「大ポンペイ展」観覧記
この文書は自分が「大ポンペイ展」を観覧してきた際の印象を記すものです。
同展は、東京都の江戸東京博物館(JR両国駅直近)で2001年秋に開催されていました。
展覧会の特質といえば、古代に使用された物の実物を直接目にすることがその特質でしょう。
従ってこの文書は、自分がそれらの遺物を見て考えたことを、背景となる歴史知識に基づいて記してゆくこととします。
同展の主旨は「古代の生活を明らかにすること」であったので、自分の感想も生活状況をめぐるものとなります。
ただポンペイは噴火で滅んだという特殊事情を持ちます。
そこで最初にポンペイという都市の性格・その滅亡の状況に少々触れた後、本論たる古代の生活に移るという形で筆を進めてゆきます。
1,ポンペイとは
現在のイタリア共和国のナポリ近辺に、2000年ほど前に存在した都市です。
ローマ共和国(ローマが帝国になる以前のことです)に征服されて、その領域となりました。
(ローマ共和国にいかなる地位を与えられたのかは、資料が無く不明です。)
その繁栄の最盛期の79年に直北のベスビオ山が噴火し、その噴石に埋もれて滅亡を遂げました。
以後歴史の舞台からは姿を消し、再び姿を見せるのはブルボン朝治下のフランスによって1748年に発掘が開始されるときになります。
現在は一大観光地として、年間100万人近くの観光客が訪れるそうです。
以上が概略の説明です。
以下、ポンペイという都市のローマ帝国内における位置づけについて記します。
出典は河出書房の「世界風俗史1」(Pフリッシャウアー著、現在絶版)です。
ローマは快楽と諦念の併存する文化をその特質としました。
それを端的に現すのが、建国の神話「ロムレスとレムス」の物語です。
ローマ建国の祖ロムレスとレムスの兄弟は牝狼によって育てられました。
(この牝狼の乳房から乳を飲むロムレスとレムスの像は有名なのでご覧になったことがあるでしょう)
この牝狼はローマ初代王の養母である神聖な存在として崇拝の対象です。
しかし同時に牝狼を示す単語「ルパ」はセックスきちがいの軽佻な女という意味も持ちます。
この神話は永遠の都の風俗誌の象徴といってよいでしょう。
そこでは崇高なものと放縦・性的不道徳が常に戦っていました。
この建国時の風潮は初代皇帝アウグストゥスの時代になっても度合いをましこそすれ、変化することはありませんでした。
彼は男女の結婚と女性の貞操を法によって義務化しましたが、実際は婚姻秩序に基づかない奔放な性行為が広まっていました。
彼がこれらの法に厳罰を科していたため、富裕なローマ人はローマ市を避けて別荘や海岸でこれらの恋の冒険をたのしみました。
これに目を付けた企業心に富む金融業者は、大都市ローマを手本にした小都市をいくつも建設しました。
そこではローマで禁じられたあらゆる気晴らしの可能性が娯楽好きの人々に提供されました。
(人間が猛獣に食い殺される、俳優の性交、幼女強姦などだそうです)
この歓楽地の一つが、ポンペイだったのです。
2,滅亡の経緯
古代の生活を語るに於いては本質的な重要性を持たない箇所なので、軽く触れるに止めます。
同展覧会のパネルにあったものを、ほぼそのまま記しておきます。
まずポンペイの位置するイタリア半島ですが、新規造山帯であるアルプスヒマラヤ造山帯(アフリカ大陸とヨーロッパ大陸の衝突地点)の影響を強く受けています。
従ってベスビオス山も立派な活火山です。
ポンペイ史の滅亡は同火山の79年の噴火ですが、その18年前にも強度の地震がありました。
これにより大打撃を受けたポンペイ市はその復興の途上にあったようで、この作業が終了しないうちに再び火山の噴火に見舞われたようです。
(震災被害を受けたポンペイ市が皇帝に援助を求めた碑文、復興作業を記録した壁画が展示されていました)
直接の滅亡の契機となった噴火ですが、その数日前に強い地震が市を襲った事が記録に残っています。
ただ当時は地震と火山活動を結びつけて考えることがありませんでした。
そして噴火があったわけですが、噴石が注ぐまでに6時間程度はあったそうで多くの人は避難しました。
ここで逃げ遅れた人は建物内に避難しましたが、それから三日に渡って噴出物が降り続けたそうです。
このときの噴出物は6m程度の厚さで堆積し、ポンペイ市は高層建築物の屋根を除いて完全に土の下に埋まったそうでした。
3,展示内容
自分が印象に残った展示物に対して、それぞれ印象を述べてゆきます。
断片的な物となりますが、ご了承ください。
