チュンソフトの「街」に関して、私の考えたことを少々書き連ねようと思います。
全ての登場人物の物語を私は好きです。
ここで焦点が当てられるのは、全登場人物中一人のみ。
幾通りもの解釈が可能ですが、事実としては彼は精神分裂病であったのでしょう。
物語が存在するからには、そこには何らかの主題が存在するはずです。
私は、市川は人間の実存を(自己の正義を)貫徹しようとしたのだと思います。
左手という自己に最も近い部分に、意志に反する小人が存在することは次のような寓意であるかと思います。
細井美子、飛沢洋平などの軽快な脚本が私はもっとも楽しめました。
ただ、ここで述べるのはそのような物語ではありません。
以前にこのゲームに触れたのは一年以上前のことですが、それほどの時間を経過した今となっても考えさせられるキャラクター達がおります。
高峰隆士、市川文靖、このご両人です。
前者はさまよい続ける魂として、自分の状態が常に投影されます。
そして後者は、悲しくも滑稽な人間の実存をテーマにした普遍的かつ使い古された主題、といって良いでしょう。
このように、多数の主題を内包しつつ、高いゲーム性を維持したまま完成させられた「街」というソフトは稀代の名作、と評価してよいと私は考えます。
市川文靖その人です。
普遍的テーマですから、かなり客観的な分析が可能な脚本でしょう。
彼の職業はテレビドラマの脚本作家。
そして理想は文学作品を書き上げること。
高い理想を持ちつつ、生活のためか、はたまた金銭のためか俗悪な脚本を書き続けております。
しかもその脚本が必ず大ヒットする人気脚本作家として、業界でその名を知らぬものがいないほどの地位を固めておりました。
そして彼は現実と理想の隔絶の中に存在するのです。
彼には不思議な体験がありました。
眠っている間に勝手にドラマ脚本が書き上げられ、テレビ局に送りつけられているのです。
何者かが勝手に書き上げている、彼はそう思いました。
精神分裂病を疑い、また他者の侵入を疑って睡眠中にビデオカメラまで設置し監視を敢行するに至ります。
こうしてアルコールと薬物と猜疑に陥る中で、かれは一つの決心をするのでした。
「純文学作品を書こう。」、と。
しかしその決心までもが阻害されるに至り、彼は考えたのでした。
「私の左手に宿る小人が諸悪の根元である。」と。
そして彼は自らの生命とともに、その右手の小人を葬り去るのでした。
以上が彼の物語のあらましです。
理想と現実の隔絶に起因するストレスと薬物が発症の契機といったところでしょうか。
俗悪なドラマ脚本を書いていることを認めたくなかった、それ故に人格の統合が破れた。
このように考えると劇的で面白いかもしれません。
挙げ句の果てに自らの左手に小人が宿る、との幻想を抱いた彼はその原因を除去しようと考えます。
(自分の意志を自分のものと認識できず、他者からの命令を受けていると考えるのは精神分裂病の典型的症例であったと記憶しております。)
そして彼はチェーンソーで己の腕を切断し、その命を落とすのでした。
自ら招いた原因により命を落とした愚かな男の物語、客観的にはこれ以外の何者でもないでしょう。
市川の脚本も、寓意として理解を試みましょう。
この世には、何にもまして守られるべき原則が存在する。
彼の場合は純文学がそれであって、テレビドラマ脚本がそのアンチテーゼたる現実でした。
彼は現実に媚びることをよしとせず、自己の実存の貫徹を生きながらえることよりも重視したのです。
これが彼の死の意味でしょう。
そしてまた彼の死が客観的には精神分裂病に起因するものでしかないことは、人間の実存が所詮は無意味なものであることの寓意であるかと思います。
市川自身、自分の行為の愚かさは十分に認識していた事でしょう。
無意味なものを命を賭して守ること、これが人間の生の意味なのでしょうか。
人とは滑稽なものである、それを劇的に表現したものが市川のシナリオと評価してよいと思います。
無意味であるからこそ価値がある、との言明は美しくもあり無内容ですね。
人の実存の最大の障害は、自分自身である。
いえ、いかようにも解釈なんてかのであり、単に自分がそう思っただけのことです。
「実際に彼の腕には、寄生生命体である小人がいた。」という解釈も成り立ちますし。
以上です。