宗教、創造説

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先の献血の時の話です。
腕の血を止める理由を看護婦さんに聞きます。
「その方が、血管が怒張して血が戻りやすいんです。」
えっと、その「怒張」って名詞じゃなかったんですね。
閑話休題。
先の精神の起源を巡る自然発生説と創造説の議論です。
創造説に関し、自分が重大な錯誤を犯していたことに気がつきました。
精神自体は、中枢神経構造の進化に伴って、ある時点で発生したものである。
創造説は、ここで精神という機能が生じた事実を、「与えられた」「創造された」と理解するわけなんですね。
対する自然発生説は、この精神発生の事実を、「自然に物理過程にしたがって生じた」と理解するのみ。
事実を把握する手法の相違、というわけで。
(勿論創造説は、根源的な充溢する生命の存在を前提としていますが)
私は「創造説」を、ある時点で何らかの外部的要因が、実際に(手術室でor超自然的方法で)精神を与えた、と理解していたようです。
聖書の記述はあくまで背景の意味を理解するべきであって、決して文字通りに受け取ってはいけない。
この原則を理解していると思い込んでいたのに、実際それは誰かの解説のある部分についてしか適用していませんでした。
たまたま説明のなかった精神の期限に関しては、全くの文字通りの理解。
本当に、自分の知性は犬福並みだと痛感させられました。
まあそれでも、遅まきながら悟っただけでもありがたく思うことに。
犬養道子氏の、確実な欠点に気がつきました。
それは、関係代名詞節を乱用すること。
えっと、そもそも日本語には関係代名詞という用法はないんですが。
彼女の文書は、「()」や「−−」でくくった部分が2,3行と挿入されるのは当たり前。
主述の対応すら、注意して読まないとわからない始末です。
複数化国語を操れる方になると、日本語の方が怪しくなってくるのでしょうか?
文書は短く、解説は文を改めましょう。


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