本論の通常の文書は本書の引用(筆者による要約あり)であり、括弧「()」で囲まれた数字はその該当ページ数を示します。
本論は、表題著作の読書メモであり、製作者自身の復習のために作成しました。
一巻から順に各巻を2度読んで全10巻を通読。
その上で再び第一巻に立ち返って読み返した後の本への書き込みをHTML化というものが、本論の成立過程です。
本論中のSkyBlue色にて記述される部分は、筆者が個人の見解を付加した部分です。
犬養氏の権威に由来するものでない故に、誤謬である可能性が高いです。
「神は死を作らなかった」という場合の「死」は、魂の死・心の暗闇である。
対する通常の意味の「死」は、有機物の分解の結果という当然の作用であって元来意図されたもの。
本来的に恐ろしいのは魂の死であり、それは他者への不幸をもたらすから。
(アウシュビッツなど)
そしてこの魂の死は、人間が離反したことの結果として生じたもの。(失楽)
離れ去った人間を探し出し、この魂の死を解消すること。
このプロセスを描くのが聖書である。
表現ゆえにギリシャ的二元論とされた同書である。
しかし、発見された書物からクムランの時代から「光と闇」という発想がユダヤの民にありふれたものであったことが判明。
彼ら(上記学派)をまとめたものは、言葉を受けて答える心。
言葉とは命であり、命とは人の係わり合い。
具体的には国境民族を超えて兄弟姉妹として集うこと。
そしてその集まりが目的地に向かうのであり、目的地とは生命(神)自身への参与である。
私が飢え渇いていたとき、お前は食べさせてくれた。
私が流浪の異郷人だったとき、お前は私を受け入れてくれた。
裸だったとき、着せてくれた。
病んでいたとき、見舞ってくれた。
牢につながれていたとき、訪れてくれた。
異国異民との交流の激しい土地で、民のアイデンティティ(神の承認と言葉への信)が失われることに危機感が持たれた。
そこで選民思想をあおるためにルールが付加されていった。
虜囚後の、エズラネヘミアの改革後の事象であるが、外面の束縛に伴い同一性の根本が失われていった。
上の二者は普遍不変であるが、3は歴史文化などの民の民度に応じて変化する。
すなわち、段階的教育である。
モーゼのころ、神は契約の箱の中。
次は神殿に(ダビデ・ソロモンの建設、AD70にローマにより破壊)。
次は人々の中に、「二人三人がこころ一つに集まるところ、その中に私はいる」というイエスの言葉。
レヴィ記のころは集団が責任主体であったが、アッシリアやバビロン虜囚ごに個人が責任主体とされる。
「惰性で動く安逸の日々、金や成功のために偶像を拝むこと」
この様な現実は正しいのかという心中の疑問を、「神の言葉」と把握するのである。
この部分の記述はJ派。
直接的には、ダビデソロモン王による神殿建設に疑問を抱き、「私がお前に家を与える」と言わしめた。
「啓示」とは、人の知りえない存在が自らを示しだそうとすること。
つまり出来事や人事象との出会いかかわりを通して語るのである。
(神が現前しヘブライごで話しかける、などと文字通りに解釈してはいけない)
啓示の際の伝達手段がインスピレーションである。
(インスピレーションの語源は、息を吹き込むことであり、外来性を物語る)
そしてインスピレーションとは、具体的事実を見て、その事実の意味を悟ることである。
私も同様に考えますが、どのあたりがまだ不足なのでしょうか?