技術水準、生活水準、文化、不満を抱いた点の順で言及してゆきます。
技術水準
- ローマ帝国が我々に残した物としては、ローマ法と建築技術が有名です。
建築技術ですが、すごいですね。
知識として有しているものは多かったですが、現物を見ることで実感として理解することができました。
現在の建築現場などと変わらず、クレーンを用いています。
巨大なクレーンの腕があり、それと歯車が連動して巨石を持ち上げます。
クレーンの腕はひもで結ばれて、後方から人力もしくは家畜によって制御するようでした。
そして歯車はかなり大きなもので、内部に人(恐らく奴隷)が入って回します。
これによって何トンもの巨石を持ち上げ、あの壮麗な石造建築物を建設してゆきます。
合理的に考えるならこのような技術なしにパルテノン神殿など建設不可能であることは明らかなのですが、驚きです。
- 有名な水道装置も展示がありました。
配水管ですが、その形といい、分水のために枝分かれするところといい、現在のものと比べて全く遜色がありません。
高度な金属加工技術が見て取れます。
水源から分水場までの水路があり、そこから公共用水、富裕者邸宅に分水されてゆきます。
この分水場は街の最高所にあったので、水圧を保ったまま分水がなされて水道から水は自噴したそうです。
だから噴水なども可能だったのですね。
この際の配水管は、鉛製でした。
加工が容易で腐食されにくいという利点を持つ鉛ですが、人体への重金属蓄積という欠点も持ち合わせていたそうです。
この知識が実物で確認できたことも収穫でした。
- 織布、醸造所の模型展示などもありました。
正に「工場」と申してよいのではないでしょうか、分業化されシステマチックに製造過程が進行してました。
自分の乏しい知識では、後の工場制手工業と奴隷労働以外の相違点が見いだされません。
当時の技術水準に於いても、生産過程の合理化を考えるとこのような仕組みとなるのは論理必然的な結果でしょう。
ヨーロッパでは中世末期までこのような生産現場はなかったはずですが、他の文明においてはどうだったのでしょうか。
これが世界標準で西欧は後進地域であったのでしょうか、なかなか気になる所です。
- 医療技術ですが、
脱臼手術、帝王切開、白内障治療のための水晶体除去、ヘルニア、尿道結石、美容整形、頭蓋骨の手術が行われていたそうです。
手術用のはさみなども展示してありました。
自分が昔読売新聞で読んだことですが、人工妊娠中絶などもかなり盛んに行われていたそうです。
- あとは細々としたところですが、床暖房などという技術もすでにこの時代に存在したのですね。
ガラスなども、それなりの透明度のものが製造されていたようです。
富裕者の邸宅には窓ガラスがあったそうです。
自走式計測器というものの実物が展示してありまして、家畜に荷車をひかせるとその際の車輪の回転を3回ぐらいの歯車で変換して走行距離を自動的に記録してゆくという機械です。
うまく作ってあるものと、感慨を覚えました。
生活水準
- 物価
まず、当時の物価がパネルに書いてあったのでそのまま転載してみます。
通貨単位はアスというものですが、現在との換算は不可能なのでそのままにしておきます。
食費などから想像なさってみてください。
パン(3人1日分)、2〜8
チーズ(3人1日分)、2〜4
ワイン(3人1日分)、1
高級ワイン(3人1日分)、4
公衆浴場入浴料、0.25
銀の漉し器、1500
ラバ、2000
奴隷、10000
食料品は安いですね。
これは当時の富裕者が属州などで奴隷制農園で低コスト大規模生産を実現していたからです。
当然安いのは、ローマで一般人に売りつけて利益を上げるためですね。
海外での低コスト大量生産と物価の下落、それによる国内農業の衰退。
現在の日本の図式と同じであると思いませんか。
マックとか吉野屋で食べるたびに、このことを考えてしまいます。
対して耐久消費財などの加工品、これは高価ですね。
手仕事故に生産が少なく高コストなのですが、これが必然的にものを大切にするという風潮も生んでいました。
一般の市民(奴隷ではなく自由民)でも、衣類は高価であったために古くなると染め直して使用したそうです。
職人の技と物の一つ一つが意味を持っていた時代、今となっては不可逆的な過去の話ですが素晴らしいことだと思います。
ラバや奴隷といった生産手段はかなり高価なようですね。
富裕者にしか手のでない代物であったと思われます。
ただ奴隷に関しては、以下のような反対の記述も目にしたことがあります。
