宗教、アーレフ1

3/11
宗教団体アーレフ の教義を眺めた感想です。
まず、「教義」について指摘されるべき重要事項。
こちらで以前に触れたことです。
・「明確な「教義」を持たない宗教は胡散臭い。」
この命題は、否定されなくてはならないということ。
これすなわち、「教義」とは宗教史的にみて、各宗教の確立後に徐々に定められていったという事実がまずあります。
本来の宗教の創始時には全くなかった概念が、後の思索(政治的意図が極めて大きい)によって付加されてゆく。
そしてこの人為の集積が、「教義」として成立するのが通例です。
そしてさらに、全く体系内に矛盾の無い教義が存在する場合、それは後世の人為的調整に過ぎないということ。
そもそも「真理」が、人間の言葉で(しかも数式も用いず)に、整然と記述できると考えるのが間違いであることです。
要するに、「教義」が存在することは宗教の要件ではない、ということです。
ですので、「アーレフ」(オウム真理教)の教義が矛盾だらけであろうと、それ自体として否定される要素では無いということです。
そうはいっても、あれほどの社会的害悪をもたらした宗教団体です。
その内容は何であるかという知的好奇心もあります。
また、あの反社会的行為をもたらした原因はその教説内容にあるのではないかという疑念もあります。
ゆえに、「アーレフ」の教説を少々眺めてみた次第です。
本日は以下にアーレフサイト内の列挙箇所を取り上げてみました。
「アーレフの教義入門」>「1どのような修行をしていますか」、「2根本となる教義は」
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1、宗教団体アーレフの教義と修行

物質を手に入れることや、煩悩を満足させることではない。
煩悩を満足させるための外的な条件は、常に変化し、移り変わる。
この諸現象の儚(はかな)い性質を“無常”と呼ぶ。
煩悩は飽くことがなく、完全に満たされるということはない。
アーレフが追求する“本当の自由と幸福”――解脱・悟り.
解脱・悟りとは、内側の幸福であり、煩悩の支配から解放された精神の自由であり、迷妄を越えて至高の叡智を得た状態である
それは何も特別な状態ではなく、本来の純粋なわたしたち(真我)に帰ることなのだ。
そこから一歩進んで“利他心”の達成によって得られる、無限に広がる意識状態への魂の進化の道でもある。

宗教団体アーレフの修行者は、大きく二つに分かれる。
一つは通常の社会生活を送りながら教学と修行を続ける在家修行者であり、もう一つは出家修行者、すなわち教団施設等で共同生活を行ない、僧侶として修行を続ける修行者である。
最高の解脱の喜びは、死んでも消え去らない永遠のものだ。
それを得るために出家修行者は、死とともに消え去る喜びを、生きているうちにすべて放棄するのである。
在家の修行の目的は、よりよい転生をすること、そして現世的な幸福を得ることにある。
(布施で功徳を積み、在家の五戒を遵守することで徳の消耗を防ぎ、天界への転生が可能となる。)
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2、根本教義はすべての基本、カルマの法則

カルマの法則を知ることで、何をなせば幸福になり、何をなせば不幸になるかがわかります
「自分がなしたこと(原因)は、未来において必ず自分に返ってくる(結果)」という教えのこと。
未来に自分に返ってくるものが「報い」であり、すべてが必然である。
カルマの法則によれば、自分が対象を喜ばせたら、未来において自分も喜びを味わうことができるし、対象に苦しみを与えたら、自分も苦しまなければならない。
これは、対象に喜びや苦しみを与えた場合、その対象の心の状態がそのまま自分自身の中にデータとしてプリントされるからだ。
カルマの返り方は、条件によって違いが出る
カルマの法則をもう少し正確に説明するならば「原因(因)が、ある条件(縁)を満たした段階で結果(果)を招く」ことだと言える。
とすれば、自分がなした行為(原因)は、必ずしもダイレクトに結果を招くとは限らない。
その途中の条件によって結果も変わってしまう。
カルマの法則を考える上でもう一つ忘れてはならないのは、「ある行為をなすときの心の働きによって、結果が違ってくる」ということだ。
カルマの返り方には、時間差もある。
今日なしたことの結果が今日返る人もいれば、何年経っても返らない人もいる。
この違いは、カルマを現わすスピードを速める善性(サットヴァ)の特質をその人が持っているかどうかで決まる。

善業を積み、悪業を落とすのが仏教の修行
わたしたちは日々、善業、悪業、あるいは善業でも悪業でもないという三種類のカルマを積んでいる。
そこで仏教では、わたしたちが真の幸福に至るためには、善業を積むだけでなく、積んでしまった悪業を清算することが必要だと説く。
では、積んでしまった悪業については、どう対処したらいいのだろうか。
そこで出てくるのが、カルマ(悪業)落としに耐えることだ。
つまり、苦しみを受け入れ、耐えることによって、過去になした悪業を清算してしまうのだ。

