本論の通常の文書は本書の引用(筆者による要約あり)であり、括弧「()」で囲まれた数字はその該当ページ数を示します。
本論は、表題著作の読書メモであり、製作者自身の復習のために作成しました。
一巻から順に各巻を2度読んで全10巻を通読。
その上で再び第一巻に立ち返って読み返した後の本への書き込みをHTML化というものが、本論の成立過程です。
本論中のSkyBlue色にて記述される部分は、筆者が個人の見解を付加した部分です。
犬養氏の権威に由来するものでない故に、誤謬である可能性が高いです。
神を神とせず、自らの判断だけが正しいと考える基準のこと。
法哲学中に言うところの、普遍主義の対極にある(「エゴイズム」中の)価値相対主義のこと。
普遍主義と価値相対主義の対立が法哲学の重要なテーマであるが、一方の優越の証明はできていない。
筆者がキリスト教という価値体系に大きな違和感を感じないのは、普遍主義との共通要素が大きいため。
高慢・エゴイズムのことであり、上記の理由ゆえにこそ七つの大罪中の最高位のものとされる。
そしてこの自己基準化を富にたとえたものが、「心貧しいものは幸いである」という言明。
キリスト教のテーマを選んで製作されているからといって、それがキリスト教美術となるわけではない。
たとえば、ミケランジェロの「最後の審判」。
ロマネスクを貫くものは、キリストの心が何をさすかを長い年月の祈りのことばと共に味わいつくしたことによってのみ生じた構図である。
キリストの審判とは、彼が語り伝えたことばそのものが各人を裁くことである。
彼は罪びとを許すためにやってきたのであり、地獄に突き落とすことを望んでいるわけではない。
中世はヨーロッパの生活・言語・地名など現在に至る大部分が定められた時代である。
ギリシア・ローマ・イスラム等の高等文化と接することにより、祖先伝来の生活習慣が一つの文化伝統であるとの認識が確立した時代でもある。
ロマネスク、即ち中世初期は共同信仰の時代。
すなわち、誰もが共同・同一の信仰を抱いていたという意味。
この信仰の共同性故に、中世は信仰の時代と呼ばれた。
(決して誰もが宗教的に正しい生活を送っていたという意味ではない)
皇帝の庇護によってもたらされたもの。(特に4,5世紀)
それなくしては、蛮族の侵入著しい時代に、仮に帝国の公認があっても教会は存続し得なかった。
また、初期教会を分裂の危機から救ったのも皇帝である。
具体的には、グノーシスの二元論、アリウスのキリストの人性否定論による、分裂の危機。
皇帝以外に、場を確保し、かつ安全に全地の司教を集めることのできる人物は存在し得なかった。
この時代皇帝を「神の代理人」と評することはあながち間違いではなく、「政教一致の始まり」と批判するのは断面的。
この俗権最高者を教会首位者とみなす政教一致の伝統を強く引くのが、現在の東方教会である。
西ローマ帝国瓦解後、ロマネスクの文化が生じたのも、サラセン・ノルマンの沈静化という政情の安定が最大の要因。
伽藍とは、司教座(教区の中心)を持つ宗教施設のこと。
(聖堂とは、在俗ではなく、修道院内の祈りの場のこと)
司教座とは、「椅子」そのものである。
そこに伴う権威は、ことばを教え広める人間に与えられた神与のもの。
その権威は伝道の対象があって、その人々に小さくなって伝えるときに本来のものとなる。
しばらく後には、教会聖職者は一般信者を統治するものと考えられるようになった。
この神与の権威はそれを伝える人間個人とは別個のもの。
(イエス自身は、「小さくなって人に仕えよ」と語っている)
教会内部に階級構造が生じたことは、ことばへの最大の反逆であった。
それは第二バチカン公会議において、ようやっと見直しが宣言されている。
個人が堕落していようと、司教座(カテドラ)からことばを修正付加なしに公に伝える場合は、それは耳を傾けるべき神のことばとなる。
カトリックの客観主義のの表れか?