奴隷はローマの征服につれて供給過剰になり、一般人でもこれを所持しない者はいないほどであった。
かくして市民はその下層のものであっても完全に労働の必要を失ったのである。
- 食生活
古代ローマでは一日2食であり、昼頃と夜に食事をとったそうです。
日本でも昔は(無知故に確定できませんが、鎌倉室町時代までは少なくとも)一日2食でしたよね。
一日三回食べるというのは純粋な習慣の産物であって、2回でも問題はないと思います。
しかしこれには古代の一日は日の出と共に始まって日没で終了せざるを得なかったという事実も関係しているでしょう。
仕事は午前中に済ませてしまったそうですね。
市民はほぼ毎日、公衆浴場に通ったそうですよ。
現在AM、PMという略号を用いますが、これはラテン語だそうです。(自分は知りませんでした)
ラテン語で正午を「meridies」というそうで。
午前は、ante meridies
午後は、post meridies
主要な食料としては次のようなものがありました。
・ 野菜、キャベツ・タマネギ・テンサイ・マメ・ニンジン
・ 果物、ブドウ・イチジク・クルミ・シイの実・アーモンド・モモ・リンゴ・ナシ・レモン
・ 肉、牛・豚・イノシシ・鹿・ヤマメ・ニワトリ・野鳥
なかなかいろいろなものを食べていましたね。
イチジク・サクランボ・ハシバミなどの農園あとも発見されているそうでした。
そのほかにも富裕者はカスピ海やイングランド・アフリカなどから出費を惜しまず珍味を取り寄せていたようです。
食生活とは少々違いますが、鳩の飼育、カタツムリの飼育が流行したこともあったそうです。
「流行」とは、いつの時代にでも(恐らく類人猿の時代から)あったものなのですね。
文化
ポンペイ遺跡の地図が展示してあります。
かなり興味深いものでしたので、以下のその地図から感じたことを少々述べます。
- イシス神殿が、堂々とたっていたようです。
イシスとはエジプト起源の性愛もその一職分に含む地母神的性格を持つ女神ですが、おおっぴらに崇拝の対象になっていたのですね。
そういえばアジア起源のミトラという太陽神も、キリスト教の競争相手となる程度に帝国内で大流行したことがあったはずです。
さすが自己の神話をギリシアのものと混合させてしまった民族だけあって、このあたりは寛容ですね。
ポンペイ内にはそのほかに、アポロン・ゼウスなどのいくつかのギリシア・ローマ神格の神殿がありました。
造物主としての神ではなく御利益の対象としての信仰、この意味においては日本と大差ないのではないでしょうか。
- 信仰面でもう一つ気をひいたのは、バッコスの被儀の壁画があったことです。
バッコスはギリシャの神格デュオニソスのローマ名です。
この神格はギリシアでも大変に歴史が古く、自然との合一をその本質としたようです。
(この側面として、葡萄酒・性交・殺戮といった性格を併せ持ちました。)
その祭儀は権力者の側からは常に反社会性ゆえの弾圧の対象であったようですが、ここポンペイでもかなりの流行を見せていたようです。
この神格の本質が無視され、純粋に乱交の集会の口実とされた。
古代ローマの富裕者の間ではいかにもありそうなことです。
- 予想通り、闘技場と劇場を街は備えています。
町はずれにあるのですが、膨大な数の参観者の入退場の便を考えてとのことでした。
選挙前にはしばしば劇場にて、無料の劇が披露されたそうです。
「パンと見せ物を求める民衆」という世界史の教科書の通りなんですね。
自分と同行した人間は、「無料で観劇の催しがあった」という記述を見てローマの文化水準の高さに驚いたのだそうです。
詳しく話してみると、ローマの国民皆兵原理と領土拡張に伴う自営農民の没落・普通選挙制という事実に関する知識を全く持ち合わせていないことが判明しました。
「観劇」は富裕者が選挙での得票を狙った買収行為の一環で、食料金銭の提供と同じものであったのですが。
たしかに前提の知識がなければ、わからないかも知れません。
これに関しては、展覧会の側での説明不足としかいいようがないです。
- ギリシャのポリスとは違って町の中心部にあるわけではないのですが、公共広場があります。
(ローマ都市は中世ヨーロッパやポリスと異なり中心という概念を持ちません、これが大多数なんでしょうね)
この公共広場をラテン語で「フォルム」というそうですが、きっとこれが英語の「フォーラム」の語源なんでしょう。
- しっかりと娼館もありました。
