宗教、護教論

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目前の事実をそのままに認識すること。
実はこれって、至難の業なんですね。
再び犬養道子氏の「聖書を旅する」のお話。
本書は旧約聖書、新約聖書を犬養道子氏が解説解釈するという内容です。
何が問題の焦点化といえば、彼女が目前の事実をそのままに認定していないということ。
勿論これは、彼女にとどまらず、旧来のカトリックプロテスタント含めた「教会」勢力一般の欠点だったのでしょうが。
まず旧約聖書。
古代テキストは寓話を持って神話的に記述されるので、その意味を把握することが本質であるとのすばらしい指摘。
ついで「創世記」の逸話の深い哲学性をもった人間の実存そのものの問題を重視し、その意味を繰り返し解説してくださいます。
そして我らが抱く神のイメージを否定。
本書に触れ、自分の理解が如何に偶像的なものであったかを私は悟らされました。
「じじい」みたいな神を以って偶像という程度は誰でも知っていましょう。
が、それでもやはり心中どこかに人格的存在を神認識に対して与えていたのが私の理解。
犬養氏の記述をたどる限りでは、「ことば」「関係性」「生命」などの普遍原理そのものがいわゆる唯一神というものの本質であることが察せられます。
(私は何も分かってませんが、「大日如来」が普遍原理そのものであることと同じなのではないかと感じます)
ここまでの犬養氏は、まさに私にとっての偉大な師そのものといってよい。
ところが、暴走がここから始まります。
いわゆる、全てをキリストに結び付けてしまうもの。
「旧約聖書のこの記述は、キリストを預言しているものだ・・・・」
(「預言」とは神の言葉を預かることで、「予言」とは異なると、えらそうな分かったような説明がされますが・・・・)
と理解してしまうわけです。
「アレゴリー」解釈とか言うそうですが、旧約聖書をそのものとして理解しようとしない。
全て、新約聖書に結び付けて意味を考えてしまう。
事実認定の段階では資料は十分にそれ単体で普遍を告げているものが、意味づけになると全てキリストと関連付けられてしまう。
これは自身が正典とするところの「旧約聖書」に対する侮辱なのではないかと、一般的には感じるところです。
私の「聖書を旅する」の初期の感想は、「旧約」の普遍メッセージに対する純粋な敬意でした。
ところが読み進めるにつれ、犬養氏のむちゃくちゃな解釈に毒され、いつしか自分の無理解を恥じるようになってしまって。
「屁理屈」ー護教論ともいうーに丸め込まれてしまったわけで、言葉って恐ろしい。
ともかく、まずドグマが前提にあるために、犬養氏はそのようにしか事実を見ない。
ものを見るのは難しいものです。
えっと、それでも犬養道子氏は部類で言えば知性的開明的な方ですよ。
「原理主義」といえば自動的にイスラムに結び付けられる風潮ですが、それ以上の害悪がキリスト教の原理主義。
なにしろ、ブッシュ(共和党)の大きな支持母体ですので、実際に政治を悪しき方向に動かしてしまう。
「ものを見る」というただそれだけのことです。
が、それに対する知的な誠実さが欠落した場合、如何に大きな社会的害悪が生じるかの典型例ですな。
えっと、犬養氏の名誉のためにも、上記の解釈は旧来の宗教勢力全体の方向性であることを宣言しておくです。
歪曲されているのは「旧約」のみならず、実は拠ってたつところの「新約聖書」と「イエス」その人がより程度が著しいそうですが。
長くなったので次の回に。


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