宗教、福音書の相違

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未だに、講談社学術文庫の「イエスキリスト」荒井献著を読み続けています。
結局現在4ヶ月ぐらい継続中。
上巻は2度よみ、下巻の2度目にかかったところ。
初読の時点では理解できない点が多かったです。
原典をある程度まで読み(確か福音書と使徒行伝とコロサイ人への手紙あたりまで)、本文中に原典の参照がある場合には丁寧にそのつど調べてゆくことに。
さらに読み返しの効果もあって、ようやく少しづつ内容が理解できるようになってきました。
端的に評価して、本書は体感的に法律書のようです。
本書はマルコ・マタイ・ルカの3福音書の比較対照から各所の著者の思想傾向を読み解くという構成です。
その必要上、並行記事の詳細な比較対照が必須。
そのために、以下のような記述が頻出。
「勿論ルカ福音書においても、イエスは律法学者・パリサイ派を激しく批判している。(10・25、11.3、18.9)」
このような感じなので、本文の論旨を自ら確認するためにどうしても()内の部分を実際に引いて見なければなりません。
法律書なら必要な条文判例程度はすぐに覚えてしまうので、条文の名前だけ見れば殆ど十分です。
対して聖書の方はあらすじ程度しかわからないので、実物に当たらなければどうにもこうにも。
しかも書く福音書の著者の思想は、至極些細な追加や削除にあらわれるものですから・・・・
これが時間のかかる主たる原因です。
ということで、列車に乗ればこの荒井献の本とフランシスコ会訳新約聖書の2冊を携帯。
本文を読んでは線を引き、聖書を引いて要点をメモ。
周りの人から見ればどうなのか知りませんが、我に衆目を気にする恥じらいはありません。
手間はかかりますが、非常に面白い本です。
福音書著者は各人各様にそれぞれの理解するキリスト像を伝えようとしたのでしょう。
その結果として、同じ「新約聖書」の中でありながら、そこには相互に矛盾する多様なイエス像が内包されています。
それらを比較してゆけば、あのナザレの男の実際の姿が、わずかなりとも浮かび上がってくる。
聖書というものは、明確な政治的人為・作為の元に編集編纂され、正典となった歴史内存在らしいです。
ほぼ1800年の後に、東の果ての無知無学な私が読んですら、そこに多くの矛盾が見えてくる。
これを「聖」と考えることは内容に即すれば、まず不可能です。
しかし奇妙なのは、様々な政治的意図の混入の結果なのか、驚くほど多様な理解が含まれている。
そしてその比較対照により、相当程度まであの男の姿が明らかになってくる。
実相を隠蔽し都合のよいキリスト像を盛り込んだつもりで、それが逆に生のイエスの姿をほのめかしてくれます。
歴史の皮肉というべきか。
ここまでを意図して、「聖書」と呼ばれるのかもしれません。
もうしばらく、あの男の考え方を勉強するつもりです。


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