文化、権威

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ガルダ45903150、ライフ4/6。
以前にブラウザの「お気に入り」の整理してました。
無意味に膨張を続けるので、定期的に整理削除しないといけないというのは皆様同じでしょうか。
削除しようにも登録名称だけでは何か分からない場合が多く、結局一つ一つ順に見てゆくこととなります。
で、隅田川連続殺人事件なるものを開いたとき。
(どうも今現在は何らかの事情でサイトが閲覧できないようです)
そういえば、「希望と光」(内容は後述)の置いてあるサイトだったなということを思い出します。
何とも言いがたいサイト。
一言で表現すれば、「権威」主義的とでも言うのでしょうか。
「隅田川連続殺人事件」「希望と光」というオリジナルの作品を二つ置いてあるサイトなのですが。
その形容がまた。
「・・・・・ダウンロード数月間一位」
「・・・・・何とか掲載」
「・・・・・何万人に感動を与えた。」
これは冗談ではなく、この様な形容が何十行もひたすらに並んでいます。
その中に「推奨フリーソフト」というのがあったのでどんなものが推奨されてるのか少々興味を惹かれました。
でリンク先をたどるとなんと、当サイトのLinksに行き当たってビクーリ。
勝手に私が「希望と光」を紹介してたので、それを紹介頂けた事自体はうれしいし、不快に思う理由もないです。
ただ、こういう形でのある種「権威」付けに利用されるとは思いもしなかったというだけのこと。
現実的な問題として、こういう手法が有効性を持つのだろうかという疑問がわきあがります。
端的な事例としては、ちょっと前の映画の宣伝などによく見られたやり方です。
「パールハーバー」の宣伝に、若い女性を劇場で捕まえて「アルマゲドンより感動しました」と言わせてるアレ。
(本の広告で、いささかアレな読者の感想を集めてのせるのも同じ)
価値の低い見解賞賛を星の数ほど集めても、それは全く宣伝の対象に権威を与えないという一般論が問題なのです。
やはり一般人としては、「ベストセラー」などといわれると、出版の現状から考えてこう思ってしまうでしょう。
「うさんくせえ」
市場で支持を受けるものは優れた価値を持つことの証明であることは理解してます。
でもこの生理的な反応ばかりはどうなるものでは在りません。
そもそも、権威なるものは、その対象事態がそれ自体の信憑性や価値ゆえにおのずと帯びるものです。
それがないところに権威を与えても、早晩化けの皮がはがれるだけ。
宣伝対象に権威を与えたいならば、その対象事態の意味を冷静学問的な言葉で論ずればよいのです。
権威というものは、相手に受け入れられなければ実体すらない存在なのだから。
ということで、こういう宣伝方法が商業的にも有効性を持つのか疑問を感じるところでした。
この手法はその受け手によっては、嘲笑と嫌悪感を招く場合と、購買意欲を掻き立てられる場合に大きく分かれてしまうでしょう。
商品の対象客層において、需要喚起効果が否定効果を上回ればいよいという冷静な計算に基いてのものなのでしょうか。
商売としてはまっとうですが、退廃的で精神衛生上好ましくないやり方だと感じざるを得ないところ。
話題を、「希望と光」に戻します。
これは全くゲームではないですが、非常に先鋭な主張を含んだ作品でした。
ここでダウンロードできますので・・・)
非常な衝撃を受けたですよ。
で、これほどの物を作る人物と、上記宣伝手法という俗物ぶりが混在するところが非常に興味深い。
「Sound of silenc」の「預言者の言葉は地下鉄のラクガキに書かれている」という詩。
それは本件のような現象を示しているのだろうという気がしてきます。
一応誤解がないように追加します。
私は最後の部分で、汚濁の中に価値が宿るという価値の逆転によって、上記作品を製作された方に敬意を払っているのです。


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