宗教、宗教の独善性

4/24
しばしばポップミュージックの歌詞で聴く言葉。
「信じるものしか救わない神様に意味はない」
この趣旨のものが結構多い。
この認識は、実に現実の妥当な認識でありかつ適正な評価だと感じるこのごろ。
まだ足も生えていなかったような昔は、私は非常に頭が悪かったので、このような言葉には無意味な反感を覚えたものです。
その心情は、以下のようなものでした。
「お前たちは宗教を勉強したことはあるのか?
何らかの知識は持っているか?
無知な人間が、断定的な言葉を吐くな!」
これは著しく誤った傲慢な考え方だと、今日では考えられるようになってきました。
恐らく詩を書いている人たちは、その分野に関しては、殆ど無知に近いでしょう。
以前の私は、無知な人間が勉強もせずに述べ立てる態度そのものを嫌悪していたのです。
より卑近な例を用いるなら、こんなところです。
「考えることもなく、努力もせずに、パターンさえ作らず、シューティングをクソ扱いする連中は馬鹿だ。」
このような言明は、確かにそこそこの合理性は有しているでしょう。
でもやはり、根底において間違っている。
まず確実にいえることは、前提知識を持たない場合の方が、より事物を適正に評価できるという事実です。
最近一年くらい勉強してましたので、犬福程度には「新約聖書」というものが見えてくるようになりました。
その結果思うこと。
客観的に評価すれば、「新約聖書」もしくはキリスト教はこのように述べています。
信じる人間しか救わない。
信じない人間は地獄に落ちる。
(あの犬養道子氏まさにこの視点、老害というべきか・・・)
「新約聖書」を開くたびに、このような独善的キリスト教臭さが目に付きます。
以下少々引用。
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イエスが言われた。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
すると、イエスはお答えになった。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。
あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
わたしも言っておく。
あなたはペトロ。
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。
陰府の力もこれに対抗できない。
わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。
あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。
あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
(マタイによる福音書、16の16-19)
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この部分はイエスが初代ローマ教皇を任命したと、ローマカトリックが主張する根拠となる部分です。
文理上、明らかにローマ教皇に人間が天国に行くか地獄に入るかの決定権が与えられています。
この箇所にとどまるものではありませんが、新約聖書にはこのような独善的な記述が多い。
そもそも、「最後の審判」という概念自体が、信じるもののみ救われるという理解の最たるもの。
こういうものを見ていくと、ポップミュージックなどの理解はまさにそのとおりと感じるところ。
そのような独善的な「神」など死に絶えるがよいと、私も感じます。
本箇所は、1世紀のシリア方面のマタイ教団で、教団指導者の正当性付与という政治的意図の下に挿入されたらしいです。
だから、上述の独善的な言葉はイエスその人にはさかのぼらないことになります。
それゆえに、上の言葉を以ってキリスト教の独善性と断定するのは無知無学であるという見解が成り立たないでもない。
しかし客観的に考えて、聖書の各節の記述がいかなる伝承にさかのぼるかなど、通常の人間が知る必要のないことです。
それにそもそも、「新約聖書」という体系自体が後に「キリスト教」と呼ばれるようになった団体がでっち上げたもの。
自分たちで作り上げた文書を外部の人間が理解しないからといって、彼らを無知無学と言うのです。
この場合を合理的に、すなわち訴訟法的に考えるなら、聖書の体系を立証する責任はキリスト教の側にある。
つまり「キリスト教」の側は挙証責任の転嫁を行なっている。
疑似科学者たちと全く同じです。
しかもこの無知無学呼ばわりならまだしも、自分たちの体系を「信仰」しないなら地獄に落ちるといってるわけです。
独善きわまれリ、ですよね。
(さらに言えば、ご丁寧に「地獄」という不信仰者の行き場まででっちあげてます)
これでいて善人普遍を装っているのだから、ポップミュージックに馬鹿にされて当たり前。
宗教というものは、帝国主義と全く同じです。
「キリスト教を信仰すれば救われる」
この命題の裏にある、キリスト教を信仰しないものは地獄に落ちるという傲慢さを、ポップミュージックは見抜いているんですよね。
(正確には、対偶を取るべきですが・・・)
最近つくづく、このように感じます。
新約聖書からは、キリスト教を取り除かなくてはならない。
宗教からは、信仰を取り除かなくてはならない。
いわゆる「キリスト教」のあり方は、イエスが最も否定した自己絶対化そのものだと感じるところです。
(でも、このような理性的指摘を行なえる人物を多数生み出しうるほどに、キリスト教という世界には多様性がある)
(シューティングの場合はそもそも「プレイしない自由」があるわけで、本件とは同列に論じられないですにょ)


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