文化、命の尊厳根拠

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結局のところ、「聖書を旅する」を第一巻に戻ってもう一度読み返してます。
第一巻、当初は気がつかなかった一文一文の意図が見えてくるので大変に面白くなりました。
(知識が増えたので、ちょっとばかり理解が可能となったのでしょうか)
というよりも、一体以前は何を読んでいたのか。
目には入っていても何もみていない、この言葉がぴたり賞です。
(最も、数年たって読み返したときにはまた同じことを感じるでしょう)
少なくとも、読むたびに新しい発見のある書は、良書と断言してよいですよね。
そういえば、半年以上この本読んでるのに、まだ続けることを決断した自分にきがつきました。
一つの本に(参考書除いて、それに一つといっても全10巻)これだけの期間をかけるのは、私の人生で初めてのような気がします。
もう一度読み返して自分の考えをまとめたら、素人の理解を感想として犬養道子氏に届けたいと、かなり真剣に思います。
彼女が50年の成果をまとめた著作なら、幾許かの感謝をそれに捧げたい。
私でさえ、大往生の攻略記事で初めての人が1周できたといわれるとうれしいのですから。
ましてやその何億倍の労力を捧げた一大全集なら、きっと喜んでいただけるのではと、ちょっと考えます。
自分の文書が読者にどう理解されるかは興味がおありでしょうし、今後の執筆の動機付けにもなるのでは。
閑話休題。
キリスト教の基本として、似姿として霊(命、言葉)が注がれた被造物であるがゆえに、人間は尊いという価値観があるようです。
人間の精神は、与えられたもの(自然発生ではないという意味)なんだそうです。
ここが、私の不調和を感じる部分。
私自身は、人間の精神は脳の構造とともに段階的に自然発生したものだと考えています。
(自分の状態を把握する神経の働きが、精神の発生であるとどこかで読んだ)
ここで重要なのは、精神が物質に依存して自然発生したものであるからといって、それの価値が減ぜられるのではないということ。
むしろそのような不安定で儚い物であるからこそ、精神(ひいては個人)は尊いのではないかと。
憲法学における人権の議論と同じです。
人権は自然的に存在するものではなく、それは価値判断として存在することを了承されたものである。
人権を肯定したがゆえに、我等は常にそれを守らねばならないのである、という議論ですよね。
被造物説と自然発生説は、機能的には精神(個人)の尊重という点で同じです。
ただ、よってたつベースが全く異なるんですよね。
もっともその点は、価値観の相違ではなく、機能面の一致という無神論者と信仰者との対話の基礎と理解するべきなのでしょう。


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