本論の通常の文書は本書の引用(筆者による要約あり)であり、括弧「()」で囲まれた数字はその該当ページ数を示します。
価値基軸となる聖書(創世記)解釈を冒頭に行い、難民・環境等の現代問題をその価値基軸に沿って考察する。
本論は、表題著作の読書メモであり、製作者自身の復習のために作成しました。
一巻から順に各巻を2度読んで全10巻を通読。
その上で再び第一巻に立ち返って読み返した後の本への書き込みをHTML化というものが、本論の成立過程です。
本論中のSkyBlue色にて記述される部分は、筆者が個人の見解を付加した部分です。
犬養氏の権威に由来するものでない故に、誤謬である可能性が高いです。
本巻はこの様な論述法を採用しております。
現代の問題そのものは重要ですが、本論においては冒頭の創世記の人間観のみを要約の対象としました。
現代問題は該当部分は一読で理解可能ですし、価値基軸を定めた上で問題を考察するという点にこそ犬養氏の主眼があるからです。
人と動物には相違がある。
それは人の探究心・知性・意思である。
その中でも際立つものは、思考・創造・選択の自主性・自由性である。
この思考選択創造の自由自主性に、「神の息」が吹き入れられたとき(すなわち知性を持ち考えられるようになったとき)、人は責任主体となった。
不況や安泰とは関係のない次元において人とは何かを考察すること。
それこそが真に宗教的な考察であって、それを扱ったものが聖書である。
本論は聖書(創世記を中心に)の投げかける「人間とは何か」の視点の下に、現代を眺めることを主眼とする。
創世記はダヴィデ王による王国統一期のJ派・虜囚下のP派の記述から構成されている。
両者は時間にして紀元前1000年に同500年と、ほぼ四百年の隔たりを置いている。
その記述の背景には、以下の考察があった。
出来事の背景には、一貫性が存在する。
そしてその万物の背景の法則は、全て調和を為している。
それらの法則性は、全て一つの知性を源に発生した。
神は七日間で世界を創造した。
この記述は直接的には、執筆陣P派当時の生活リズム(典礼暦)にのっとったもの。
すなわち七日を一週としてその一日を休日とするのは、単に当時のカレンダーの反映。
七日目は創造の完成で神の休んだ聖なる日であるから、奴隷家畜を休ませよというのである。
その本意は、「聖」の絶対条件として慈悲と思いやりの必要性をうたったもの。
しかし段階的教育方針を取る聖書は、決して民に抽象論などの難しいことを語らなかった。
まず最初に、「聖とは仕事を休み、共に集って神を仰ぐこと」と平易に教えるのである。
動植物は、「それぞれ」(すなわち種類別に)創造されている。
しかし人間の創造に際しては、他の生物の場合と異なって、「それぞれ」の語が用いられていない。
すなわち人は種類に分けられない、いつも結ばれあう一つのものとして創造されたのである。
(ここには人種差別の悪がほのめかされている)
モーゼ・アブラハムの民の歴史は、各自が自分の計算によって作り出したものではない。
上から招かれたものである。
そしてこの把握は、現代に生きる我々一人一人に当てはまる。
各人が自由に選択し自主自立で作る歴史は、実は自己充足の歴史ではない。
それを見守るものは、時間枠にも名前の枠にも収まらない、ヤーウェなのである。
人「ハ・アダム」(「ハ」は定冠詞)は、土「アダマ」から作られた。
(これは一種の言葉遊びである)
(またヘブライ語の「アダマ」は日本語の「土」よりも意味が広く、有機物無機物全てをさす)
すなわち、人と他の万物は、全て同一の素材から構成されている。
しかし人は創造主の似姿として、息(霊)が注がれている。
時間外存在の息が注がれている以上、人はアダマよりなる部分が滅びようと、霊は不滅である。
(これも復活の一つの根拠)
このとき吹き込まれた「息」は、創世記冒頭の「神の霊が水の面を動いていた」の「霊」と同一の単語である。(33)
霊と息をヘブライ語が同じ単語で指し示すのは、霊という単語が知性・意思・心を意味しているから。
知性ある自由な意思のみが創造性を有する言葉を発することができる。
