宗教、予言

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「予言」という行為があります。
有名どころでは、ノストラダムスの大予言。
幼いころの私は学研「いるいないの秘密」でノストラダムスの滅びの予言を読んで、怖くて泣きました。
当然、純真だった私は「本に書いてあることは全て真実に違いない」と信じていたわけです。
ちょっとばかり知恵がついてくると、「予言」なるものに対する理解が変わってくるようになります。
その契機として、もっともお手軽なもの。
それはすなわち、「新約聖書」を読んでみることです。
(内容を理解する必要もなければ、事前の知識も必要ない)
イエスは様々な行動を起こします。
福音記者はそのまとめとして、「こうして・・・・・・の予言は成就した。」と意味を与えてくれます。
(・・・・・の部分には旧約聖書の預言者の名前が入る)
すなわち、予言とは、それを成就させようと後世の人間が予言内容に従った行動をとるものだ、ということです。
かつてのオウム真理教の地下鉄サリン事件の際に、多くの報道が書き立てました。
オウムは世紀末を予言し、それを自ら実現しようとした自作自演なのであると。
この指摘は、些か執筆者に予言というものの理解が欠けているのではないかとの疑念を招かざるを得ません。
ただどうも、そうも一筋縄ではいかないらしいことが最近分かってきました。
上で挙げた「新約聖書」を読めば予言という行為の意味が分かるというのは事実です。
ただそれは、新約聖書でもその中の一番最初の「マタイ福音書」に端的に当てはまるだけに過ぎないようです。
イエスという人物はユダヤ教の流れの中に活躍しました。
彼自身は何も書き残していないので、今日のキリスト教とは彼の言葉と行為をその弟子たちがまとめたものです。
その際に弟子たちは、イエスという人物をそのまま理解するのではなく、旧約聖書を通して理解しました。
当時の彼らにとっての「本」とは(旧約)聖書しかなかったので、その権威性たるや我々からは想像もつかないほどでしょう・・・・・・・
(当時「本」といえばそれは聖書を指していた)
学校で習うテキストも、当然に旧約聖書とその解説だけだし。
ともかく、「ああ、お師匠さんのこの言葉は聖書のこの部分を意味していたのか!」といった感じです。
そしてイエスの全ての行いは(イエス本人の意思とは無関係に)旧約聖書に当てはめられていくようになりました。
仕舞には、旧約聖書の預言にあわせてイエスの行為が修正創設されてゆく始末。
ともかく、この場合において「予言」(旧約聖書)は単に権威付けに用いられているにすぎません。
当時のキリスト教徒は、こんな感じで布教活動を実践していた模様です。
「ほら、イエスキリストという人物は旧約聖書に予言されているほどえらい人物なんですよ、だから信じなさい。」
(地中海世界全体に、旧約聖書はその歴史の古さで知れ渡って大変な権威であったらしい)
いや、頭悪いというか、今も昔も変わらずというべきか。
正論としては、その言行が優れているから偉人なのであって、外部から権威付けされて偉人になるわけではない。
結局のところ、「予言」とは都合がいいように利用されるに過ぎないということでしょうか。
となると、上の「オウム真理教」をめぐる報道も真実をついていたことになる。
もっとも、一段の中間理解がかけているのは間違いないでしょうが。
先に新約聖書の「一番最初の」マタイを読めば予言の意味が分かると書いたのは、些かの意図があります。
「二番目」のマルコによる福音書では、(旧約聖書の)予言によるイエスの権威付けは一切為されていません。
古代世界において既に、「オウム」のごとき予言の利用法をよからずとする理性的な方は多数存在したということですね。
「予言」を都合よく利用できるのは、おそらくその呪術的な性格にあるのでしょう。
すなわち、予言によって思考を規定されてしまう人間が存在することです。
オウムでサリンを撒いた信徒しかり、予言を通してしかイエスを理解しようとしなかった人しかり。
知識と理解による精神の独立こそが、予言への最大の対抗策か。


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