本論の通常の文書は本書の引用(筆者による要約あり)であり、括弧「()」で囲まれた数字はその該当ページ数を示します。
本論は、表題著作の読書メモであり、製作者自身の復習のために作成しました。
一巻から順に各巻を2度読んで全10巻を通読。
その上で再び第一巻に立ち返って読み返した後の本への書き込みをHTML化というものが、本論の成立過程です。
本論中のSkyBlue色にて記述される部分は、筆者が個人の見解を付加した部分です。
犬養氏の権威に由来するものでない故に、誤謬である可能性が高いです。
新約の「新」は後者の「カイオス」の意味であり、その実体はイエスその人。
故に彼は何者も破壊せず、彼の語った内容は「神の国」である。
その意は以下。
イエスは自らの語る「神の国」がモーゼ・アブラハムに約された「約束の地」であるとは明言することなく、弟子も悟らなかった。
ナザレのイエスがキリストであったこと、これが福音、(25)
そしてその福音が望み設定したものが、エクレシア(招かれた集まり)である。
エクレシアの内容は以下。
実際に人が語り伝えること、書面のみ(グノーシス・サドカイ・ルター)とは異なる。
主の食事、使徒職の継承などの組織作り
その意は、次の認識の現れである。
「この祭儀は、いつまでも行え」の命令のもとで子羊の血と肉とパンを食べて生命と自由に過ぎ越した出エジプトは、古い約束であった。
そしてその古い約束(法と預言書)が具体的に意味していたのは、イエスであった。
「新約は旧約に隠され、旧約は新約の中で明らかになる」
新約が完成し、正典として広まったのは4世紀以降である。
存在(偶有の対極としての)にとってはいつも「きょう」である。
(復活とは時間的制約を超えて神のリアリティの中に入ること)
人の過去の行為や思いや神は、全て「きょう」にすくい上げられる。
ゆえに、つねに「きょう」選択することが求められる。
また、いつも「きょう」である存在に対しては、人は常に「思い出し」、ありのままをみることが重要となる。
「機能」を意味する「malak」が語源。
すなわち、創世記の「はたらき」、「わざ」といった単語が本来的な意味である。
後にそれがメソポタミア文学の影響で、神の周囲に侍る従者を意味するようになった。
特筆されるべきは、「サタン」も神の元に侍ることであり、それは「悪」の働きも神の意図のもとにあることを示している。(ヨブ記)
肩から羽の生えた人間のごとき突拍子もないものを、神は決して用いない。
「妬む神」の語源の意味は、「愛するものが良きものから去ってゆくことを悲しむ」である。
すなわち、「悲しむが故に去っていった人を再びよい状態に戻そう」ということを意図した表現。
それを、「復讐」と些か適切でない訳語が当てられた。
人間が内面において本来の健やかさに戻ること。
自らを基準にせんとして、人が自己閉鎖による衰弱に陥ったが故に、この救いが求められた。
人は己の力ではこの罪の状態から脱することができないが故に、「救ってくれる人」を必要とするのである。
この前提を承認することは、一つの信仰ではないかと思われる。
前提条件そのものに疑問があり、かつその解決方法も同様である。
人が自らの生を省みるとき、自ずとこの命題と自力脱出の不可能性は納得できるものとなるのだろう。
苦しみ悲しむ他人に尽くし、己を高めようとしない心の素直さを持つときに、不可見の洗礼がある。
バチカン第二公会議は、「良心のささやきに聞き入り、正しく生きる全ての人が救われる」としている。
イエスの用法では、以下の二つ。
神の思いと人間の意義がキリストによって明らかにされ、歴史が完成を待つ終わりのサイクルに入ったという意味。
決して災厄不幸の連続や、審判のときを意味するものではない。
旧約において重々しく荘重であった神が、人間がとってすがることのできる父となった、との意義。
イエスの用いた「アバ」は、日本語での「とうちゃん」など父の俗称である。
自己を基準とする心を捨て、他のものに心を開ける状態。
物質的な貧困や心の幼さを表現するがごとく、文字通りに読むのは間違い。
「自己を基準とする」という富を持たない状態を比ゆ的に表現したもの。
