「死海のほとり」「イエスの誕生」「イエスの生涯」等を執筆されていらっしゃいます。
その内容を今になって振り返ってみると、なかなか面白い事実が。
氏のイエスの理解は、「イエスは人間であった」という一言に終始します。
(表層的にはイエスの信性を否定したアリウス派と同じ)
氏の理解は、概ね以下のようなもの。
イエスは公生活を通して自らの使命を自覚し、十字架上に刑死する。
イエスの権力者側への引渡しと偽証の代償として安全を保障された弟子たちは、罪の意識に苛まれる。
それを契機に弟子たちはイエスの意味を深く考え、そしてイエスの主張を述べ伝えていった。
すなわち、「復活」の神話的(合理主義的)解釈です。
一般人がイエスを理解しようとすれば、この形に落ち着くことが最も自然でしょう。
極めて説得性が高いし、私もそれが現実の形であったと把握しております。
ただこの主張からは、信仰の要素が欠落しているんですよね。
(旧約聖書の諸預言の解釈というそれも無視)
遠藤周作氏は洗礼を受けた方でしたが、彼は異端だった、と評しておそらく間違いないでしょう。
さらに進むなら、信仰箇条(三位一体・造物主の承認)の客観的承認を信仰とする定義に従うならば、彼は信仰すら持たなかったということに。
この上なく深く悩まれた方なのでしょうね。
氏の偉大さが、少しばかり感じられたように思います。
興味深い点は、これに絡んでもう一つあります。
同氏が異端的であったにもかかわらず、それに対する非難が正統の側からなされていない点です。
氏は四谷の日本で最も有名な教会で葬式をしてますし、「カトリック作家」という肩書きを疑う人はいません。
日本の一般人にはバチカンが同氏に抗議をしたという事実も聞こえてきません。
(抗議があったとしても、それは極めて穏当なものに過ぎなかったということ)
一言で言えばバチカンの寛容性ということでしょうか。
この普遍性こそが、帝国(中世は教皇と皇帝による帝国と評してよい)の存続を可能とした原理なのだろうと実感できます。
帝国の存立を可能とするのは経済力と軍事力ですが、その二者は寛容性と普遍性のものに自ずと集まるもの。
後者が伴わない覇権は、一時的なものにとどまるでしょう。
(第三帝国や大日本帝国)
現在のアメリカだって、寛容性と普遍性があり人材が自ずと集まりるからこそ、覇権国なんですよね。
いえ、表現の自由は素晴らしい。
これがイスラム圏だったら、遠藤周作氏には「悪魔の詩」の場合のように死刑宣告が下ってもおかしくなかっただろうなあと。
言論の自由度でいえば、バチカンは現在の日本国やアメリカ以上なのかもしれません。
遠藤周作氏をめぐる対応を見れば、客観的にこの様に評価できるかと。


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