本論の通常の文書は本書の引用(筆者による要約あり)であり、括弧「()」で囲まれた数字はその該当ページ数を示します。
本巻は日本古来の精神のあり方と聖書思想の共通性を探訪することが主眼に置かれております。
本論は、表題著作の読書メモであり、製作者自身の復習のために作成しました。
一巻から順に各巻を2度読んで全10巻を通読。
その上で再び第一巻に立ち返って読み返した後の本への書き込みをHTML化というものが、本論の成立過程です。
本論中のSkyBlue色にて記述される部分は、筆者が個人の見解を付加した部分です。
犬養氏の権威に由来するものでない故に、誤謬である可能性が高いです。
第一部で「古事記」、第二部で「万葉集」を日本の精神の源流として概要を考察。
その上で第三部として両者と聖書思想の出会いを探るという順で本書は論が進みます。
上記中の第一部は、筆者が古事記および神道についての理解をもたないために、別個に概要の要約を作成しました。
「日本神道のすべて」(日本文芸社)要約し、本書「聖書を旅する」8巻の示唆をもとに日本・ヘブライ思想の共通性をまとめた文書です。
日本神道のすべて
上のリンク先に収納されていますので、そちらを先にご一読ください。
故に本論は、以下の順にて論を進めます。
日本人は無神の宗教者であり無宗教者ではないといわれる。
現在の日本には奇妙な統計が存在し、それによるならば「信ずる宗教を持つ」と感じる人は2億人と人口の二倍に上るのである。
この理由の一つには、氏子や檀家の重複といったあいまいさがある。
「宗教は個人の自由選択に基く神の招きであり、生と死に関わる何事にも勝る重要事である。」
この様に考える外国人には、このあいまいさが理解されない。
しかし生死に関わる重要時をいかなる側面から把握するかは各人の文化環境によって異なるものである。
従って一つの手法に定めることは不可能であるばかりか、不敬ですらあるといってよい。
宗教の問題意識は、人知を遥かに超越したものだからである。
日本人にとっての宗教問題を考えるには、日本的心情のもととなった古代人の宇宙観を考察しなくてはならない。
日本人にとっての国土は水と緑豊かなめでたいものであり、よって民はおおらかだった。
そのおおらかさをすくい上げたものが、古事記であり万葉集である。
以上の認識の下に、不変普遍のロゴスを如何に現代に当てはめるべきか。
この問題を討議したバチカン第二公会議は同時に信教の自由を唄い、他宗教との積極的対話を宣言した。
他宗教の優れた点を見出すためには自分の拠って立つ信仰の核心が何であるかを学び続けなくてはならない。
そこで初めて、相手の持つ敬うべきものが見えてくるのである。
この二点は神道の聖書思想の共通点となりうる。
ただし、日本思想においては神と人・万物との境界は連続的なものである。
神が「家の門、敷居」や国土のごときモノを産んだり、神の子孫が人間になったりすることがその査証。
対する聖書思想においては、万物は被造物(人のみ神の息が吹き込まれる)である。
神と被造物は、全くの別物なのだ。
しかし、すべての人が神々の子もしくは被造物であって、兄弟姉妹であるという認識は両者に共通である。(78)
彼の問題点は、国生みの範囲を「大八島」に限定して何の疑問も抱かない点にある。
すなわち普遍性を持つ古事記の起源思想が、日本のみに限定されているのだ。
また、「イザナミ」が何ゆえに穢れにまみれなくてはならなかったのか?」という理性的な問いに対しても、彼は「僻事なり」としか解答しない。
形而上の思考そのものを拒絶している節がある。
他国のすべてを「ひがごとなり」とする狭量さは古事記自体には存在しない。
明治以降の極端な国粋主義の根拠となったのは、宣長が古事記注解として執筆した「直毘霊」である。
忌むべき事柄がいかにして斎(祝)うべきものに転化するかを書いたものが古事記である。
(直接的には出雲の大和への統合)
ならば、「死」という忌むべきものを通って「復活」を果たす聖書思想と共通ではないか。(120)
ヤマトの国・大八島・日本は「倭」とされ、倭の意味は「和」である。
