宗教、正典宗教

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「書物としての新約聖書」を3回目読んでます。
700ページで8400円ということは、1ページ12円ですか?
高いので元を取るべくしっかり内容覚えましょう。
気に留めるべき内容の一つが、「正典宗教」という在り方。
よく我々、ニュースで新興宗教の報道を耳にしますよね。
まあ、例えばオウムとか、法の華三法行とか。
私はああいった報道に接して、「胡散臭い」と常思いました。
その理由は、「教義」は定まっていないだろう、というもの。
(金目当ての運動だというのは、ここでは置いておきます)
この私のかつての考え方は、現在の視点に立ってみると非常に興味深い。
即ち、「明確な教義がなければ宗教ではない」という前提に立っているわけです。
そしてこの前提は、「正典宗教」というものの在り方に、教育報道を通して無意識のうちに思考を規定されていたことの結果です。
「正典宗教」とは、自己の価値観思考信仰の全てが立脚する基準となるべき絶対的明確な文書が存在するという、宗教のあり方の一つです。
一番明確なのがユダヤ教で、多分イスラームもそうでしょう(著しく自信ない)。
そしてこの正典宗教という在り方は、正典を持たないものを宗教ではないとみなすという、帝国主義的(普遍的とも)価値観につながります。
当然に「正典」という存在は、個々の宗教行為の高度な抽象化の上に生じるものなので、歴史的に見れば新しい存在。
当然に人類史上殆どの形而上学的心情は、「正典」など持つはずがなかったわけです。
いや、影響されたことすら意識させずに個人の思考を規定してしまう、社会的影響力って恐ろしいですね。
少し前までは「グローバルスタンダード」とか「勝ち組」とかそういった単語をよく聴きました。
現象としては「正典宗教」の場合と同じ影響をもたらしているのか。
話題を正典宗教に戻すなら、それが大きな影響力を持ちうるのはやはり外部への明確なかたちでの自己の提示が可能だからなのでしょう。
日本人なら小学生でも、キリスト教の正典が聖書であり、イスラム教の正典がコーランであることぐらいは知っているし。
冷静に考えるなら、以下の結論が導かれるはずです。
「正典宗教」が歴史的に新しいものであるからといって、よりすぐれた宗教の形式とはいえない。
実際問題として、「正典」が確立してしまえば、その固定性が時代との不適合と生命力の枯渇をもたらすそうで。
キリスト教は、ユダヤ教という正典宗教の否定克服として発生したものなんだそうですね。
(イエスは直接的にはキリスト教と結合しないのが通説だそうで)
それがごにょごにょあって、開始300年ほどしてようやく「新約聖書」という正典を持つことになったと。
だから今のキリスト教って、イエス起源の多様な宗教活動の一部だけが正統派の地位を占めて残ったものなんですね。
ただキリスト教が賢明だったのは、「新約聖書」といいつつ正典の内部をひっ繰り回しても殆ど教義が出てこないこと。
結局、「教会」が教義の中枢を占めたわけで、よって時代にある程度対応できた。
キリスト教は厳密な意味で「正典宗教」であったわけでなく、「聖書」が叫ばれたのはルター以降らしい。
キリスト教の「三位一体説」で「霊」を強調しておけば、相当程度に柔軟性を保つことができるという素晴らしい経営方針。
(柔軟性から逸脱すると、「異端」にされる・・・・)
ともかく、すこぶる、「正典宗教」というのは新しい現象なんですね。
つまるところ、我々は「正典」を持たないからといって新興宗教を馬鹿にしてはいけないという結論になるのでしょう。
エル・カンターレ(大川隆法氏)が相互矛盾する本を多数出版しているからといって、否定してはだめなんですね。
むしろ「正典宗教」に毒された己の未熟を認識すべきなのか。
また、同じキリスト教なのにエジプトの「コプト派」などが殆ど言及されないのは、「正典」に導かれる異端という思想に社会が規定されているためなのか。


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