本論の通常の文書は本書の引用(筆者による要約あり)であり、括弧「()」で囲まれた数字はその該当ページ数を示します。
なお、本論以前に本巻の感想をこちらにて公開しておりました。
注釈
本論は、表題著作の読書メモであり、製作者自身の復習のために作成しました。
一巻から順に各巻を2度読んで全10巻を通読。
その上で再び第一巻に立ち返って読み返した後の本への書き込みをHTML化というものが、本論の成立過程です。
本論中のSkyBlue色にて記述される部分は、筆者が個人の見解を付加した部分です。
犬養氏の権威に由来するものでない故に、誤謬である可能性が高いです。
本書が「ロマ書」ということばの中心部分を扱うものである以上、内容理解のための筆者の見解が必然的に多くを占めることとなります。
筆者の記す箇所の大部分は、「聖書を旅する」の他の部分に述べられていた内容です。
部分単体の起源と権威は犬養氏に由来しますが、挿入は全くの筆者の判断によって行われており、全体としての妥当性の保障はありません。
誤解に満ちているでしょうが、今後の指針としてここに。
「ロマ書」解説部分のみを要約したものですが、その際に筆者が大きな誤謬を犯していたことが判明しています。
「文字通りに読むこと」に伴う完全な誤読ですが、一人の人間の理解の過程を示す資料となりうるものかと思われます。
(「キリストが罪を滅ぼす」・「三位一体」などの誤解が著しい)
(その内容は以下)
贖宥状販売等のスキャンダルに対する改革の動きは多数あった。
(代表例が自ら模範的な生活態度を示したフランチェスコ会)
彼のリフォームは、「信」そのものの内容を対象とし、教会のあり方をめぐるものであった。
神は人を罪びと、敵対者とみなす恐ろしい裁判官と考えられていた。
すなわち地獄の恐怖が世を支配している状態で、神学水準は著しく低かった。
(例、シエスティナ礼拝堂のミケランジェロ作の、罪びとを地獄に突き落とすキリストを描いた「最後の審判」)
その中でルターは学べば学ぶほど自己と神の距離の大きさに恐れをなし、罪悪感に絡め取られていった。
(すなわち、ペテロのように泣き許しを請うことができなかった。
ルッターはオッカミズムの影響を強く受けている。
人間にとってのリアルは具体的な経験を通して認識できる物体のみ。
抽象概念は実体とは無関係である。(故に唯名論)
したがって神を人間が理性に基いて認識することは不可能照り、信仰のみがその認識を可能とする。
全ての被造物の中に「存在するもろもろの類比」を見出し森羅万象の観察からも神を「推論し」、その存在を立証できるとしたトマスアクイナスの立場。
この見解はその正反対である。
人間理性・自由意志の機能を否定したルッターは、このトマスのスコラ学を退けている。
神と人間・自然の間にはなんらの架橋はない。
その存在は神が自らを啓示するときにのみ、認識可能であるとする。
この見解は、救いは「神のほしいまま」であって人にはいかんともできない「非情の神」に通じる。
そのようなルッターが魂の救いを見出したのは「「ロマ書」であったが、ではそれは如何なるものか?
15章7節
「ゆえに、神の誉れのためにキリストがあなた方みなを受け入れてくださったように、あなた方も皆あい互いを受け入れなさい。」
異邦人割礼問題が生じその対処の(第一回ジェルサレム公会議の結果の)書簡が各地に行き届いていた。
それにもかかわらず法規遵守主義(信によってではなく行いによって救われるとの見解)による分裂の危機は収まらなかった。
この様な事態を考慮して、自らが赴こうとするローマの人々にあらかじめ体系的に福音を書き送ろうとパウロは考えた。
以上がロマ書の直接の成立の過程である。
直接的にはユダヤ人改宗者の分裂を扱った書簡ではある。
この様な当時の各教会が直面した現実に即しながらも、パウロは福音の中核をどの時代のどの場所にも当てはまる普遍性をもって述べ伝えた。
パウロは「福音とは信ずる全ての人に救いをもたらす神の義(正しさ)」であるとする。
ではなぜ神の義が福音なのか、すなわちなぜ神の義が人を救うのか?
