個人的な「エヴァンゲリオン」の感想


ふと、書きたくなりました。
自分の中での過去の、様々な存在の証として。

私とエヴァの関係ですが、当時はそのために生きていたと断言してよい状態でした。
世界は水曜6時半(テレビ東京でのエヴァの本放送時間)を中心に回転していました。
まさに私の全存在を捧げていたといってよい有様でした。
本放送が終わると同時に録画したものをコマ送りで確認し、友人と議論し、不明な個所は翌日書店に調べにいったものです。

問題のテレビ版の最後の2話ですが、自分は初見の時点では全ての結末があのシンジの独白で象徴的に語られたのだと考えました。
制作者を非難する気はなく、理解できない自分の無能を恥じたものです。
(誤解を避けるために書きますと、ここでの私の解釈はあくまでストーリー展開に拘泥したものです。)
それから一月半程度は、このラスト二話を毎日何度も見返しておりました。

当時の私は、エヴァはオープニングの「残酷な天使のテーゼ」に全ての未来が黙示的に語られているとの、不可解な確信を抱いておりました。
エヴァは「少年」が「神話になる」ための物語である。
歌詞中の冒頭と結末に繰り返される文句ですから、これは疑いのないことでしょう。
では、「神話になる」とはどういうことなのか。
ここが解釈の中心となるものでした。

エヴァは、ご覧になった方ならご存じですがユダヤ教神秘主義の用語を(浅薄かつ表面的に)多数採用しております。
ここで注意すべきは、エヴァは単に衒学的であるのみで、その他にも哲学心理学様々な用語を理解も無しに多数用いていることでしょうか。
今になって振り返るなら、理解のある人間はあのような表層的かつ軽薄な用語の用い方は絶対にしないでしょうね。
ユダヤ教神秘主義の用語を特別視したのは、単に自分の主観に過ぎないです。

ユダヤ教神秘主義とは、根元存在との一体化を目的とするものでした。
(神秘主義に関して詳しくは、文庫クセジュ「神秘主義」、岩波書店「グノーシスの研究」などをお読みになることを推薦します。)
ならば、エヴァにおける「神話になる」とは、神との一体化以外にあり得ないはず。
「エヴァ」を作成することは、原初に神が人を想像したことの模倣に違いない。
物語中に「セフィロト」の図面が何度も登場したのも、この象徴図に於いて流出した神性をさかのぼってゆくことを示しているはず。
エヴァは人が再び神に至るための物語である。
これが自分の確信でした。

この視点に立って、ひたすらに最後の2話を解釈しようとつとめたものです。
「使徒」とは、「エヴァ」とは、何であったのか。
そしてある時にふと思ったのです。
最後の2話はそこで語られている以上でも以下でもない、世間の(自分も含めた)「シンジ君」へのメッセージが露骨に現れているだけではないのかと。
大いなる発想の転換でした。

物語中の設定などは実は全て無意味で、制作者は何も考えてはいない。
最後の2話こそがエヴァの主題である。
この理解に到達した瞬間、自分の中でのエヴァへの理解がようやく完成しました。

これから1年あまり立って、劇場版が公開されました。
エヴァは私の中ではすでに完結していました。
しかし、純粋にエンターテイメントとして物語の結末を見届けるべく、私は劇場に足を運びました。
(しかも通算4回も、馬鹿ですね。)

この劇場版に関してですが、自分は高く評価しております。
エヴァにおける様々な設定は、視聴者の興味を引くことのみを目的とした本質的に無意味なもの、と自分は把握しておりました。
ところが、劇場版では自分の当初の確信であった神秘主義に忠実な物語展開がなされていたのです。
理解している人間がほとんどいないであろう設定を貫いたことに関して、私はその首尾一貫性に大変な好感を持ちました。
当時の朝日新聞の記者の方が紙面で、「あの結末は神秘主義の合一体験をあらわしたものであるが、それは一般の理解からは遠いものであった。」という趣旨の指摘をなさっていましたが、まさに慧眼というものです。
こういう意味で、映画は予測可能性の範囲内で、物語に正当な結末をもたらしたものであったと自分は評価しております。

もちろん映画版にもそれなりの不備はあります。
作り物に過ぎない綾波が、実はリリスだったり。
足がなかった第一使徒に足がはえていたり。
テレビ版は後のことを考えていなかったでしょうから、どうにもつじつまを合わせられなかったのでしょう。
それにも関わらずよくやってくれたもの、と自分は評価しておりますが。