正しいあり方から去って、自ら自己閉鎖に陥ってゆくこと。
地獄は自分で作り出すものである。
福音書はイエスが何であったかを明らかにすることを目的とするのであり、系図も当然にその目的のもとに記されている。
決して伝記的に歴史的事実を羅列したのではない。
故に選民思想を破るべく、異邦出身の女性を4人系図に入れえいる。
それ故に、イエスは万人と同じであることを示すべく、太祖にアダムを据えているのである。
新約注解学の一分野であり、イエスの実際の言葉がどれであったかを確定してゆく学問分野。
当時のイスラエルの人々の表現を全て調べ上げ(タルグム・ダルムド等の研究成果)る。
そしてそこの前例にない全く新しい概念・言葉のリズムを探し出すことで、イエスの言葉を確定するのである。
神の国は心の貧しい人のものである、(山上の説教)
十戒やパリサイのルールを守る人ではなく、権威から遠く軽蔑さえる人が幸いという価値の転換。
イエスは「神の国」の定義を与えず、それを人が自ら見出す喜びを与えた。
イエスは「神の国」を種蒔きにたとえた。
(口にすることすらはばかられる神を、下々のものにたとえること自体全く前例なし)
この様な終末論は、旧約この方の発想に皆無であり、全くの当たらしアイディアであった。
すなわち神の国とは、静止した終着点ではなく、生成する動的なものであり既に今始まっているもの。
故にイエスのロジアとされる。
放蕩息子の帰還、のたとえの含意。
人に対して「思い出すきっかけ」を整えるもの。
(上記のたとえでは、父が常に息子を探し続けたことにあらわされる)
そして帰ってきたものは必ず暖かく迎え入れるもの。
(上記のたとえでは、子を抱き取り、衣服を着せ、宴を開いたことにあらわれる)
「私を愛するか」とは、私を真似て他者に関わろうとするか、という意味である。
(上記のたとえでは、息子が浪費した財はもう戻らないことに現れている)
そしてその償いは、神である「ことば」のみに可能な行為である。
そして神はそれを、人間の名のものに行わせた。
直接的には、キリストは完全な人間性を持っていたことを意味している。
では何故に一個人イエスの行為が全人類の代理としてその行為が全人類に波及するのか?
(すなわち何故イエスの死が万人の罪の贖いとなるのか?)
この形而上の命題は、信仰によってのみ把握されるものなのだろうか?
「イエスの死に心を向けることができた場合に、罪からの解放が得られる。」
これは一つの解放の可能性かもしれない。
つまり、イエスは新しいモーゼ五書であるといっている。
後者は岩石砂漠の厳しいシナイ山の上。
そして前者は緑溢れる山の上(ガリラヤ湖畔)
神の国の奥義とは、石版に記されたものではなく、人々の血の通う鼓動の上に生きた言葉として生成するものだから。
(モーゼが「・・・・勿れ」と否定形で述べるところを、イエスは「・・・せよ」と肯定形で述べる)
(星は、民数記の「ヤコブから出る星が輝く光となり・・・・」を汲んだもの)
モーゼがエジプトから逃れたように、イエスもエジプトに逃れた。
すなわち、その意味を汲み取れという趣旨(ミドラシュ的)。
最後はローマ百人隊長の「「この人は神の子であった」との告白。
そしてその二者の間に2度の神自らのイエスの信性の証言。
その証言はイエスが栄光に包まれたときではなく、罪びとと同じ立場に立ったときになされる。
人の子が罪の奥底に分け入り購い死ぬことこそ、神の子としての勝利のときであったと主張している。
古来病気は悪霊の仕業と考えられていた(日本も同じ)。
故に書には、「悪魔を追い払って病を癒した」という形で物語られる。
この要点は、イエスは身体の調和を取り戻す力があった、という点である。
すなわち、以下の点こそがマルコの主眼。
イエスは人の不調和(言葉からの離反とそれによる死)を取り戻すためにやってきた。
ならば当然に身体の不調和を取り戻すことができる。
(この場合も癒しも、相手が信じた場合のみ与えられていることに注目)
病を癒し正常に戻す力の奥底には、人の心中にうごめく悪を取り去って魂を純白に戻す創造の力があるのである。
