宗教、千日回峰行

11/16
本日のNHKアーカイブス、「千日回峰行」。
「千日回峰行」とは比叡山の僧がのべ1000日間、一日40キロの道のりをまわる荒行だそうです。
この番組でいささか疑問が合ったのは、その行の意味(宗教的なものを含めて)に一切言及がなかったこと。
「偉いお坊さんが、すごい荒行に挑戦して成し遂げました。」
「すごいにょ。」
と、この次元にとどまってしまっていること。
それとも、挑戦することそのものに意味があるのだという、人間の実存を描いている番組だったのでしょうか?
(修行の意味を解さない私には、どちらとも断言できない)
私が感じたのは、極端な荒行の意味とその必要性に対する疑問。
修行さえすればよいと、自己そのものを判断基準とする思考の萌芽が見られるように感じます。
この文脈が示すのは、修行の果てにたどり着くところに、何らかの意味が存在するという概念。
キリスト教が(そしておそらく大乗仏教も)提示するものは、既にそこにあるもの。
重要事項は、己を虚しくして、その与えられたものに心を向けること。
両者のメルクマールとなりうるものは、自分を基準としないという謙虚さをもてるかどうかにあるのだろうと思います。
(修養を積むことは決して後者が否定するものではない)
この意味において、後者は普遍だと感じます。
千日回峰行で中途に9日間の断食業があるそうで、その模様も報道されておりました。
9日明けの行者の姿は、葬儀・通夜の際にみた、命の離れ去った祖父であった身体を思い出させました。
宗教的な修行の一つの機能的評価としては、死の疑似体験という要素が確実に包括されると考えてよいのでしょう。
死を知らないものが、死を、そして生を語ることは難しいから。
だからといって、オウム真理教のように薬物による死の体験は(脳内作用は同じでしょうが)間違ってます。
それに至る過程は、死の占める多くの(生者にとっては全ての)意味ですので。
閑話休題。
「一騎当千」みました、そのあらすじを転載。
高校生たちが、互いに骨を砕きあう戦乱の地、関東。そこでは7つの実力高校が、天下を我がものにせんがため、覇権を争っていた。そんな中、女子高生・孫策伯符が現れる。運命に導かれるように、戦いに血が騒ぐ孫策だが、その彼女を幼なじみの周瑜公瑾が、心配そうに見守る。
しかし、「孫策を倒せ!」という勅が出され、次々と強敵が襲い掛かる。それを振り払いながら次第に実力をつけていく孫策だが、その中の強敵・呂蒙子明と拳をまじえることになる。
「幼なじみ」という単語と、周瑜公瑾という人名が極限まで調和しないように感じます。
本日の放送では、周瑜(勿論女子高生)が、「董卓に気をつけろ」と忠告をされつつ、クンニリングスされてました。
ここまで来ると、わいせつを通り越して、失笑を禁じえないというレベルです。


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