宗教、三位一体説

11/3
地下鉄内のつり広告見てました。
其処になんと、驚愕の文句が。
「アルカイダのハダカ。」
にょー、と思いましてよくみてみると。
「アカルイハダカ」。
人間の脳内における認識構造が顕著に現れる錯覚です。
単語は、先頭から順に一文字一文字認識されるわけではないようですね。
全体を同時に認識し、その構成要素(この場合ここの文字)の種類を、活性化された単語の記憶に照合。
そして一致度の高いものを、目撃した文字列の示す単語と判定する。
この場合「アカルイハダカ」の構成文字を、複数回使用すれば「アルカイダのハダカ」が出来上がりますよね。
(「の」は除く)
渋谷に行ったついでに、献血してきました。
成分献血の途中、本当に気持ち悪くなりました。
「ここで血を吸い尽くされて死ぬのか、それも一興」と、思ったものです。
体調悪いわけでもなかったのに、何ででしょ。
「聖書を旅する」第10巻は、全10巻のまとめとしての福音書解釈部で、ずいぶんと難しいです。
でもようやく、意味がおぼろげに見えてきたような。
「初めに言葉があった、言葉は神とともにあった、言葉は神であった、全ては言葉によってできた、言葉は命であった。」
ヨハネ福音書冒頭の意味が、少々(多分1億分の1くらい)感じられるような錯覚を覚えました。
神は言葉であり、言葉とは生命であり、三位一体とは他者とのかかわりを望む命のあり方である。
これがおそらく、キリスト教の中心部なのではないか、という気がしています。
こう解釈すると、キリスト教は現実的なこと(自然因果関係内の事象という意味)しか述べていないのではないかと、ちょっと納得が行くような気がします。
ただ、これはあくまで抽象的な概念の水準のこと。
イエスという人間が2000年前のジェルサレムに存在したことは、確実な事実(考古学上の成果を踏まえて)。
ならば、イエス=言葉と等号でつなぐことができれば、キリスト教の主張は完全に現実味を帯びてくることに。
そしてこの等号の成立を認めることが、「信仰告白」なのでしょう。
いずれにせよ、その承認は理性の枠外の問題。
私が理解できないのは、復活と永遠の生命という事の意味。
自分が生きていたいと、さほど望まない人間には、理解できないのだろうなということは想像がつきます。
形而上のレベルで理解することは、現実を肯定して理解することの比して遥かに容易。
私の理解も、二元論やグノーシスと同じく、生を肯定できない人間の単純な内容なんだろうな。
とりあえず、信仰無しの思想体系としてなら、キリスト教の思想がちょっと感じられたような。
現実的であり、生産的でありすぎて、私には遠いかも。
所詮私は、「私は死にたいの、欲しいものは絶望、虚無に帰りたい」という虚無に共感を持ってしまう人間ですので。
いずれにせよ、恐ろしいほどに計算しつくされた見事な文学作品です、聖書は。
でも、根幹である復活だけはぜんぜん解りませんが。


戻ります
inserted by FC2 system