(正しくする、すなわち言葉への離反の無い状態にする)
旧約のメッセージをイエスが明確な、人に理解できる形で明らかにしてくれたということ。
天の国、復活、神とはことば、神の内実としての分裂なき相互関係としての充溢する生命、アバとしての神などなど・・・・
イエスはこれらを明らかにした。
自ら言葉への離反(罪)に気がつかなければ、立ち返ることができないから。
人の自由意志を尊べばこそ、強制的に無条件に救う事は無い。
そもそも人が自由意志を持つことは、人が神の「似姿」であること(創世記)の所以である。
当時の中東世界の契約のかたち。
約束事は、自らの命にかけても遵守べきものと考えられていた。
命を懸ける証として、自分の血を流すという考えが発生したのである。
(日本においても、一揆などの際に血判状を作るのは同じ理屈)
しかし実際に自らが約束の証として死ぬわけにはいかなかった。
そこで、家畜の血を自らの血の代わりに流すことにしたのである。
当時の人々にとって、家畜は最も重要な財産であり、かつもっともありふれた日常の存在であったからだ。
すなわち、「イエスの血は贖いの血である」、とは当時の中東世界の人々の祭儀の形式にのっとっているに過ぎない。
それは、イエスが2000年前のパレスティナという地方に現れ、当地の人々に理解しやすい形式を意図したからである。
前述の「ロマ書」と同じく、聖書は具体例に即して語ることで高い普遍性を獲得する、という形式が多い。
つまり、自らの命を差し出すほどの真摯な悔いがあり、その自分の命の代用品がイエスなのである。
こうして人は義化(正しい、すなわち分裂・罪の無い状態)され、罪から自由となる。
(イエスが「人の身代わり」との謂いは、人の身代わりである家畜の更なる代わり、とゆうロジック)
(イエスが家畜の代用たりうるのは真摯な悔いのあるときのみであり、これが「信ずるものは救われる」の意味だろう)
大祭司キリストは万人の贖罪のため、自らを犠牲として捧げた。
史上ただ一回の犠牲であればこそ、神の「いつもいま」の永遠性・現在性によって、万人が許しを乞う際の犠牲にキリストはなりうる。
人の罪からの解放と新生が今現在行われ、キリストが供物とされる。
この神話的時間構造におけるわざの再現が、ミサの意味である。
「贖う」とは、本来的な意味は(何らかの出費の結果として)自由にすることである。
(日本語では、「身代金」が近い意味)
すなわち、自らの血によって、人を自由にした。
この事件は、直接的にはモーゼがイスラエル人をエジプトの支配から解放して自由を与えた「過ぎ越し」の再現である。
ただしイエスが人を解放した対象は、エジプトではなく「罪」であった。
「罪」から解放されることで、人には生がもたらされる。
(ここでの「罪」およびその結果の死とは、自己閉鎖の末の精神的な死を意味している)
「罪」からの解放とは、「許し」を与えること。
許しとは、自己分裂・否定の結果として乾ききって何も生まなくなった不毛の心に緑を芽吹かせる、水のようなもの。
それによって人は心新たに生まれ変わることができ、それを「新創造」と呼ぶ。
つまり、ルッターはロマ書をどう理解したのか?
