文化、命の尊厳根拠

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人の命はそれ自体として尊重されるべきである。
この命題の究極的な論拠は、一体何処に存在するのだろうか。
「人を殺すべからず」という規範は誰でも知っていますし、各人各人がいかなる権利を持つかということも法規に記されるとおりです。
ここで問題となるのは、そういった些事の総体としての人の地位ではないです。
社会規範などの外部的要因が一切存在しない場合においても成立する人の地位、それが存在するのだろうかという議論です。
無論、諸権利の総体が人であって、それが擁護されるのは我々が人権なるものを想定したからだ、という議論は成り立ちます。
現在の我々の社会が採用するのはこの立場であり、我らの日本国も同様。
(憲法前文に自然権らしき記述はありますが、運用上においては上述のように評価してよい)
この価値判断の優れた点は、なんらの形而上学的命題を含まない故に、万人にとって了承可能であること。
そして暗に、人そのものが無力無意味ゆえにこそ、守らねばならぬのだということを教えてくれます。
でもやはりこの立場は、人そのものの尊厳の有無とその根拠に関しては沈黙を守ります。
直接的にこの問題を考えたのは、自殺と自殺予防の心理というサイトを閲覧していたとき。
「人の命は神が与えたものだから」という記述が当該サイトにおける、自殺抑止の大きな論拠の一つでした。
ちなみにこのサイトは、宗教的価値判断の含まれないものでした。
(他の論拠は他者との関係性におけるものであり、現在の問題とは関係ない)
人の尊厳の究極的根拠は、何らかの形而上学的要因に求めるしかないであろうことは私にも理解できます。
ただ、「命は神様がくださったもの」、といわれても、残念ですが私は理解できません。
「西洋の人は命を賜物だと考えているから、決して命を粗末にしない」と書かれていましたが、本当でしょうか。
幼少時から命を賜物と教わってくれば、そのように考えるようになるのでしょうか。
それはあまりに西洋の人たちを単純化した、失礼な説明のように思えるのですが。
尊厳の根拠として、機能的に賜物説を信奉するなら、それは現行の法体系と同じで、問題の解決にはなりません。
キリスト教の「賜物」説の説明は、以下のようになっているようです。
世界のあらゆるものの調和から、万物の起源たる統一的な秩序の存在を確信。
そして人間の持つ知性や自由意志の優れた働きを省みて、それが外部の権威に由来するものに違いないと考える。
これが概要であって、創世記には「神の息が吹き入れられて」、土(アダマ)が人(アダム)になったと記されているようです。
「息」とはことばを発する際に伴うもの、そして「ことば」背景に知性を伴うもの、そして「知性」とは万物を創造する生命の力、というロジックだそうでした。
つまり知性・意思を与えられた(自然的進化の結果獲得した事を与えられたと把握する)ことによって、人となったという理解の現われです。
これが、「命は神様がくださったもの」という命題の一つの説明のあり方なのでしょう。
万物の起源に単一の統一的秩序を見出す、キリスト教的説明にここまでは私も同意できないでもありません。
ただ、人間の知性と意志が、単一の起源(「神」という語をあまり用いたくないので・・・)と同質なものである、といわれると違和感がついてまといます。
私は純粋な物理的進化のみによって人の知性は発生したという現行科学の説明に何らの違和感も覚えないし、実際そのように考えています。
うーん。
これ以上は水掛け論になりそうです。
「そういう進化のあり方を用意したことそのものが、賜物なのだよ」といわれると・・・・・
それにホーキング博士のいうところの「人間原理」は「造物主」の別の説明のようにも思えるし。
やはり今の私は「命が神様の賜物」という命題は理解できないです。
理解させてください。


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