そしてその表明されたことばは、(人の場合)必然的に息(呼吸)を伴うからだ。
つまり、「人に息が吹き込まれた」という記述は、人に知性と意思が与えられたと把握することが可能である、(91)
ただしこの聖書の記述は、プラトン的な霊肉二元論とは大きく異なる。
「全地に生える草も、果実をつける木々も、全て与える。
お前たち人間の食物として。
また地上のけもの、空の鳥もすべて命あるものに、草を食物として与えよう。」
この創世記の記述の意は、人が獣や他の動物が他の動物を殺して食することがなかった、というもの。
すなわち、「暴力のない祝福された状態」を象徴的に表現したものである。
しかし後の2章に再び、土から人を作り、その脇の骨から女を造った、という記述が続く。
(前者の執筆はP派で捕囚期であり、後者はJ派でダヴィド王の時代である)
男女の対等、人種の不在(創造の際に「それぞれの種にしたがって」という記述のないことから)
(脇の骨から作られたとの記述は、心に最も近い部分で造られたが故に女性の尊重を唄っている、という解釈もある)
しかしそれは、人は常に伴侶を、人生を共にする人を必要としているという事実を書いたのである。
そのメッセージを伝達するために、まず男のみを登場させ、そこに女を連れてゆくのだ。
そうして男女の親密性を、人間社会があい互いの語らいによって成立する事実を述べている。
アダムは「ハ・アダム」として定冠詞をつけて記されている。
この場合のアダムは、人類全体をあらわす用法である。
それが創世記3章後半においては、定冠詞なく「アダム」と単体で用いられる。
文法上定冠詞がないときアダムは、人名をさすものとなる。
すなわち創世当初の「アダム」は複数の人の集まりとして創造されたのである。
(知恵の実を食した後)「ふたりの眼は開かれ、自分たちが裸であることを知り、無花果の葉を持って腰をおおった。」
こよなき伴侶であったはずのあい互いが、隠さねばならぬものを持つようになったという意味。
楽園では、アダマよりなる体が滅んで後、物理メカニズムに支配されない本当の不滅の体に生まれ変わるはずであった。
(楽園に「生命の木」があったと記されるのは、この過程を意図してである)
しかし人は神のことばから自らはなれ去った。
(「ことばから離れる」とは、何が正しいかを知りながら、あえて正しくない行いに踏み切ることである)
これゆえに、アダマ(土)よりなるからだが物理作用に従って滅びることが最終的な死となった。
本来の霊的な体に生まれ変わることがなくなったのである。
これを失楽という。
これを「死」というのは私も納得できる。
しかし、第一の死の後に不滅の肉体を獲得する、という概念には同意できない。
以下の順の考えに基くのだろうか?
人の知性が単一起源に由来すると考えるためには、人の知性そのものは肉によらないものと考えることが必要だろう。
たとえば相対性理論は、人(肉)の存在の有無に関わらず妥当する原理である。
この事をもって、肉に依存しないロジック、知性と考えるのだろうか?
すなわち人の意思や思考は、単一起源に由来するものではなく、独自のものであるという理解だ。
しかしがら、「真摯な悔い」・「立ち返りを求める心」等が外部からもたらされるものであるという認識ならば共有可能である。
人間の思いが単一起源と同質のものであるという究極的な楽観論に立てるならば、「復活」も理解できるのだろうか?
創世記のこの記述は、「神の息が吹き込まれて人となった」と同じ意味である。
この場合の似姿と呼ばれる所以は、人が以下の機能を造物主と同じく保有している点にある。
この観点は、人の知性が単一起源に由来するという上述の説明よりは説得的である。
本来的に人は万物を主宰していつくしむべき存在であった。
それが失楽(正しいプロセスの失われたこと)によって秩序が乱れた。
そこで造物主は、人が他の動物を殺して食し、自らの身代わりとして生贄に供えることを認めた。
ただしその際の条件として、造物主の生んだ命そのものである血を食してはならないと命じた。
血の禁忌は、動物の命を奪うことが認められるのは失楽の結果やむを得ずである、という事実を人に思い出させるため。
以上です。