下記追加事項から、さらにしばらく後の時点における見解です。
もう一つの偉大な点は、現代という時代への観点です。
本書を離れしばらく考えた後の見解です。
「聖書を旅する」は長所と短所が共に極めて明白な著作である。
ここにおける短所とは、犬養氏の護教論のことです。
本書の趣旨の一つにして犬養氏が繰り返し主張する要素に下記の点が挙げられます。
「イエス自身が教会を設立したのであり、その教会とは現在のローマカトリック教会である」
その主張の論拠として、明白なものは「マタイ福音書」のペトロの信仰告白のくだりでしょう。
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わたしも言っておく。
あなたはペトロ。
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。
陰府の力もこれに対抗できない。
わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。
あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。
あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
(マタイ、16章18,19節)
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確かに聖書の記述によれば、ローマ・カトリック教会はイエス自身の命によるものとされております。
しかしながら犬養氏は、聖書の記述そのものが人為的作為によって編集されているという事実を意図的に無視しております。
宗教改革をめぐる教会大分裂につき、犬養氏は大変詳細に分かりやすく説明をなさいます。
かようなローマカトリック教会擁護のための編曲的記述は、決してこのペトロ首位権にとどまるものでは在りません。
(第五巻「和のために」、参照)
ルター派とローマカトリック和解の運動の中で、犬養氏はこのように記されます。
「ローマ教皇の首位権というデリケートな問題についても、プロテスタントとカトリックの共同研究が行なわれている。」
この記述自体は、紛れも無い事実でしょう。
しかしながら犬養氏は、以下の事実を完全に無視しております。
上記「マタイ」の引用部分そのものが、特定教団の権威付けの意図を持って挿入された可能性がある。
この見解が真実である必要はありません。
聖書の記述は仮に起源が神であれ、明白な人為の下に編集されているという事実は指摘されなくてはなりません。
犬養氏ほどの研鑽を詰まれた方が、この様な研究成果をご存知で無いとは到底考えられません。
旧来のカトリック教義に都合のよい事実のみを指摘し、そうでないものは一切無視しているのです。
事実歪曲の明確な意図があると、認定せざるを得ないでしょう。
犬養氏が力説された、教皇ヨハネ23世の偉大な人徳とヴァチカン第二公会議の意義。
それらはカトリック教会の、自らの非を認めてより学問的なイエス像・キリスト像を謙虚に求めるという点にあったはずです。
犬養氏の護経論的態度は、それらの長所に反する反ローマカトリック的なものであるようにすら思われます。
これこそが、「聖書を旅する」の最大の欠点であるとの評価はぬぐえないでしょう。
本書におけるローマカトリック擁護の記述は、全て一方的なものである事実を認識して読まなくてはなりません。
最初に短所を指摘しましたが、本書には大変に優れた点も多く在ります。
まず、聖書の記述は全てその意味を考えるためのものであり、決して文字通りに受け取ってはならないという指摘です。
一般人にとって、もっとも重要な認識がこれでしょう。
聖書(特に旧約)の記述を全てキリストに結び付けてしまうという欠点はあります。
この認識に基き、犬養氏は創世記の記述を重視して繰り返し説明してくださいます。
記述を決して素直に読むことなく、無理にイエスキリストとの関連を読み込むのです。
「信心深い」読み方のようで、原典の記述を自分に都合よく読んでいるに過ぎません。
むしろ「反聖書的」と形容してよいでしょう。
その神話の深遠なる思想性に私は非常に感心させられました。
自身のそれまでの認識が、如何に幼稚で誤解に満ちたものであったかを認識させられたものです。
犬養氏の解説の中で、「罪」とは自己閉鎖であり良心への背反であるという指摘は、実に感動的ですらありました。
聖書のメッセージを如何に現代に適用するか、と言い換えてよいでしょう。
