宗教、聖書を旅する

1/11
手続き中に関わらず、ホームページ公開代理サービスは利用できるらしいです。
いまのとこ、インフォシークにお金払って場所を借りることにしました。
やっぱりあの、上下に広告がついてるのは見苦しいという美意識を尊重することに。
300メガもあるそうで、だめ写真展でも公開できそうです。
月額500円に初期費用3000円だそうで、1万で一年遊べるなら安いものです。
にしても、文書だけ書いてて5メガが一杯になるとは予想もしてませんでした。
次回更新予定は、神保町のそば地図、皇居近辺写真集。
皇居のあたりはいいデジカメ買って写真とってきたいですね。
失ってはじめて分かるありがたさ、ですね。
まあでも、こっちも春になって気候がよくなってきたら、大規模撮影を敢行したいところ。
近くの県民公園の風景、自治体のホームページにないし。
そういうわけで、300メガは自己満足にありがたそう。
「どう読むか、聖書」を読んでいると、犬養道子氏の難点がいろいろと見えてきたです。
彼女はテクストとして批判的に聖書を読むこと、そして意味を把握することに本質があることの重要性を説きます。
そのためには、歴史背景に、新約聖書の当該記述が下敷きとする旧約の該当部分の解説、言語的解説などを、学者の見解を紹介しつつ、十全に説明してくれます。
ここまでは極めて素晴らしい点。
彼女の学識及び知性と、根本の確固たる理性が伺える場面です。
ところが、必要な事実を明らかにした上での、最後の評価の次元において、自説が十分に貫徹されていない。
すなわち、従来のカトリック教会の主張をほぼそのまま受容しているに近い形になっています。
神の本質は開放された関係性であり言葉であるという普遍的な理解を提示しつつ、言葉の受肉托身や贖罪死という従来の説に行き着いてしまっている。
「復活」についても、復活体は霊であって人は見ることができない、と古い見解がそのまま。
復活とはそもそも、見たり触ったりできる現実世界における事象ではない、というのがより聖書の文に忠実かつ、普遍的な理解であると思うのですが。
彼女は最新研究成果を十分に考慮に入れて筆を進められるようでした。
しかし、専門外なので私は断言できませんが、どうも自分の理解に都合のよい研究だけを参照しているのでは、と思われる節も無きにしも非ず。
彼女の説明は、実は学説上ほとんど支持されていないものであるのに、その旨の記述がないとか。
(十字架上のイエスの「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」は詩篇の冒頭という解釈は、ほとんど誰も学者は支持してないらしい・・・・)
まあでも、あくまで「聖書を旅する」は犬養氏の見解であるわけだし。
そもそも、我にこれだけ考えるだけの基礎理解と知識を与えてくれたのは犬養氏ですし。
私という人間に、自ら考えるだけの基礎を育てたという意味では、彼女の創造行為は実に有意義だったと、感謝するべきでしょう。
自身の見解を提示することで読者に自ら考える起点を与えることが、犬養氏の真意であったという可能性も十分に考えられます。
全部で2万以上は本を買ったので、ちょっとくらいは反対意見述べても、許してくださいな。


戻ります
inserted by FC2 system