宗教、罪

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現在過去日記を話題ごとに整理作業中。
量が多すぎる・・・・・・・・
よくこれだけ続いたものです。
整理過程で否応なく読み返すわけですが、今となっては間違っていると確定できることが多い。
自らの恥をさらして戒めとするためにも、削除せず残しましょう。
2003/9/19の「罪」に関する記述が、なんか痛かった。
現行のキリスト教の説明によれば、「罪」とは自己閉鎖によって造物主から遠ざかることらしい。
「造物主」という概念を除けば、上記説明は極めて高い普遍性を持っているといっていい。
もっとも、造物主なるものが何であるかは全くわからないところ。
ここに「白髪の老人」などというファンタジーを持ち込むという無理解が、宗教を迷信に思わせる。
「造物主」は何らかの普遍法則性であると理解すれば、そこに迷信不条理要素は皆無であろう。
私個人は今現在、宗教から信仰という要素を取り去ることが必要だとおもってます。
この場合の信仰とは、以下のような(大方不条理な)客観的命題を了承する、という意味です。
 ・イエスは神であると同時に人間である
 ・死者はからだを伴って蘇る
 ・などなどその他多数。
話題を、もとの「罪」に戻します。
この「罪」というのは原初的意味においては、全く別物だった模様。
キリスト教以前から存在したユダヤ教において、「罪」とは純粋に宗教法規に対する違反を意味していました。
宗教法規とは、有名どころでいえば「モーゼの十戒」。
そしてそれに付加されていった、食事や衛生規定など。
具体的には、食事の前に手を洗わなかったら、「1罪」。
金曜にエロゲー買いにいって、それでハァハァしてしまったら、合計「2罪」。
本来的には、罪というのは複数形で数えられる名詞だったんだそうです。
それがパウロ氏ら偉大な思想家によって、人の自己閉鎖という抽象概念という地位を「罪」は獲得しました。
パウロ氏は、「罪」を人の持つ根源的転落要素と考えていたために、必ず単数形でしか「罪」という語を用いなかったらしい。
ともかく、普遍化された「罪」の定義に従うのが賢明でしょう。
だから、悪いことをしたら地獄に落ちるとか、万引きは罪であるというのは、かなりアレな言明です。
我々がクリスマスの街頭にしばしば見かけるキリスト教の街宣。
「人は罪人です」とかいうアレですが、あの方たちはおそらく罪を「複数形」のものと理解してますな。
いわゆる「sin」と「crime」の相違もおそらく、「罪」を単数形で理解するか複数形とするかですね。
一部の極端な例をもって全体に普遍する意図は無いです。
ただあの、街頭宣教の人たちは「大きな思い違いをしている」。
話題をユダヤ教の複数形の罪に戻します。
当時の規定によれば、各人は犯した罪(つまり律法を何回破ったか)の数に応じて、神殿に生贄を捧げることになってました。
(想像ですが、手を洗わずに食事すればはと一羽、エロゲーでハァハァしたら雄牛一頭など)
しかしこの生贄規定は、まだヘブライ人が遊牧生活を送っていた時代のもの。
既に定住していたヘブライ人にとって、生贄の納付は非常に重荷になってました。
そこで画期的発想の転換。
「イエスは各人の「罪」の代償として生贄になったので、今後一切生贄納付の必要はありません。」
これがキリスト教で著しく不可解な、「キリストは人の罪を贖った」という命題の本来の意味らしい。
宗教法規違反の罰金(生贄)という、極限までローカルなユダヤ教の発想がそのままキリスト教に取り入れられたようです。
だからキリスト教の言ってることは、世迷いごとに聞こえわけですね。
罪に贖いが必要なんて、そんなことは決して普遍ではない。
しかもイエス氏自身に「贖いの生贄」などという意図は全くなかったのだから、馬鹿らしい。
犬養道子氏のようにこの理屈の弁解はいくらでもできますが、それは護教論というものです。
複数形の罪であるからこそ、それを罰金で帳消しにするという発想が生じる。
法条違反から人の根源的転落と、罪の意味が複数形から単数形に変化している。
それなのに、「イエスキリストが贖った」という理屈を持ってきた。
そもそも根源的転落を「贖う」という時点で間違っているのです。
そこでその点を無理して、「キリストの復活を受け入れた人は再創造されて根源的にあたらしくなる」と説明する。
まさに嘘に嘘を重ねて、どんどん理屈がおかしくなってきている。
そして挙句の果てに、(上記再創造のような不条理な命題が)正しいという確信は、「神から与えられる恩寵である」と。
相手にするのがばかばかしくなってくる。
古代の局所的な発想を現代に引きずるのはやめたほうがいいですね。
イエスさんは草葉の陰で悲しんでいらっしゃる。


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