聖書はルポルタージュではない。
科学的正確さをもって欠かないことにより、リアルを描く。
その読み方は、「文字通りに読まない」、「背後の意味を汲む」、「今の問題から離れて読む」。
民はモーゼに、食と安全を求めてエジプトに帰ると毒つく。
(しかも海が割れた直後に)
出エジプトそのものは、民をこころの隷属状態から脱出させることを象徴している。
神の名「存在」、正確には「今後お前たちが体験する日々を通して知ってゆくもの。」
その意は、生命に満ちるもの。
モーゼへの招きは、生への招きである。
十戒そのものは、当時アジアの交易法でもあったハムラビ法典との類似性が強い。
異なるのは、偶像崇拝の禁止である。
神が敵の「皆殺し」、戦利品の「全焼却」を要求したのは、弱い民が多神教の影響を受けるのを防ぐため。
偶像すなわち(神像のみならず金や地位や名誉)を捨て去ることこそ、心の隷属からの解放である。
出エジプトの過ぎ越しの食事を意識したたとえ。
子羊は過ぎ越しの約束の証として死ななければならない、そして子羊は神の与えたもの。
頼るべきは言葉のみであると悟ったこと。
すなわち、国土や神殿といった発想を脱却したのである。
この「ことば」への信頼と忠誠が、新約の下地となった。
モーゼの説いた事件を如何に生に活かすかを思い巡らした書。
そこに記されるのは、神を愛するための具体的な方法。
まず外面を整えることによって、内面の成長を促すものである。
ヘブライの民が招かれたのは、小さく弱いからであり、それ故に招きに答えるのである。
荒野時代、カナン時代
唯一神教保持のために他民族を排するおきて。
ただし、「異邦の流れ人は迎え入れよ」。
万人への救いの導入部としての選民であり、厳しさが前面に出る。
預言者時代
いかなる民も神に愛されるという広がりが出る。
ただし、この神の心の広さへの抵抗も発生。
厳しさとやさしさの両面。
イエス時代
善を行い誠を生きる全ての人への神の恵みであり、その広さへの抵抗が極大に。
慈しみとやさしさ。
その言葉が受肉托身したことに、イエスの新鮮さがあった。
さらには、作業を通して物を作る喜び、自らへの誇りという、心の隷属からの解放を意図している。
その意味は、生命そのものである血を神に返すとともに、神と人が捧げ者を分け合うこと。
これは聖書の時代はるか以前からの、この地方での遊牧民の習慣である。
神は新規な儀礼を要求せず、既存の習慣に意味を与えて昇華させたのみ。
そして個人の罪をその家畜に負わせ、家畜は罪そのものとなって放逐される。
すなわち、「イエスは身代わりに」という概念は、この習慣から発生したもの。
つまり神は、中東にありふれた習慣にのっとったに過ぎないのである。
日本にも穢れをひとかたにゆだねて川に流したりする。
嵐を静め病を癒したことは、万物を調和に戻す力を有することの現れ。
それらの不調和は言葉への背反(創世記の失楽)よって生じたものである。
ならば世界を創成した「言葉」であるイエスは、当然にその不調和を解消し、「新創造」を行いうる。
アーメンはMNである。(ヘブライのアルファベットは子音のみを表記する、母音記号の発生は2世紀ごろ)
そしてこのMNは、ヘブライ語で「ゆるぎない」という意味でもある。
ゆるぎないものとは、神のみであり、ならばその言葉もゆるぎないものである。
そして言葉のゆるぎなさとは、次の特性を意味する。
旧約においては「神はいった」と記されるが、新約ではイエスが「アーメン」と唱える。
その意味は、イエスが自らがことばそのものであることをあかしている点にある。
人はアダマ(ヘブライ語で土)に霊を与えられたもの。
それを「与えられた」と文字道理に解釈するのは、原理主義的である。
この記述はおそらく、人と動物を眺め、その相違としての精神の存在する理由を突き詰めた末の思考をおとぎ話に託したもの。
高貴なる精神の起源として、外部的要因を想定したのであろう。
ゆるぎない者の息が吹き入れられたのが人間である以上、人間もそのものの不動性にあずかるはず。
人はアーメンの息を体を持って受け入れたのであり、人は体を持ってこそそのものの似姿にふさわしい精神活動を行う。
ならば当然に、体もろともに不滅性に与るのではないか?
人間存在の意味や目的地は、人間・自然界の外部にある。
この発想を科学的に述べると、運動法則や科学法則の第一原因を創造と理解するということになる。
ホーキングが「人間原理」と呼ぶところのものでは?
