文化、帝国

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統治形態としての「帝国」(国民国家の対立概念)と、「帝国主義」なる概念があります。
従来、後者は「帝国」の意味の誤認に基くものと思っていました。
でも最近、その実は共通項に基いているのではないかという可能性に思い当たった次第です。
「帝国」といえば、もっとも明らかな例はお隣の「中華」でしょう。
この場合の帝国の中心理念は、文化すなわち漢字と礼の体系にありました。
(実際はともかく理念上は)文化を共有することができればそれはもはや文明人。
日本の阿倍仲麻呂などが唐代に地方長官に任命されたなどの事例に明白です。
この例を素直に眺めれば、「帝国」の普遍性と開放性という極めて優れた特質が浮かび上がります。
ところがこれを裏から見ると、こうなります。
独自の言語と文化を持った地域に、中華世界からいきなり軍隊などが侵入占領。
そして現地人に対して、「お前たちは漢字を使えないから野蛮人だ。」
以上。
こうして中華は自分たちの言語文字を知らないという理由で、他地域を西戎東夷北荻南蛮と呼び習わしてきたわけですか。
現代のアメリカ合衆国にそっくりですね。
漢字に相当するものがアメリカ英語であり、礼に相当するのが向こうの会計基準であると考えれば分かりやすい。
中華も合衆国も、自文化を「普遍」と考えているのが共通ですな。
この理解に到ったのは、先の「書物としての新約聖書」の田川健三氏の指摘のおかげです。
現在の主流派キリスト教(必ずしもイエスに直結しない)をある意味作ったといってもよい人物が、パウロなる人。
かれはヘレニズムのギリシア語を話すユダヤ人でした。
そのかれが宣教の途上、小アジアの都市に立ち寄ります。
当然そこでは独自の言語を用いているわけです。
パウロはそこで、さも当然といった風に、ギリシア語で演説をまくし立てます。
そうしてその地の入信者に対して、お前たちのキリスト教理解は異なっていると激しく非難します。
勿論、パウロのギリシア語が十分に理解できなかったという事情を考慮せずに。
現地の言葉を習得してから宣教しようという、当然の努力には思い至りません。
上の中華やUSAと同じく、自分の文化を理解しないほうが悪いと当然のごとくに信じ込んでいます。
いや、まさに帝国主義とはこのことですな。
歴史の意味が分かることは、現代の妥当な認識を抱くことと同義なんですね。
「書物としての新約聖書」はこのように、非常に面白いのでお勧めするです。
剄草書房、田川健三著、定価8000円。
こういった、本当に面白い本がベストセラーになってくれるとよいなと、ちょっと思うです。


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