当時の娼館は青銅で鋳造された男根がノッカーになっており、その商標によってこの家の主人が男性の性欲を満足させる目的にのみ仕えていることを示していたそうです。
娼婦は連行されてきた被征服民が主体であったようで、奴隷身分であったそうです。
ローマの女性達は、これらの娼婦や征服地ギリシャから持ち込まれた風俗である男色、こういった競争相手にベットを奪われるまいと化粧や衣装に贅を尽くしたそうでした。
- 混酒器の実物が展示してありました。
葡萄酒・水・蜂蜜・香草を混合するための装置だったのですね。
ホメロスで頻出の道具なんですが、一体何であるかを知らなかったので目からうろこが落ちた思いです。
- アラバスターの壺なんてものも興味を引きました。
あの福音書の逸話で、ベタニアにてイエスの足元に遊女がひざまずいて彼に香油を注いだ、という件に登場する香油の容器です。
実物が見られて感激でした。
玉のような柔らかな色合いの、暖色系の石材なんですね。
大変に高価な代物だったのでしょうね。
- ローマ人の人骨で下顎に貨幣がのっているものが展示されていました。
死者の口に貨幣を入れるという習慣はギリシアに由来するものです。
死者が冥付に降りるに当たって、その入り口のレテ川の渡し守カロンに対する船賃に困ることがないように。
これがその行為の意味でした。
この風習が異民族であるローマ人にも受け入れられていたようです。
実物で確認できるとは、大変にありがたい展示会でした。
- ホメロスの叙事詩の一場面を描いた壁画、なども数点の展示がありました。
「ヘパイトスがティティスの頼みを受けてアキレウスのために武具を製造している場面」のかなり巨大な絵もありました。
古代世界では、本当にホメロスは好まれた題材だったのですね。
後生での宗教画に匹敵するような題材だったのだろうなあと推測します。
具体的題材は失念しましたが、ローマではなく完全にギリシア神話の場面を描いた壁画も多数展示されていました。
自分が征服した文化をこれほどまでに受け入れるとは、不思議なことですね。
それほどギリシアは文化水準が高かったということでしょうか。
不満な点
- この展覧会で少々気になったのは、奴隷制に対する言及を欠いていたことです。
「大ポンペイ展」のポスターは、市民のパン屋の夫婦の肖像画に「あなたは同じくらい豊かですか?」との文言が書かれていました。
奴隷労働と属州搾取の結果として成立する市民のみの豊かさ、これがローマ帝国の本質であったと思うのですが。
前提条件の説明を一切しないで一番よい部分のみを見せられてもねえ、というのが正直な感想です。
同展で奴隷制をほのめかせる展示物は少数でしたが、なかなか興味深いものでした。
ローマ市民の男性は主に白の長衣(トガというそうです)をまといましたが、これは市民権を持つことの証であったそうです。
また市民の子供が皆下げていたという金の首飾りも展示されていました。
この首飾りも、奴隷ではなく自由民であることを明かすためのものだったそうです。
身分制の社会に於いては、自由民であっても常に自己の地位を表象する必要があったのですね。
個人ではなく身分、これが近代との違いであるなあと再確認させられました。
- もう一つなんですが、性に関してもあまり言及がありませんでした。
古代社会を考えるに於いて、避けては通れない領域だと思うのですが。
現代の常識と過去のそれは全く異なる、これを知ることで現在を相対化して把握することができるようになる。
これが歴史を学ぶ事の意味の一つであると自分は思います。
であるのにこの展覧会では性は隠蔽すべきものとして、あまり言及がありませんでした。
「古代の人々」という展示の一角があって、そこに上述の貨幣をくわえた人骨と並んで男根が展示されていました。
男根といっても素焼きで象徴化して(三角錐と球二つ)あり、「ファルス」との名前のみで一切の説明がありません。
気付く人だけわかってくださいね、と言わんばかりの展示方法でした。
古代社会では性に淫靡な性格はなく、豊穣と生命力の象徴であったということをしっかりと説明すべきであったと思います。
性の隠蔽がある限りは、女性差別はなくなることがないと思います。
以上です。
最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。
当方はゲームサイトですが、御感想等ございましたらぜひ掲示板などにお願いします。
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