「原初」という発想は文字通りに捉えるべきではなく、それは概念としてのもの。
すなわち世界の万物の発生と運行に統一性を見出し、それを「創造の結果」と把握した上での「原初」である。
(当然に創造そのものは、万物の調和のある良い姿)
それなのに現状の苦境(直接的にはバビロン虜囚をさしている)があるのはなぜか。
ヘブライの民は、それを神との約束への背反と考えた。
それを食べることは、自分を唯一の善悪の決定権者とすることを意味している。
そして食べた人は、その事実を隠そうとした。
自己中心主義や他者への不信が生じたからである。
同一の言語を使っていても、意が通じなくなり、相互に分かり合うことができなくなったという意味。
外国語を話すから解らないのではなく、同一言語なのに分かり合えない点に意味がある。
使徒言行録には、息吹を受けて異邦異国のことばを話すようになった、というこの説話を意識した表記がある。
彼は大分限者であって、ハランをでる理由が全くない。
むしろ族長の責任の大きさを考えると(明日を生きる牧草や水の保障すらない)、旅立ちは不利益そのもの。
仏教の経典やコーランとは対照的に、教えを教えとして決してかかない。
人の心の弱さ、暗さを具体的に示すことで、その意味を読み取らせる。
(聖書で「預言書」に分類されるのは自ら筆をとった預言者の手によるものであり、預言書とされない預言も多い)
ユダ王国の人であり北のサマリアで活躍した、彼は「公正」をうたった。
北の人で彼の時代に北王国は滅亡、彼は「愛」をうたった。
BC740から700にかけて、南のユダ王国で活躍した人であり、高位の聖職者の家系。
第一部のみが彼の手によるもので、第二部は、第三部は彼の思想にくみする人の著作。
彼は神が「聖」であるとうたった。
「見よ、乙女が身ごもって男の子を産む・・・・・」はこの書。
「葡萄畑」のたとえと、浄化の痛み。
北王国の人であり、その後継者がエリシャ。
国王アハブの悪行をついて3年半の旱魃を予測し、バアルの司祭と争った人。(ベイルート近郊に逃れた)
南王国の人。
苦しみ(直接的には北の滅亡とバビロニアの攻勢)の原因はことばにそむいたこと。
しかしこのことばへの背反が心中において新しくなるとき、国境という枠組みは消え、新しい天地が広がる。
バビロン虜囚時の書物であり、ペルシャ王キュロスによる解放をうたっている。
神のことばの普遍性を示しており、「苦しむしもべの章、慰められよ」はこの書。
バビロン虜囚時の精神的指導者の一人。
神殿は失われても、神は異邦にもある。
復活のおぼろげな予見。
編纂自体はBC163のセレウコス朝(エピファネス王の迫害下)。
金・銀・鉄・銅の巨人の夢とき。
現世の王国の瓦解と、神の国の到来(山から転がってきて巨人を倒す岩)を示す。
この岩のたとえは、イエスがシモンをペテロとしたところにも使われる。
花婿はDDと記されるが、このDDはヘブライ表記ではダヴィッドをも意味している。
人(ヘブライ人)を花嫁、神を花婿にたとえて両者の関係を歌い上げたもの。
原初に人は愛され、自らそむき離れて苦しみ、それでも神は人を探し、そして最後に再び人は立ち返る。
この聖書のモチーフを、婚を通して描いた書物である。
イサクの子の中で最愛のヤコブ(正妻ラケルの子)ではなく、レアの子ユダに王位は与えられるとイサクは告げる。
それは(ヤコブにベンジャミンが囚われる際など)自らを犠牲にしようとしたユダに、あがなう人(イエス)の原型を見出すから。
ダヴィドが愛するしもべとされるのは、サウルに生の機会を与えたがごとくに、憎むものをも愛したから。
(および罪を認めて許しを請うたから)
イエスが「ダヴィドの子」とされるのは、受肉托身により人(子)となった、という意味もある。
以上です。