聖書を旅する  「第5巻 和のために」  犬養道子著 1998年 中央公論社


  • 本文書は、認識において重大な誤りを犯しております。

    再読し、(程度問題ではありますが)より適正な認識を示したものはこちらです。
    キリストの持つ、「神性」「「人性」の認識が甚大な誤りと思われます。
    (真の意味は理解できませんが、この時点での認識が誤っていることは確実と考えます)
    「キリストが罪を滅ぼした」についても同様。
    これらの誤読の原因は、「文字通りに読むこと」によって生じているものと考えられます。
    即ち、記述の意味を考えず、そのまま鵜呑みにしていることが原因です。
    愚かさと高慢さを、自戒の意味を込めてここに残すこととしました。


    対象は、「聖書を旅する」(犬養道子著)の5巻。
    100ページ前後の最難関部分、「ロマ書」の解釈部分。
    本に書き込んだものを、永続させるべくここにデーター化。
    専ら私個人のための記録です。
    読解作業の中心は、単語の意味の置き換え。
    代数のようなもの。

    追加。
    自身に、聖典の内容を理解している、との意図は一切ありません。
    聖典に含まれる緒様相のなかで、論理面の一つに納得が行くようになったに過ぎないものです。
    真相たる、信仰により明らかにされるべき様相は、その存在がかろうじて推測できる程度です。
    自身、今後とも謙虚に学び続ける姿勢は持ち続ける所存です。
    ルター派とカトリックの相違を明らかにすべく、理解の異なるロマ書を読み解く。
    以下の作業を通し、私はイエスが「人性」「神性」を併有すべき論理的必然性は理解できた。
    (ルター・カトリックの相違を含む)
    次に明らかにされるべき謎は、「三位一体説」の意味である。
    以下の単語はその日本語の通常の用例ではなく、聖典の文脈に従った象徴的用法がなされている。
    1巻から順に読み進めなくては、意味の把握は困難。



    • 前提
      異邦人の割礼問題を通し、初期教会に分裂の恐れが生じた。
      かかる問題を回避するため、パウロがローマ教会にしたためた書簡がロマ書である。
      ゆえに、ロマ書は「和解のための諸」と呼ばれる。

    • 用語
      • P76、「福音」とは、人々に救いをもたらす神の力(パウロ)、すなわち、神の義
      • P78、神の「裁き」「怒り」は「愛」と同義(カール・バルト)
      • P79、神の「義」とは、「愛」(カールバルト)
      • P80、人の「不義」とは「罪」と呼ばれるもの
      • (自己注解、罪とは神から離れることの象徴的表現)
      • P80、不義の行き着くところは死、ならば唯一の仲介者キリストを信ずるものにもたらされるのは罪と死からの解放
        すなわち生、これが福音

    • 疑問点
      • キリストが十字架上で血を流すことで、何故に人が救われるのか?
      • そもそもキリストは必要なのか?
        定義的には、神に心を向ければ、それが救済なのでは?
      • P79、「義」の第一条件である「信」は何故にキリストへの信でなくてはならないのか?
        イエスを一預言者とするムスリムの解釈が妥当ではないか?

    • 信の内容
      • ルター
        P95、各自が教導手引きを必要とせず、キリストによって義化されると直接に抱く確信
        救済とは、キリストが各自の罪を見逃すこと。

      • カトリック
        キリストの証言者たちの言葉を、知性に基づき承引すること。
        すなわち使徒伝承者たる教会を含む信
        救済とは、罪から離れた新たな存在として、全人類を再創造すること。
        すなわち失楽の逆行。

    • 十字架の意味
      「神の言葉に苦しくとも従うこと」
      すなわち、言葉を無視し、神から離れ去った人祖の逆行
      つまり、エデンの逸話で象徴的に設定された「罪」「死」は、キリストによって象徴的に破壊される。
      ただし、それには前提条件が必要。

    • 前提条件
      • 第一
        (P104)
        「生から離れ去った人は、自らの能力では死を脱し得ない」
        この仮定が必要。
        すなわち、彼岸から差し伸べられた手という、極めて神話的機能を帯びたものがキリスト。
        この機能面ゆえに「ことば」と呼ばれたのか?
        いずれにせよ、神が差し伸べたもの故に、キリストは神性を持つ。
        すなわち、死から生へのpass over。
        (出エジプト、ヨルダン川、割礼、通過儀礼)

      • 第二
        キリストは全ての罪を負うべき。
        罪を負わねば、その破壊ができないからである。
        そして定義上罪とは「神からの離反」である以上、神性を持つキリストはそのままでは罪を負えない。
        すなわち、キリストは「人性」を罪を負うために、所有していなくてはならない。
        (第二の条件は、第一から論理必然的に生じる)

      • 以上1,2故に、キリストは人性・神性を併有する(受肉托身の教義)

    • 疑問の解決
      • 人が救われるのは、イエスが全ての罪を負ったから。
        (時間外存在である神の行為は、全ての時点の寓有に効果が波及する)
        しかし救われるのは、イエスが罪を負ったこと、そしてそれを破壊したことへの信を抱くもののみであろう。
      • 第二の疑問は、前提条件1を承認すれば解決する。
      • 第三の疑問は、キリストが復活したことが解答となる。
        すなわち、死から生へのPASSOVERを果たしたキリストを承認することが、神の意図への信頼であるから。
        そしてこの計画は、旧約の時代から多くの預言者が語り続けてきた内容の成就であることに着目。
        これに関しても、過越しの意味を承認しないものには、何の効果も及ぼさないのでは?

    • パーソナルな感想
      論理体系としては、極めて整然としている。
      ただし、自分で問題状況を作り出し、自分で解決しているだけではないのか?
      (定義上のこと)
      生贄を捧げるという原初的な宗教形態に、高度な神話的解釈を施したものがキリスト教なのでは?
      諸前提を承認しないことには宗教として成立しない。
      その前提の承認が、「信仰告白」なる客観的信の形態なのだろう。
      「人は自らの力では罪から脱し得ない」という前提1は些か疑問を感じる。
      ただこの前提を承認することは、自己を越えた存在を承認する事と同義。
      そしてこの承認は、機能的には自己絶対化を排除することにつながる。
      すなわち価値相対主義の否定と普遍主義に立脚することの承認である。
      この点、私は親和性を抱く。

      10年来の疑問であった「イエスが人性・神性」を持つことの理由は判明。
      残された疑問は、三位一体説の意味。
      「聖霊」って何?
      「父」と「子」が同列でなくてはならないのは何故?
      後者に関しては、「罪」が「離反」である以上、「離反」の対象たる神のみが罪から無縁であるという推定はできる。
      すなわち。「子」は「父」そのものでなくてはならない。
      いずれにせよ、疑問はこれから解答を見つけてゆこう。




    以上です。


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