(イスカリオテの)ユダの与える洗礼であっても、それは有効な洗礼である。(アウグスティヌス)
そしてカテドラルは、聖書そのものでもあった。
文字が読めない・聖書が購入できない大部分の民衆のために、聖書の、神のモチーフを彫刻などによって表現したからである。
すなわちカテドラルの装飾はただの飾りではなく、読み解かれるべきものなのだ。(79)
伝承を生んだ異国の人々の想像力への感嘆であり、ひいてはその人々を創造した神のわざへの賛美である。
これらの学問なしに聖堂建築という大事業は不可能であり、その学問を生み出したのも神だからである。
労働は神を讃える行為であり、決して罪の結果の苦とはみなされていなかった。
キリストは異邦異教の別なくことばをかけるものであり、それらの人々も神が創造したものだからである。
聖堂教会堂は祈りを可能とする静寂と視線を邪魔しないできる限りの簡素を旨とする。
故に装飾は可能な限り排除した。
シトー派の(ルッターの敬愛した)ベルナルドスは、クリュニューをこう評価した。
余計な聖書にかかれない美術表現・装飾は無駄な費えであり、信仰の邪魔者である。
クリュニュー派は外に向かっての表現として神を讃える建築を。
シトー派は心の中に神のインスピレーションを呼び起こす建築。
この両者は、魂を内面の統一という平安に誘い入れるための、方法の相違である。
装飾が簡素か壮麗かに関わらず、神の物事は、想像力を如何に駆使しようとも、所詮人間にはおぼろげにしかつかみ得ない。
しかし、クリュニューの多彩な装飾を非難する人はおおい。
その装飾の出費は恥辱の限りであり、その分の費用を貧者のために使うべきである、というのである。
その評価は道義的であるようだが、大きな偽善を隠し持っている。
人間文化(美術工芸建築音楽文学全て)を「余剰の贅沢」と断言する独断性がそれである。
(ちなみに、中世初期の教会建設は、住民皆が喜び勇んで賛成参加出費負担を行ったことが考証されている)
同様の観点からか、犬養氏はプロテスタントが美術工芸に無関心であることも嘆いておられる。
ルッターが余剰な装飾を排除したが故である。
同じくプロテスタントのカルヴァンは装飾を禁止たが、教会装飾職人たちを時計製造に携わらせた。
(これがスイスの時計産業の起源である)
祈りの場を、賛美の表れとして華麗に装飾したい、という欲求は十分に理解できる。
装飾否定は、人間文化の多様性と豊かさ(神の恵みであるかどうかは別として)の否定につながるという言明も説得力を持つ。
ただ、それが過剰との間の微妙な境界線上にあることもまちがいない。
飾り立てさえすればよいという偶像崇拝の最たる形に陥る危険性が大変に大きい。
両者の相違は、装飾する人の内面にしか基準が存在しないからである。
この点を考慮に入れたムハンマドは、厳正な(形のある)偶像の禁止をうたったのだろう。
これらの伝承に歴史的根拠があるか否かを人々は気にしていない。
それはキリストへの信仰を強めるための一つの手段であって、偶像とは異なる。
我々が他界した人の持ち物一つによって、個人のことを思い出せるのと同じである。
眠りについたものも生きて地上にあるものも、等しくキリストの功によって一体をなしている。
しかも既に死を超えて眠りについたものたちは、生きて地上にあるものよりもずっとキリストに近い。
故に我々より先に主のそばに行ったものたちに、次のように祈ることが可能である。
この「諸聖人の通功」の教義は、キリストによる一体感一致感に基くものである。(特に中世は共同共通信仰の時代)
しかしこの教義に基づく巡礼が、15・16世紀には迷信一途となってしまった。
故にルッターは、諸聖人の通功の教義を否定している。
マリアは常に恩寵に満たされていた正しい人。
正しい母であればこそ、正しくない道をうろうろする我々を愛して正しい道を示してくれる。
神とキリストには信仰を、マリアには信頼と愛をよせる。(マリアは被造物であるから)
これが中世のマリアへの態度であり、上述の「諸聖人の通功」と同じ考えに基いている。
後にマリアへの信頼がゆがめられて信仰と混交し、マリア主義に走る流派を現れるようになる。
定義どおり「無原罪の宿り」がマリアであるならば、それは既に救われていることになる。
この様に聖母を初め、偉大なる聖人も凡人も、全ては一体であり同じ人間である。
この認識を持つことは、個人のみならず社会全体にとっても極めて望ましいものであるだろう。
一体感すなわち人の和こそ、キリストが望んだものであるからだ。
聖人聖母崇拝を迷信・偶像崇拝である、断言することの誤謬と独断性は筆者も理解できた。
ただ、それは迷信偶像崇拝に陥る危険が限りなく大きいように思われる。
両者の相違は、各人の内面にしかないからである。
この秘められた地価埋葬所こそが、キリスト教美術の最初のかたちであった。
十二表法には都市内部での埋葬を禁じる一条が含まれていた。
故に城壁外が墓地とされたが、郊外の土地がひたすらに墓地になっては市域の拡大が不可能になる。
それを危惧した政権が郊外の墓地化を抑制したことで、市域内部の地下墓所という形態が発生した。
そして後に地上埋葬の許可が出たことで、カタコムベという形式はその役割を終えた。
被造物中の光り輝く金属宝石は、光である神に捧げるにふさわしいものと考えられた。
故にこそ、教会堂内部は黄金や宝石で飾り立てられたのである。
ローマ時代黄金は安価であった、黄金の安定性、モザイクが漆喰を保護など実際的理由もある。
必ずしも、装飾が権威主義の表れとは断言できないのである。
それは、モーゼが岩を杖で割って水を出した故事に対応している。
岩であるキリストから出た水は、万人に命を与える水であり、罪を洗う水でもある。
以上です。