儒・仏ともに和を尊ぶ教えである。
「儒」とは元来柔和であることを示し、論語も礼とは即ち人と和することであると記している。
和歌は人間関係を正す(和する)のに役立ち、天下を導くに有用である。
なぜなら和歌の心は神々に通じるものであるからだ。
(和歌の)「ことば」は人心の自ずからほとばしり出る発露であるが故にまことである。
悲しいときは純粋に悲しませ、喜びの時には心を飛翔させる。
この様に人々の間に和をもたらす生命力といってよい力を持っている。
ことばは天つ神の思いの表現であり、それ故に生命的創造力を持つ実在だったのである。
「みことのり」(詔)は「みことば」であり、それ故にこそ国生みや神生みといったわざが可能となったのだと古代の人は考えた。
これは言霊思想である。
ヨハネはこの認識を「ことばは神とともにあり、ことばは神であった」と表現している。
すなわち「ことば」は透明で力に満ちたものであり、生命そのものであって創造力なのだ。
自然を讃える日本の心は、森羅万象に敬うべきものを見てとる感性が背景にある。
この思想は聖書の詩篇の態度に極めて近い。
(詩篇は自然を褒め称えるが、それは自然を造った神の働きを見出すからである)
聖書では神の思いのことばによって万物が創造されたとされる。
この「ことば」を古事記では「みことのり」と呼んでいる。
即ち「・・・・の尊」という神々の呼称がそれである。
最高の価値の体現である「天照」は、洗い(みそぎ)の後に生まれている。
第一に心身の汚れをすべて取り去る洗い、そして第二にめざめの(新生の)洗いの後である。
つまり穢れをすべて取り去りたいという願いがあるからこそ、新生の覚醒が可能となるのだ。
これと同じことを、アウグスティヌスは「告白論」中に記している。
思念や行為によって犯した罪を懺悔するからこそ、喜びに満たされて神を讃えることが可能となるのである。
この両者は「忌む」と「祝う」が表裏一体を為すという認識において共通している。
日本心情における「穢れ」とは途方もなく深刻なものである。
黄泉の穢れにまみれたイザナミの描写に際し、考えられる限りの恐ろしいイメージを持って御伽噺的に語っているのはその認識の表れ。
すなわち「穢れ」とは、健やかな生命の全うされた状態から最も離れた状態のことである。
キリスト教における「罪」とは、神への意識的反逆である。
そして神とは「聖」であって、聖とは全き健やかさ、充溢する生命そのものである。
ならば聖書的罪とは、完全なる生命力からの遠ざかりとなる。
(「罪のゆきつくところは死」(ロマ書)はその認識の表れ)
すなわち日本的「穢れ」と聖書的「罪」とはほとんど同じ意味と考えてよい。
憶良・家持といった万葉の中心的歌人は、神々を敬いつつも、仏教に強い関心を示している。
神々や大君は、人生の苦・怨みや憎しみといった世と心を引き裂く物事に対しては完全に沈黙しているからである。
また神々はアマテラスの出生により清浄こそ最大の価値と教えるが、そこに到る道を教えてはくれないからである。
即ち日本古来の信仰とは信頼畏怖の想いであって、客観性を持っていない。
なぜならその信仰は倫理や救いを語らないが故に、人々が合意承認すべき対象を持たないからである。
これに対する仏教は、涅槃という終末論を持ち、そこに到る方法論を持っていた。
故に万葉人は、仏教に強い関心を抱いたのである。
そして「仁」とは人と人との係わり合いであり、とりわけ苦しむ人への同情の実践である。
「己の欲せざるところを人に施すこと勿れ」
この命題は「自分が人に今こうしてもらいたいと願うことを他人にせよ」というイエスの言葉を否定形で語っている。
「十七条の憲法」に取り入れられた「論語」の「礼はこれ和を用うるを貴しとなす」はまさに聖書に共通している。
仏教は無常を認めればこそ、涅槃という恒常の終末があることを説いている。
聖書は万物の相互依存(仏教の「実在」の否定根拠)を真実とするものであればこそ、相互の係わり合いの重要であることを告げるのである。
この関係性の重要性を論語は、「仁」「礼」「徳」として語っている。
以上です。