> 願望をかなえるには二つの条件が必要となる。
第一の条件は恁徳揩セ。
功徳とは、車を走らせる燃料にたとえることができる。
多くの功徳を積めば、自分が望んだ方向に現象を動かすことができる。
第二の条件として大切になってくるのは、欲求の方向性を定めること。
どんなにたくさんの功徳を積んだと思っていても実際には功徳はすぐに消耗してしまうということ。
何しろ、心に喜びを感じることが、功徳の消耗につながるのだから、わたしたちが普段から喜びを捨断しようとしなかったら、いつまで経っても修行を進めることはできない。
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以上、抜粋引用です。
まず、もっとも私が知りたかったのは、「アーレフの目的」である一番目。
これ自体に、得意な点は見出せない様に感じます。
「無常」「煩悩」「内面の真理」という概念は珍しいものではないし、その主張自体を否定論証するのは不可能でしょう。
「幸福」という主観要素が基準である以上、「悟り」「解脱」といった内面要素を否定肯定するのは無意味です。
禁欲主義が極端であるように感じますが、それは必ずしもオウムのみのことではないし。
このオウムの主張が、「仏教」のそれと同じなのか、私は無学にして判別不可能です。
(詳しい方がいらっしゃれば、それを理解する契機となる本など紹介頂けると幸いです)
非常に違和感を感じるのが、2番の「カルマ」の教説。
本日引用分以外の「アーレフ」の教説箇所を読んだ限りでは、アーレフの目的は輪廻転生からの解放にあるようです。
そしてこの「輪廻」なる概念を既定する最重要要素が「カルマ」である以上、この概念が「アーレフ」の根幹であることは間違いありません。
(この場合も、「カルマ」が仏教の概念にさかのぼるのか?、そして相違は?ということが無知にして分かりません)
私自身は、「輪廻転生」はインドに由来する極めてローカルな普遍性を持たない発想に過ぎないと思います。
(キリスト教の「贖い」とおなじ)
そしてその輪廻を理論化する上での説明概念として導入されたのが、「カルマ」だろうと推測してます。
つまり、完全なファンタジーに過ぎないということです。
ただここでは、アーレフにしたがって、カルマを所与のものとしてその主張を眺めてみました。
確実にいえるのは、「カルマ」が数量的に蓄積して計測できるものと、彼らは考えているということです。
「カルマ(悪業)落とし」、「功徳はすぐに消耗してしまう」という部分に明らかでしょう。
もともとが神話的概念に過ぎないものを、文字通りに受け取るので、この様な不可解な発想が生じるのです。
「対象に喜びや苦しみを与えた場合、その対象の心の状態がそのまま自分自身の中にデータとしてプリントされる」。
しかもこの記述で無理に無理を重ねてカルマを理論化しようとしています。。
発想が硬直的というか、原理主義的というべきか。
我々一般人が報道に接し、オウムの主張で非常に違和感を覚えたものが「カルマおとし」という単語だと思います。
自身の教団の行為を被害者の「カルマおとし」に該当するのだとして、正当化しようとする態度です。
被害者は前世の悪業の報いとして命を落としたのである。
それによって彼らは(悪行の)カルマが減少するので、かえって彼らのためにもよかったのだ。
この様に教壇の人々は発言していました。
私は思うのですが、オウムの人々は決定的に思い違いをしている。
「カルマ」はあくまで自己相対化の視点であると私はおもいます。
自分が苦しい場合にそれを自身の行為の帰結として謙虚に受け入れる、そのための概念装置が「カルマ」なのだろう。
つまり、カルマは決して自身以外に適用されるべき概念ではないし、それは完全に人間の認識可能領域には無いだろうということです。
そうであるのにオウム真理教の人々は、勝手に他者のカルマを計測し、その軽減処置(殺害)まで自身で行なってしまいました。
自己相対化の基準であるはずの概念が、自己絶対化をもたらしてしまったという皮肉です。
この点イエス氏は、次のように述べています。
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」
(マタイ5−43)
この言葉自体の意味はわからないし、イエス自身にさかのぼるかどうかも不明です。
ただ、「善悪の究極的判断は人間には不可能である」という趣旨はそこから汲み取ってもよいでしょう。
「父」が何であるかも不明ですが、少なくともそれが自己相対化の基準としての機能を有していることは確実です。
オウムは(麻原は?)自身にカルマの決定測定権があると自己を絶対化してしまったこと。
これがあの教団の反社会性の一因を為したことは間違いないだろうなあと。
続くにょ。


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