この観点はまさに、世界各地の難民問題に長年取り組まれた犬養氏の経歴が生み出したものでしょう。
「啓示」とは、決して「神」や「天使」なる実体が具体的な「ことば」を伝えてくるものではない。
「預言者」とは、万人に現在する目前の事実を直視し、そこから明確なメッセージを読み取ることのできる存在である。
そして誰にでも見える現実の中にこそ、時の「しるし」が存在するのだと。
このご指摘は恐るべき慧眼です。
以上が、「聖書を旅する」の長所の代表的なものです。
いずれにせよ、本書を読み通すほどの興味関心があれば、他の書籍にもおのずと進むはずです。
さすれば、犬養氏の欠点は自ずと明らかになってくるというもの。
長所と短所を正確に認識することが、読者として犬養氏への誠実な態度と思われます。
「聖書を旅する」は、犬養氏の福音の実践である。
この様に評価するのが、最も適切ではないかと思われます。
「どう読むか、聖書」・「書物としての新約聖書」など聖書学者の手による一般向けの概説書を本書の後に手に取りました。
そこで理解できたのは、犬養氏の護教的な非合理性、記述の内容程度の低さです。
(さらにはカトリックの見解の奇妙さや、聖書というテキストそのものの不確実性を含む)
学説上は到底支持されえない見解や信憑性の乏しい資料を事実として扱うなど、疑念を抱かざるを得ない部分もあります。
ただ、それらは些事なのでしょう。
本書の問題意識の焦点は、第七巻の「現代問題と聖書」にあるのだろうと思います。
貧困・環境破壊・エイズ・児童の性的虐待。
これらの現代の「しるし」を如何に把握し、そこに福音を実践するか。
その現実の前には、重大ではあっても学説上の非合理性など、意味を持ちません。
犬養氏の経歴を考慮すれば、この部分にこそメッセージの主眼があると評価してよいと思います。
そして本書は、それには十分な知識を考える姿勢を読者に養い与えてくれるものです。
便宜上、文書の製作主体を以下のように定義します。
本文書は筆者自身の学習のために製作されたものであり、必然的に犬養氏の見解が多数を占めることとなります。
ただその場合においても、筆者自身が引用している事実は重要です。
引用の際に要約や用語の置換が行なわれることは決して少なくないでしょう。
また、仮に正確な引用であっても、文脈からその一部のみを抜き出しているわけです。
文脈の中で始めて適正な理解が得られるという事実は否定の余地がありません。
さらには、引用を行なう箇所は筆者自身の主観によって決定されているわけです。
すなわち、本文書群において提示されるのは筆者の主観であるという事実は自明です。
筆者の主観であることを、筆者自身が明白に意識している場合があります。
以上の場合が代表的ですが、それらを記す場合には、文書の色を変えることとしております。
すなわち、スカイブルー色(本文の色)にて記述された部分が、筆者の見解です。
筆者は、本書の扱う分野すなわち「キリスト教・ユダヤ教」に対して極めて微小な知識しか持ち合わせておりません。
したがって、理解の基礎を成すと思われる、単純な歴史や聖典の知識に焦点が当てられております。
同一の事実の重複が多いですが、それは記憶に定着を図るためです。
ただし、要約は可能な限り原書の記載順に行い、さらに引用もとページを明記するよう勤めております。
本文書は筆者の学習のために製作したものです。
従って本文書も、犬養氏の記述をまず理解することを目的としております。
故に、犬養氏の見解を否定的に捉えることは避けております。
一般論として、以下の立場に筆者は拠るからです。
自身の価値基準としては、法哲学に言うところの「普遍主義」を採用しております。
自身の学識知性は著しく低いことを理解しております。
しかし同時に、人は基礎から学べばかならず一定の理解を得られる理性と知性を持つという見解を支持しております。
すなわち「聖書」なる古典から、一般人であっても多くを理解し学びうると考えています。
これらの(宗教的な)必要性は、記述の上では理解できます。
旧約のどの部分で預言されており、イエスの言葉がどれにかかわり、ということも犬養氏の説明は文面上は分かります。
が、合理性の基準で同意が困難でした。
しかも、どれもこれも、現行のキリスト教として説明されるものの中核をなす教説部分ですね。
何故にイエスが神そのものでなくてはならぬのか、どうして彼でなくては人を贖えないのか。
この犬養氏の説明が、理解できないというよりも、同意しがたいと言うのが適切な評価でしょう。
イエスがキリストであるのは、造物主と人の関係の完全なるオリジナルかつ卓越した見解を提示しえた点にあるのではないか?
