宗教、言葉

11/13
現実、というより、現実感とは一体なんだろう。
人間の認識上、主観的なrealityこそが現実なのだろうという気がしてきます。
現実に共にあることではなく、その意味をかみしめること。
さすれば、遠くに離れたり、別かれてしまったり、死んでしまったりした人でも、共にあることになるのかも。
(以下は一個人の妄想です)
ふと、「ことばは神と共にあった、ことばは神であった」ということが実感できたような錯覚を覚えました。
(新約聖書のヨハネ福音書の一番最初で、名文なのでぜひ手にとってみてください。)
この場合、「ことば」を「ロゴス」などと難しく考えない方が良いのでしょう。
我々が日常操るもの、それを「ことば」と考えればよいように、私は感じます。
そして我々が言葉を交わすその中に、「二人、三人とお前たちが集うただなかに私はいる」ということで、神がいるという意味なのでしょう。
(上の言葉は、ナザレのイエスの発言です)
そして言葉(神)とは、他者との積極的係わり合いをめざすもの、なのでしょう。
(造物主、という存在は理解できない)
ナザレのイエスが言葉であった(=神であった)という言明はー理屈はある程度知りましたがー私は規範的評価において納得できません。
しかし、言葉が十字架上で死ぬことによって、実体を持たないが故の普遍性を獲得するということは同意できます。
(聖書的意味の復活体(霊)は誰にも見えない、とはこの意味なのかな?)
私は納得いかないですが、他者に向けられた言葉の中にナザレのイエスがいると考えられたら、それは素晴らしいだろうな。
カトリックの考え方によれば、信とは与えられるもの、なのだそうです。
(正しいことを究極的に確証させる光は、外部からもたらされるという意味)
イエスという人間は偉大だったと思うし、ことばの働きの尊さもある程度はわかります。
ただ、この両者が同じと考えられるのは、賜物なのでしょうね。
信仰の領域です。
とりあえず、誰が対象でも、誰か(言葉、イエス、神)が共にあると考えるキリスト教は、普遍だな。


戻ります
inserted by FC2 system