何故イエスは、戦争エイズを含めて「去れ」と癒してくれないのか?、(185)
人目にはつかぬが、ここにイエスの奇跡は行われれている。
そしてそのイエスの言葉が語り継がれ、それに心を寄せる人が生まれるとき、そこに奇跡はある。
迷子の子羊、失われた銀貨、放蕩息子の帰還。
これら三つのたとえば全て、パリサイ人たちがイエスが罪びとと共にいることを非難した場面に語られている。
たった一人の罪びとが真摯に悔いるとき、神は喜ぶのだという意味。
すなわち、神の許しとは人が乞い求めるものではなく、既に与えられているものである。
それに対して心を開くことができるかどうかが問題。
このイエスのわざを述べ伝えるのが、ケリグマ。
使徒言行録は、イエスに続く人々のケリグマと、エクレシアの生成する過程を描いたもの。(229)
(前半の主体はペテロ、後半はパウロ)
(「アダマ」(土)は息=霊を与えられて「アダム」(人)となった)
ペテロが百人隊長コルネリウス宅に赴いた際のこと。
ローマ人たちの上に神の霊が下るのをみて驚き、ペテロは神が何人をも差別しないことを悟った。
この体験がのちのジェルサレムでの第一回公会議で割礼を必要としないと考える遠因となった。
パウロがこの考えを得たのは、ダマスコへの途上
どうしてイエスはここで全ての罪を背負い罪にまみれる事ができるのか。
直接的には、彼がここで全ての罪を背負い、そしてその死の効果が万人に波及することの根拠につながる疑問。
「復活の秘儀を示し万人にゴールが約束された」との命題は、おそらく信仰のもとにのみ承認される。
しかし、罪=死(すなわち精神の自己閉塞)を意味するとすれば、それは納得が可能である。
イエスが我々のために苦しんだという事実に心を素直に向けるなら、そこには自己閉塞からの解放がもたらされるはず。
この側面に限るなら、神性の承認なしに万人が了承可能な命題である。
すなわち、イエスの死になんら超自然的意味を見出す必要がないので。
イエスが「苦しみを遠ざけて欲しい、取り去って欲しい」と願うほどに苦しんだ。
その試練に打ち勝ったことは、イエスがそれほどの愛を万人に注いだことの表れとして、我々に彼に心を向けさせてくれる。
イエスはこの「愛」を新たなことばとして、皆に残した。
それ故に一つの祈りは、「愛を教えてください」、「愛することのできる勇気をください」
すなわち、モーゼの第一の過ぎ越しが、新しく変わって再現されるることの意。
「取ってのめ、これはお前たちとおびただしい人々の罪のために流される私の血」
自らの死に対し、万人のための贖いとして体が裂かれ血が流されるという意味づけを、あらかじめパンと葡萄にたくしているのである。
主の食事の意味
すなわち、最後の晩餐は死地から生地への過ぎ越しの食であり、新しい時代の最初の晩餐であった。
人類の誕生と失楽のときにスタートした生命への帰路の旅路が今ここに整えられた、の意。
ここでいう「死」「渇き」は精神的な死、暗闇のそこに落ち込む魂の問題をさしている。
これは創世の際の「イッシュとイッシャ」(男と女)の創造を意図しての表現。
すなわち、イエスのことばが新たなる創世であることを示している。
「神殿を打ち壊せ、三日の後に私は神殿を建て直す」、とはどういう意味か。
そしてキリストが明かすものがことばである以上、黙示録は福音書なのである。
(他の福音書が地上のイエスを主に描くのに対し、黙示録は復活後のイエスを主に描く)
悪は巻物に記されて神の右手に置かれていることは、悪は神の制御のもとにあることを意味している。
(ヨブ記においてサタンが神の前に侍っていることと同じ)
そして悪には意味があり、必ずやその内容が解き明かされることを意図している。
そして背信や現世の富に実体はないのだから、それらと戦え
七つの頭を持つことは極めて賢いこと、10の角を持つことは極めて力が強いことを意味している。
そしてその名は、不完全数の「6」を三度も繰り返す以上、不完全の極みを意味している。
(地上での活躍期間が完全数7の半分である3年半であることも、不完全の意味)
つまり、獣の支配は永続せず、必ず神の国が来ることを述べているのである。
以上です。