国際、北朝鮮

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朝鮮労働党の機関紙に、サダムフセイン体制を批判する論評が掲載された、という報道がありました。
その内容を聞きますに、実にオリジナリティに溢れた視点に新鮮なる驚きを覚えます。
核査察を受け入れたことが、米国の攻撃を招くことを予期できなかった。
これしか記憶に残ってないのですが、残りもまあ似たかよったか。
独裁体制への批判は一切なく、外交姿勢の甘さを非難するのみ。
まあ、自分のお国も独裁体制だし。
この手の国家で特徴的なのは、対外論評を唄った記事が、実は国内に向けたメッセージに他ならないらしいということ。
サダムフセインを非難しているように見えて、実は国内に米国介入の警戒の喚起と、反対派(及びその予備軍)への警告が記事の目的。
「社会主義の20世紀」とか「ワイルドスワン」で歴史的実例は多数見聞できましたが、その実物をお目にかかれるとは幸せです。
それにしても、文書の解釈というのは難しいものですね。
表層の意味と、製作者の真意が全く異なることもありうるわけですし。
同様に、筆者のそのままの意図を、読む側で曲解してしまうこともありうる。
閑話休題。
やっぱり思ったのが、本題の犬養道子氏の本。
彼女は極めて正論を述べ、文書はその意味を理解することが肝要とときます。
特に聖書のように、古代のシンボリズムに満ち溢れた文学類型は、その正確な把握に緻密な学問考証が欠かせないと。
ここまでは極めてアカデミックであり、万人が納得することを説かれるのです。
ところが一番肝心なことに、解釈対象である聖書の記述そのものの信憑性に全く疑念を抱かない。
聖書内部には相互矛盾をきたす箇所に溢れているのですが、それらも理由付けを行なってしまう。
この理由づけは、古いカトリック教会の主張そのままで、著しく合理性を欠いたものばかり。
その上で非合理な教説を、「神のわざ」であって人間理性には了解できないものと仰られる。
そのわざを理解できるのは「信仰」の光であって、信仰とは「神の賜物」なのだそうです。
たとえてみれば、自説の正当性の証明に自説を用いているようなもの。
これは合理的な知性の持ち主が了承できる主張ではないです。
なんだか最近、犬養道子さんの本の難点ばかりが見えてくる。
でもそれは、それだけ彼女の主張が理解できてきたことの現われなのでしょう。


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