宗教、対観表、安息日

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ここ数日、以前に中断していた「イエス・キリスト」(講談社学術文庫、荒井献著)を再開してます。
この書が面白いのは、その叙述の形式。
一ページを複数の段にわけ、格段に一つづつ資料を並べてゆくこと。
それにより、一つの事象伝承が、各書物ごとにどのように異なっているかが一目瞭然となります。
(例えばページを4段に分割し、上から順に、マタイ・マルコ・ルカ・トマス福音書と並べてあるわけです)
ある記述が、どのように変更されているか、省略されているか、加筆されているかなどなど。
これによって否応なく、各資料の著者の思想傾向や周辺状況が明らかになってくるという形式。
高校生は世界史で「共観福音書」という単語と共に、マタイ・マルコ・ルカの書名を覚えることが要求されます。
この「共観」福音書という名称の由来は、上記のようにそれぞれの記述を並行して眺めることができるからしいですね。
(正確には、「対観表」という厳密な対照表を作った学者がいるかららしいですが)
我らが世界史の教官は、この事実を認識していたか?
一度でも自身で比較対照作業を行なったことはあるのか?
答えはおそらく否でしょうし、岩波書店の犬福向けの解説書で済ましてた程度でしょう。
教師も理解していなさそうなことを高校生に教える必要があるのか、些か疑問のもたれるところです。
神聖ローマ帝国の7選帝侯の全名称を覚えるより、「共観福音書」は意味を理解するのが困難な気がします。
教師も理解して無いからこそ、単に従順さと暗記能力を問うだけになっている。
日本の義務教育はいい面も多いですが、このあたりは不毛だにょ。
どうも、昔私世界史を教えてお金をずいぶん稼いだ記憶があるもので。
あのころの無知さで人様からお金を頂いたかと思うと、実に申し訳なくなってくる。
話題を戻しまして、非常に面白かったのが以下の引用部分の相違です。
再び、日本聖書協会のサイトから引用です。
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「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
屋上にいる者は下に降りてはならない。
家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。
畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
このことが冬に起こらないように、祈りなさい。
(マルコ福音書13章14−18節)
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「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、
そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。
畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。
それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。
逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。
(マタイ福音書24章15−20節)
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以上はイエス自身が、「世の終わり」に関して述べたということになっている部分。
実際に本人の発言であるかは不明。
おそらくは彼の信奉者がその考えをイエスの口に押し込んで権威付けしたもの。
時代的には「マルコ」が先行し、「マタイ」はそれを独自資料を加えて書き換えたもの。
「マルコ」は比較的イエスの姿を素直に伝えているのに対し、「マタイ」にはそれを修正する傾向が強い。
「マタイ」はイエスを、ユダヤ教の継続・完成者として理解しております。
その形跡は、上記引用部分に明確。
「憎むべき破壊者」そのものは、実際に「ダニエル書」に記述があるそうなのでここはまあよし。
一番面白いのが、マタイが6行目に「安息日」という単語を加えていること。
本文である「マルコ」になかった単語をあえて加えるのですから、それは明白な意図があるというもの。
「安息日」はユダヤ教の律法(宗教規則)によれば、何もしてはならない日。
(初期にはそうではなかったが、後世になって人為的規則が雪達磨式に付け加えられて厳しさが増した)
イエス自身は「律法」に極めて否定的でしたが、「マタイ」氏は自身の理解が大切なのでそんなことはどうでもよい。
イエスがユダヤ教の完成者である以上、律法は守らなくてはならないのです。
それ故に、「世の終わり」が安息日でない様に、と付加したわけです。
なぜなら、「安息日」には歩いてよい距離の上限が定められているので、逃げることができないから。
なんとご丁寧に、「マルコ」では世の終わりを「このこと」(7行目)とまとめているのを
「マタイ」では、「このこと」を削除して、「逃げるのが」(6行目)に改めています。
いや、「小賢しい」という表現が適切です。
意識は完全に、どうやって安息日を守らせるかという些事に集中してますね。
なんでも、ユダイズムにはかなり狂信的な人々が多かった模様。
セレウコス朝にユダヤが独立戦争を起した際に、たまたま戦闘が安息日に重なって抵抗皆無で一部隊が全員殺されたことがあったらしい。
当然何もしてはいけないのだから、自分の命を守るための抵抗すら禁じられるという解釈ですか。
今のイスラエルでは、電気のスイッチをつけることも労働として安息日には禁じられていると聞きますが、果たして真相は如何に?

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