宗教、パウロ

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続いてパウロさんの書簡の印象。
かなり偏見に満ち溢れた箇所が多いので、読んでいて興味をそそられます。
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そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。
しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、
また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。
夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。
(第一コリント7−1)
ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、
女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。
男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。
女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、
その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。
女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。
女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。
男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。
しかし、女は男の栄光を映す者です。
というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、
男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
(第一コリント、11−1)
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上の箇所は、性の蔑視罪悪視と評価してよいでしょう。
パウロ氏の結婚理解は以下のようなものであると思われます。
結婚は、「みだらな行い」を避けるためであり、そのために夫婦相互に性交義務を履行せよ。
下の箇所は、明確な女性蔑視ですよね。
これは解釈によっては女性のスカーフの着用義務という、イスラームの歪曲解釈と同じ結論を導くことが可能です。
「性の罪悪視」がそのまま「女性蔑視」につながっていることの絶好の例ですね。
(もっとも、なにゆえにその両者が結合するかは今後の学習課題です)
上の二つの引用は決して悪意のあるものではなく、この水準の記述は決して珍しくありません。
ここで興味深い事例があります。
下の女性蔑視事例はその根拠に創世記の神話を掲げております。
先の聖書を旅するの犬養道子さんは、その部分に違う説明をしていらっしゃる。
「まず男が作られて後に女が造られ、男は神に導かれて女と対面する」というのが創世記の神話です。
(創世記2−21、男女の創造の記述は2つありそれに関しては2003年9/25日記参照)
この神話は、男女の出会いと喜びの素晴らしさを描くことを目的としたものである、と犬養さんは仰る。
確かに、非常に説得性は高いです。
女性蔑視の記述よりは、男女の結合の素晴らしさを歌うほうが内容として望ましいのは間違いありません。
しかしこれは、原文の記述を歪曲した解釈ですよね。
そもそも創世記は紀元前6世紀頃に編集された書物であり、その時代に女性が軽視されていたのは当然のことです。
その時代に男女平等という社会があれば、その異常さこそが注目されなくてはなりません。
その時代状況下で生み出されたのが創世記であり、ならば女性の蔑視は当然のこと。
素直に聖書は女性差別思想に貫かれているのだと、認めるのが誠実というものです。
「聖書は最初から女性差別などしていない」。
それを今になってこの様に弁明するのは、著しく不正な態度だというものでしょう。
こうやって事実を歪曲して理解することは、原典そのものの価値を評価しないことにつながります。
創世記は男女差別思想という否定できない欠点もあります。
しかし同時に、深遠偉大な思想も多大に含んでいる。
パウロ氏も同様に、性に関しては偏見の塊ですが、極めて偉大な思想も非常に多い。
欠点は欠点として認めたうえで、評価すべき点は評価することが必要です。
犬養道子さんのように無理な解釈で聖書の欠点を隠蔽しようとすることを、護教論というようですな。
ともかく、最近は犬養道子さんの欠点と素晴らしさが共に見えるようになってきました。


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