唯一なる疑問は、何故シンジ君は合一を拒絶してしまったのかという点です。
結末だけは神秘主義に忠実たることをやめたのでしょう。
「現実を生きてゆくこと」というメッセージを優先した結果なのであろうと自分は考えています。

以上が映画版の物語に関する自分の理解です。
 ・サブリミナル的な映像の挿入
 ・謎が謎を呼ぶ設定
 ・衒学的であること。
思えばこれらが特徴なのがエヴァだったのでしょうか。
自分も制作者の意図にまんまと乗せられたものです。
しかし、本当に楽しい時間でした。
そしてこのような手法が通用するのは、一人の人間の生涯に一度だけでしょう。
今となってはエヴァの経験故に、何であっても冷静に眺めてしまうことと思います。
「どうせ無意味な用語だけで、制作者は何も考えてないでしょ。」
と真っ先に思ってしまうことでしょう。
その意味においては、エヴァは生涯に一度きりの極上のエンターテイメントを提供してくれたものと思います。

私は「エヴァンゲリオン」はその欠点を把握した上で、高い評価を与えています。
メッセージ性を抜きにしても、物語として面白かった。

不完全な作り物に過ぎない綾波が必至に人間であろうとする事への感動。
第13使徒を喰らうエヴァ初号機は、何と理解を絶した存在であったことか。
アスカの2号機が完成したエヴァシリーズに葬られる場面、これほどの痛みを伴った映像を自分ははじめて見ました。
G線上のアリアを背景にした戦闘も素晴らしい演出でした(でもこれは、少なくとも「セブン」の方が先ですね。)
ハイドンの「ハレルヤ」を背景に襲来する使徒、この演出は天才的です。
劇場版の「Komm、siisser Tod」(甘き死よ来たれ)は名曲でした。

やはり、素晴らしい作品でした。
物語「エヴァンゲリオン」と製作された全ての方に、深い感謝を捧げます。



以下、後に追加した部分です。

この作品の意味の一部につき、突然に理解を得られたのでここに書き加えることとします。
2002年、7月26日。

劇場版「エヴァ」での最終版です。

という3点が明らかにされます。
(この設定自体が従前の物語との様々な矛盾抵触を来すことはこの際無視しましょう。)
私が理解したのは、この部分の哲学的意味です。

物語としての「エヴァ」はその根本に神秘主義的合一体験を据えていました。
物語終盤のリリスの覚醒と全人類の存在の解消、碇シンジと綾波レイの合体などはこの概念を象徴的に描いたものと理解するのが妥当でしょう。

「神秘主義」の主眼は、根元存在との合一体験にあります。
そしてこの根元存在は、「神」「自然」「エネルギー」云々となを変えて呼ばれます。
自我の解消と、存在の根元の知覚とそれへの帰還を目指す、宗教的、哲学的観念と申してよいでしょう。
(私個人の理解ですが、キリスト教や大乗仏教の救済とは、この合一を意味するのではないでしょうか)
結局のところ碇シンジは合一を拒んだわけですが、碇ユイの行為は理念としての合一体験の否定でした。
彼女は自我の解消という救済を得ることなく、未来永劫一人で存在し続けます。
ニーチェの超人思想、「永劫回帰」そのものといってよいのではないでしょうか。
(正確には輪廻がなく肉体そのものが永続するので、「永劫」というべきでしょう。)
南インドに生じた概念として、「輪廻転生」というものがあります。
人の魂は、無限に転生を繰り返すという、きわめて観念的幾何学的で冷酷な思想です。
神秘主義が根元存在との合一ということをある意味救済概念としているのに対し、永劫回帰はこの輪廻転生の中で自我の永続を肯定するものです。
自我の解消という安楽を得ることなく、無限に続く自我を意図的に肯定します。
無限の命、と申してよいでしょう。
そこに於いて頼れるものは、強固な自意識のみなのです。
まさに、「超人思想」ですよね。
永遠の自我など耐えられますか?
私は弱い人間です、一切の救済と解放が得られないとは、とうてい耐え難いです。
彼女は恐ろしく強い存在ですから、「エヴァ」という肉体を得ることによって永遠に自我を保つのです。
自我の解消に逃れようとして碇シンジと完全に対象をなしている、と評価してよいでしょう。
碇ユイは碇シンジのアンチ・テーゼであったと。

設定自体は行き当たりばったりで作られたアニメなんですが、このような哲学的意味においては偶然の産物かどうかは分かりませんが、大変に見事に描かれているものです。
あらためて「エヴァ」を見直しました。
劇場版を見てから、5年後の理解ですが。


以上です。

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