神とは他者との積極的関係性であり、ことばであり、愛である。
これを説いたが故に、イエスはキリストだったと我は感じました。
また、復活とはあくまで心のあり方と思ったのですが。
逆にいうならば、それら以外の大部分は普遍性を持つことばとして同意可能性を見出しました。
以上が代表例ですが、宗教を超えた普遍性を犬養氏は筆者に提示してくれました。
筆者は、全10巻を3回通読しました。
本書は、犬養氏が一般人を対象に執筆された作品です。
内容は上述のように多岐にわたり、それらを基礎から分かりやすく説明してゆきます。
しかしそれでも、少々難しいと筆者は感じました。
内容の記述を咀嚼するのが困難という意味ではありません。
記述を理解するための、知識がある程度は要求されているという意味です。
この程度の知識がないと、犬養氏の記述を追うのが困難になると予想されます。
「聖書」に興味をもたれた方が、初めての書として「聖書を旅する」を選ぶのは賢明ではないでしょう。
これらの書を順に読めば、基礎的な用語の知識と問題意識を得られるものと思います。
(上記列挙の書は全て筆者が読んだものですので、面白いことは保障できます)
本書全10巻中最も難解であったのは、「第五巻、和のために」です。
五巻はカトリックとルッターの分裂をめぐるものです。
相違を明らかにするために、カトリックとルター派の教義に分け入っている部分であるからです。
犬養氏はカトリックの立場に立脚されていらっしゃいます。
ルッター派という同じキリスト教でありながら一部で相違する見解。
これとの比較によって、カトリックそのもの姿が否応なく明らかになる。
この意味において、5巻は極めて実り多く「聖書を旅する」の中枢を構成するといっても過言ではないでしょう。
並ぶ重要度を持つのが、最後の第10巻です。
創世の哲学的意味とそれがイエスにおいて如何に実現されたかという、本書のまとめの部分です。
ここまでの知識が総動員されるがゆえの、難しさと奥の深さがあります。
他に犬養氏の論理を追うのが難しいのは、他に1,2,3巻です。
逆にいうならば、それ以外の4,6,7,8,9巻は少々単調と感じられるかもしれません。
氏の文書は、総体として極めて論理的であり、趣旨が明快です。
しかしながら、部分的に見るならば、それと正反対の印象を受けるでしょう。
これらは氏の文書の分かりにくさの一因をなすように感じられる要素です。
氏の文書は、用語の説明が些か適切でないように思われます。
(括弧)内の解説が2行、3行と続くのは当たり前。
さらには、関係代名詞節いうべき日本語に存在しない用法が多用されております。
そして括弧と関係代名詞が、同一文内の主述の対応関係の把握すら困難とします。
したがって、初見では氏の文書は支離滅裂のような印象を受けるのです。
しかし、分かりにくいが故にこそ、その章の冒頭に戻ってタイトルを眺めましょう。
その章が何を述べる箇所であるかはが冒頭に明確に提示されているはずです。
その問題意識を持って探せば、それに対する解答も確実に存在します。
そのときに初めて、一見無意味に思える氏の引用が、実は合目的的であったことが理解できるはずです。
犬養氏は、明確なメッセージのもとに、明確な文書計画の上で執筆されるのでしょう。
ただ、その道中における接続が些か独自であるために、分かりにくいと感じられるのです。
ただ、この一見分かりにくい記述すら、犬養氏の意図されるところである可能性も十分に存在します。
理解が困難であるからこそ、読者は考えるという主体的作業を行なうからです。
そして考えた上での把握は、平易な文書でそのまま目に入ってくるよりは、遥かに理解と記憶において勝るでしょう。
以上です。
犬養道子氏に、深い敬意と感謝を捧げつつ。
2004年冒頭