福音には神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるものです。
「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
(1ノ18)
そうして主の食事やよき行いなど、カトリック教会の肯定するものを否定した。
背景には、どれほど真摯にミサ等の秘蹟に参加しても心の解放が得られなかったというルッターの体験がある。
(当時のミサが形骸に走って本質を見失い、参加さえすれば救われるといった迷信が広まっていたのも一因)
つまりルッターは、「信のみ、聖書のみ、恩寵のみ」に神のことばを限定した。
オッカムの影響を強く受けたルッターは、人間理性を「肉」として否定している。
即ち、人間の自己基準化(言葉への違反=罪)の神罰として、理性や自由意志は破壊されてたと考えたのである。
対してカトリックは、自由意志があるからこそ人は「義化」されると反論する。
(トリエント公会議において教会が否定したのは、ルッターの人間理性と自由意志を否定する解釈部分である)
しかしルッターは、「義化」とは人の罪を(キリストが覆い隠すことで)神が見逃すことであると考えた。
(後のルッター派の人々によって、この見解は行き過ぎとして訂正されているらしい)
キリストの証言者たちの証言を自由意志によって承認する、というカトリックの信仰箇条。
ルッターはそれを「命題の承認を信とすりかえている」と批判している。
しかし理性・知性・自由意志こそは人が神の似姿である所以であり、恩寵なのである。
即ちカトリックの信は以下二者の主観客観の両側面より成り立っている。
少なくとも信仰も何も持たない筆者の場合、本書の犬養氏のように証言の解説をする人がいなくては何も理解できなかったであろう。
(即ちルッターの否定したカトリック教会の使徒承伝を意味している)
教導職を否定したのでは、人は何も学びえず理解し得ない。
この事態はルッター当事も同じであった。
聖書を一人で読んだ、ルッターほど学識の無い一般人は、各人主義の独善的解釈に陥り、ひいては「農民戦争」を招くことにもなったのである。
かくしてルッターも、聖書の教えに長けたリーダーたちの設置を定めざるを得なくなった。
キリストの義が各人の罪を覆い隠すこと。
これによって人は罪にとどまりながらも、神はそれを見逃してくれる。
(消極的義化論)
命の言葉が各人の中で育つことにより、人は罪から自由になる、新創造される。
「キリストが罪となった」
これは、神が罪びと全員の身代わりとしてキリストを世に与え和解の言葉を委ねた、という意味である。(104)
キリストそのものは完全に罪とのかかわりは無い。
というよりも、言葉にそむいた人祖の逆行であることにこそ、イエスがキリストである重点がある。
キリストが「罪」という何らかの実体を滅ぼした、などと文字通りに解釈してはならない。
ことばを我々が受け入れ、心の中で新しく自由を得ること。
「罪を滅ぼす」とは、このことを神話的に表現しているのである。
1517年、ヴィッテンブルクに贖宥の与えられ方の不当性をルッターが論じた95か条の論題が掲示された。
贖宥がテーマとなったのは、キリストのわざの核心が許しであり、許しは人を新たに創造する重要なものであるから。
ルッターは許しは信によってのみ与えられるとして人間理性の意味を否定したのであり、決して教皇権を攻撃したわけではない。
この点に関する和解を両者は求めたが調停はならず、最終的に教会はルッターを破門に処した。
イスラム侵攻の危機、反ローマ・反フランスのドイツナショナリズムの高揚、ルッターを利用した扇動家。
これらの当事の問題は、宗教問題を−皇帝カール五世がもっとも恐れた−ドイツの内政問題に発展させた。
この様な中でルッターは急進化してゆき、組織としての教会を否定するにいたる。
「信」をルッターにしたがって「自分が救われることの確信」と定義する。
すると、キリストを知らない人や信をもてない人は全て救われないことになってしまう。
しかし自らの似姿として人の創造を祝福した(人はものを主宰し・思いをもって創造し・創造したものを愛する)神は、救いの協力者として人間を選んだ。
即ち人が、自らの罪(分裂・自己破壊)を悟り、それを真摯に悔いて正しい状態に戻りたいと望むことを待つのである。
その上で人がイエスのわざを受け入れるとき、人は新たに創造される(許される)。
即ち罪と自己否定に囚われて何も生まないほどに乾ききった心が、みずみずしい状態に変化すること。
真摯な悔いのあるところに、心の解放がもたらされる。
この精神の働きを、おそらく「イエスのわざ」「恵み」と把握するのであろう。
確かに、全くの自力で心の解放が得られないであろう事は筆者も同意できる。
その恵みは、イエスを知らない人にも広くもたらされる。
この事実をもって、キリストを知らず信じない人も救われるというのではないか。
(神がことばであるというテーゼが、この普遍性を支える所以だと思われる)
そもそもルッターのように理性・知性・意思の働きを否定しては、人は罪を犯すことすらできない。
罪とは自由意志による選択の結果であるからだ。
またそれらを否定しては、ことばが肉となった人に入った意味が無くなる。
ことばはそれを受ける側が自発的に考える力を持たねば無意味だからである。
「信仰」とは、ことばの持つ信憑性ゆえに信じること。
「人間より遥かに優れた善なる神が存在し、それを信じる」という見解は、啓示がなくとも起こりうる。
即ち、信とは賜物。(181)
キリスト教の根底にある「復活」の概念は、筆者は理解できない。
しかしそれ以外の大多数の概念(以下列挙)は、同意できるのではないか?
