宗教、どう読むか聖書

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降りました。
漏れは一体何をやっているのだろうか。
かかる実存的苦悩にうち震えます。
昨日の「どう読むか、聖書」は非常に興味深い指摘に満ちておりました。
現在の学説上では、以下のことが通説的立場にあるそうです。
・イエス自身が、自己の死を「贖い」と認識していないこと。
・福音書中のイエスの死の予告の言葉は、付加されたものであってイエス自身のものではないこと。
・イエス・パウロの思想は、福音書執筆の時点で相当程度に修正されていること。
信仰持たぬ私にとっては、現在の聖書学の示すものがより合理的に思えます。
現実世界での認識態度における「許し」と、心の中での「復活」。
なんらの自然法則からの逸脱を持たない概念であればこそ、普遍性と説得性を持つように感じます。
現実を超越する力を持つから神な訳ではないし、ゆえに無価値ということもない。
そもそも「唯一神」という概念に、万能という属性は含まれないはずなのに。
(これは犬養氏が指摘していること)
「からだの復活」って、非合理ですよね。
「非合理であるからこそ信じる」というのは、やはりどこか間違っている。
「信じる」とは、対象の真実性故にそれを受け入れること、であるはず。


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