なぜならそれらは、自然法則の問題ではなく、意味の認識に関わるものだからだ。
即ちこれらのことばには、信憑性がある。
自然的因果関係に沿った進化の過程を、創造と認識すること
万物の主宰、ことばによって創造し、創造したものを愛する点において
相互に関わりあう分裂なき関係性こそが充溢する命の内実であること
すなわち魂の死・自己閉鎖であって、生物学的な死を問題としていない
ことばの遍在性と普遍性ゆえに。
成人に達したものだけが、自由意志による選択により信仰の道として、洗礼を受けることができる。
(カトリック・ルター派は幼児洗礼を認めている)
個人各人の信心が生活の基本であるとして、教区教会を持たない。
教会組織を肉のわざとして退けたルッター派は、ピエティズムの危機により、皮肉にも聖書の教えに長けたリーダーの設置を定めざるを得なくなった。
教会制度組織を否定する人々で、メイフラワー号
喜びや笑いの否定など極端な生活態度の厳しさ
中国語を習得して四書五経を読破し、その中に含まれる福音につながる高度な教えに感激。
それらを取り入れた中国風の祭式を作り、中国語でミサを行った。
彼の布教の成功を妬む他の布教員の讒言により、教皇に布教を禁じられた。
中国政府とバチカンの今に至る緊張関係の原因である。
義人の苦は神的生命に人類を導きいれるための身代わりである、という趣旨。
イエスがそれを口にしたのは、人々に自分の死の意味を説明するため。
(ヨハネはそれを明確にするため、詩篇の歌の内容どおり、兵士にくじでイエスの上着をとらせている)
クチューリエル出生
合同運動(エキュメティカル)の先駆者、バルトロメオの虐殺の謝罪など
カール・バルト(ルター派)のロマ書注解に、カトリックの側から多数の肯定的評価が寄せられる。
クルマン(プロテスタント)は、厳密な分析に基き、ペテロとその後継者の首位性を考証しようとした。
教皇によるエキュメニズムを排する回勅
ロジャー・シュッツによりテゼ生まれる。
オーソドックス・カトリック・プロテスタントの若者が集い祈る場
WCC(世界教会協議会)設立。
プロテスタント諸派が募り、対話によって信条の相違を明らかにしたうえで、歩み寄ろうとする集まり。
海外における著しい分裂布教の不利益や、ヒンズー・仏教といった偉大強大な宗教との直面を契機として誕生した。
正教会とカトリックの和解
ジェルサレムにおいて、ギリシア正教会のアナゴラス一世とパウロ6世が面会し、相互に許しを乞うた。
正教とカトリックの分離は、ローマからの使節が総主教と相互」破門したことによる。
(使節の司教には、総主教を破門する権限はなく、彼が破門された効果が全カトリック教会に及ぶこともない)
北イタリアの農村に、アンジェロ出生
レームル・ノヴァールム発布。
レオ13世の回勅であり、社会正義の重要性を歌い、労働運動などを評価したもの。
アンジェロはペルガモ教区において助手として働き、貧農の生活改善運動に携わった。
ブルガリアに赴任。
正教会の人々と出会い、彼らの典礼を深く学ぶ。
イスタンブールに赴任。
ケマルアタチュクの宗教迫害のもと、第二次大戦に直面。
国粋主義の悪をみとどけ、ユダヤ人を救うべくナチ大使と接触した。
フランス赴任。
ナチズムとドイツ人の区別されるべきこと、捕虜の人道的な扱いをドゴールに求める。
教皇に選出され、ヨハネ23世に
バチカン第二公会議開催
一致の再建を全キリスト者間に再建することは本会議の目的の一つ。
プロテスタントに公正な態度で接してこなかったことを謝罪。
カトリックの信仰の根拠を明らかにした上で、プロテスタントと対話を図り一致点を見出してゆこうとするもの。
(その成果が、ロマ書に始まる共同約)
ユダヤ・イスラム教は同じ造物主をあがめるものとしての和を。
ヒンズー・仏教は、その深い宗教性を肯定し、その中の真実で尊いものをカトリックも敬い、対話を促進しようとする。
(第二バチカン公会議には、仏教初め多数のオブザーバー、マスコミが招かれている)
キリストを知らず信じない人であっても、正しく生きる人は救われると正当に主張している。
一般信徒と聖職者の間の上下関係を排除した。
生きて時間の中をゴール目指して旅する人々の集まりと、教会の意味本体的なものにを定義した。
以上です。